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父親2.0

背後にかすかに感じていた冬の気配が。
おそらく今日の昼過ぎに俺を通り過ぎて、夕刻ごろ真っ白な息を吐いてこちら向いてあかんべぇしてきた。

俺は今日も険しい山の斜面にとりついて、午前は雨でポタポタと、けども地面から脈打つ鼓動が聞こえるくらいにぬんぬんと温もりさえ感じていて。

雨だのに、上下ヤッケを着て濡れては高ぶる体温で全身から水気を蒸散させて常時活動的であったから、冬の野郎が俺の周りでルンルンにダンスしてやがることに気がついた頃には冷や汗。

活動後の汗の蒸散も冷ややかに、ふと気がつけば辺りは真っ白で、5時も近づけばあたりも暗い、どうりで目の前の草木から苗木を見分けるのが困難で何本か苗を切っちまったわけだ。

おかしいな、ブンブンと草刈機の竿をぶんましていてると目前が白く煙る時があって、気がつけばそうか俺の口からこのモクモクの雲が発生していたのか、逆算して知る寒さ。ザムザ

まるで認識は機械の見る夢のようにこんな感じで作業中の俺はマシーンに四肢を動かしている、一歩ごとに体のどこかに刺さる何らかの棘が痛い痛いから、脳みそからアドレナリンというやつが出てきて痛くてもまた一歩踏み出す俺を闘争モードに捲し立てる。

恐怖に駆られた兵隊さんがアドレナリンから自制心をコントロールしてなおも理性で指先をコントロールするときの冷たい自分。

まるで天国からのびる操り糸で現世の自分を動かすような冷めた理性が、あっと驚く寒さに気付くそしてくつろぐこんなマシーンにもちゃんと帰ってきた人間性おかえり。

今日は山のテントを横目にほたくって、突然の寒気に逃げ降りて、漫喫に泊まる、リンガーハットで餃子定食食って、スタバで読書、このあとランニングして(アスファルト!)漫喫の個室で筋トレして、無料のシャワー浴びて、数冊目が合った漫画でも読んでごろんと横になって寝る、目をつむればエアコンの音、喉がカラカラと乾く、贅沢。

作業中、半日は耳栓をつけて草刈りをする。もう半日はYouTubeで気になるものを聴きながら作業するのが最近。

今日は、千葉雅也や成田祐輔や宮台真司や岡田斗司夫や清水有高や落合陽一、それぞれしゃべってるものを聞いたのだが、合致と腑に落ちたものがあった。

「やっぱり人生において大切なものは努力だな」

昨今の人気の発言者はライフハックなどという題目を掲げ、まるで努力とは無縁、ほんの少しのポイントをいぢくれば人生はうまく行くとうそぶく。
が、それと同時に国民のだいたいはクズであり、国家の行く末を絶望視し逃亡を煽る。

しかし、これら行き場所のない扇動に煽られる必要はない、あくまでも問題は実存についてである。
俺たちがこの俺たちをとりまく実存の問題とどう渡り合うかなのだ。大切なのはこの実存のクオリティを高めるための取捨選択だ、誰が何をしているか、だから俺はどうしよう、ではない。

世の中にはどんな奴がいて、どんな影響を俺に与えるだろうという興味は尽きないけれども、本質はその興味ある人々の内実、彼らは何をしているか、だ、ひとつ言えることは彼らは彼らの、<ここ>というところに日々の自分の時間を重ねている。

努力とは、何か自分から離れたところにある、成りたい自分への投資に時間を費やすというものでは、続かないと俺は思う、それはここにあるし、日々自分が気持ちよくやり続けていることの中にある、それをもっと気持ちよくなるまで擦り続けること、快楽を追求するような努力。

俺からすれば読書は気持ちい、読めば読むほど気持ちよくなる、トレーニングも然り、それで良いのだ、作文も然りそれで良いのだ、すべて努力である。

それは石ころが石ころである力に似ている、俺が俺であろうとする、自分を光なき無重力の中に放り投げた時に自然、引っ張られるベクトルのこと、そちらに目を向けてその気持ちよさをさらに開発し、果ては自分だけの快楽の源泉を惜しみなく掘りこむことだ。

承認のいいねの嵐にさらされる天然の者どもの多くは承認されたいと聴衆に向かってどう?どう?なんていちいちへりくだらない、やりたいからやっていてやりすぎたがために出過ぎた杭になって晒されてるだけだ。

以上のような努力は全て実存の充実以外のなにものでもない、来年の豊作を願う必要などまったくない、今日の自分の中に眠る明日の筋肉の張りにときめきながらプッシュアップをする。

そしてその気持ちよさに、最近、また少しずつ気付きはじめている、ほんとは全然それどころではない、去年今年と、育児、出産、つわりとで何ヶ月も仕事を休みまくった皺寄せの波に絶賛呑まれていて経済のことを考えると今すぐにでも鬱になれる。が、母ちゃんツワリと出産での入院時、子供ら2人との男3人暮らしのあの日々を想うと、あれらの夏の日々は眩しすぎるほど輝いていて借金してでも過ごすべき時間だったし、今も皺寄せにあっている今年の取りすぎた家族休暇の日々もまた掛け値なしだ、経済的困窮など問題ではない。父親2.0。

そして父もまた努力をしても良い、大変さや忙しいだけが父ではない、社会的無意味な活動に多大な労力を掘り下げて到来するかしないか偶然のギャンブルのうちに、輝く自分とともに待つ、春が来なくても自分が発火していたらそれで良いのだ。

努力は遺伝するという、実力も運だという。だからどうした?実存のクオリティの鍵を持つのはいつだって自分だ、そしてこれこそが社会全体に行き渡って持つべき問題意識だ。

俺たちは文句を言うほどに被害者なのか?自分の気持ち良い努力をしたか、自分への納得感とのせめぎ合いなのだ、経済問題も、誰かが俺に命令してくることも、父親としてしなきゃいけないことも、俺と俺との関係に関係ない、俺は俺のここというところに時間を重ねる、そうしなくてはいけない、メイウェザーが天気関係なしに毎日80分走るように。

俺は仕事することと、父親することにずっと捧げてきたがそれは努力を放棄することと同義かのように感じていた、けどもそれら努力の放棄は、怨念をもって自分自身に必ず返ってくる、俺は恐怖した、腰痛も体重の増加も、肌艶も、責任を全うしたからという言い訳では済まされない、俺は努力を放棄していたような気がするんだ。仕事の評価をするのは山でひとり自分しかいないし、誰も叱ってはくれない、甘えていた、どこまでも甘えていた。

30で死んだような気がしていたが、そうだ俺ももうあれから6年も生きている、生きている意味のない生ならもったいないからやめちまえよ、やるんか?やります!やります!全然やります!

人生は作品作りに似ている、これは作品なんだ、配信やSNSの危険を感じるのはここだ、成田祐輔の指摘が胸に刺さる。SNSで自分をさらし続けることは溜め込んで作品を作り込むということの邪魔になる。ネット漫画に不朽の名作がまだ出てこないのはそういうことじゃないか?と。

千葉雅也はライブ配信で生活をさらすことをポルノと同義のように語っていたが、まさにそうだと気付かされる。

相互監視のネットワークの中でひとりこそこそはげむことが、表にひるがえって日の目に当たりすぎている、人々は秘密の中で自分を鍛えるものなのだ。

しかしネットやSNSの進化においての文章でのSNSなんてもはやほぼ個室w

ひとり言のように幾人かの目に晒される想定で描く引き出しのノート、素晴らしい。

つまりSNSは人々から<努力>をひっこ抜いてしまうということではないか、俺がこの文の中でも昔から危惧していたようにSNSの発信が安易になるほどに自己そのものが安易な個性となり下がってしまったのだ。

ここは多分、俺の公然の秘密の保管場所として俺の日々の努力について語る場になるだろう、このように書くことそのものが、俺のここと言う場所に時を重ねるということであり、これこそが俺の最大の癒しであり最大の武器であり続ける。

父親を続けながらも自分と折り合いをつけるということは、こんな風に自己を複数化することなのかもしれない、目が合うたび、思い出すたび腰を抜かすほどの愛に打たれる子供たちや家族、そのたびに生じる父親の感覚、それら価値観や普通の感覚も違う5人の人間集まった家族を運営することを考えどうやって稼ごうか考える父親性。

それとはまた別の父と父で父ではなくなってただの俺になる、そんな小部屋が必要だ、ウルフが女性にも個室がいると言ったように。たくさんの自分を並列させながら、秘密の自分に水をやる、石が石であるように、自分が自分であるための努力。

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