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【読書感想文】愛のかたちは星の数ほど

恋愛って本当に千差万別で、人によっていろんな「愛」の形や関係性があるし、そのどれもがその人たちにとっての正解なんだなぁ。そんな至極当然だけれども、つい忘れてしまって袋小路に入り込んでしまうわたしの首根っこをやさしく咥えて、あたたかく安心できる巣穴に連れ戻してくれる母猫のような。三浦しをんさんの『君はポラリス』は、わたしにとって、そんな本だった。

『君はポラリス』は、三角関係や不倫、片想いや夫婦など、さまざまな形の恋愛についての短編をひとつの本としてまとめたものだ。

たくさんある物語たちの中で、わたしが特に自分の過去の恋愛に近いと感じたのは、『裏切らないこと』と『わたしたちがしたこと』だろうか。

「あんたのお母さんは、幸運だとも言えるね。もし本当に、本気を貫く男に会っちゃったら、一大事だから」
「なんで?」
「本気を貫くってことは、一度気持ちがそれたら、もうそれきりってことだ。浮気だなんだって、手軽な刺激をくれる旦那のほうが、よっぽど安心してられるし扱いやすいってもんだ」

[中略]

「もし本気を貫く男に会ってしまったら、『次』なんてないからね。すべてを捨てて受け入れるか、全力で逃げるか、どちらかしかないんだ。それはけっこう、しんどいことだよ」

『裏切らないこと』

この言葉の意味を、本当に共有できる人に、わたしは人生の中で出会ったことがあっただろうか。そして、これから先、出会うことがあるのだろうか。もちろん、その「本気を貫く男」以外に。

「愛」ってのは、「現在進行形で大切」ってことだったんだなあと、俺は埃くさい倉庫のなかで思った。

『裏切らないこと』

彼のこの言葉が正しいのであれば、- そして、わたしはその言葉が正しいと思っているのだが - わたしも"彼"もお互い未だに「本気を貫く女」であり、「本気を貫く男」であるということだ。

それでも、記憶の中のあのおばあちゃんが若かりし日のあの人に言ってきかせたように、「本気を貫く男」にであったら、すべてを捨てて受け入れるか、全力で逃げるかしかない。果たしてわたしたちは、どちらを選んだんだろうか。はたまた、そのどちらかを選択することを保留にし続けて生きているのだろうか。そんなことを、いろんな恋愛や関係性を築く中で、漠然と悩みつづけていた。

でも、選択肢はそれだけじゃなくていい。それは『わたしたちがしたこと』の中で"彼女"が最後にはなった、たった一言に集約される。

素敵な不毛だ。

『わたしたちがしたこと』

「それだけじゃない選択肢」が美しくかつ尊いものであることを教えてくれたのは、『わたしたちがしたこと』の彼女だった。


きっと、わたしが「愛」と定義する感情の形は、おそらく一般的な「愛」に比べると特殊というか、重ためのものなんだなっていうことを、これらのさまざまな恋愛短編集を読んで客観的に認識することができた。でも、冷静に考えて、『裏切らないこと』や『わたしたちがしたこと』レベルの愛がそんじょそこらに転がっているわけではないだろう。それに、そんな深すぎる愛が、心地よいだけのものとは限らない。


まだもなにも、ここ数年、自分が結婚したいのかどうかもよくわからなくなってきた。

[中略]

結婚するなら俊明がいいなと漠然と思いはするが、いますぐに関係を変える必要性も感じない。一緒に住んでいるんだし、気心も知れているんだし、行けるところまでこのまま行けばいいやと思う。

『優雅な生活』

今のわたしは、こんなことを考える『優雅な生活』のさよりの気持ちもわかるし、『森を歩く』の語り手である "うはね" の「一体全体どうして自分はこの人と一緒にいるんだろう?その先になにがあるんだろう?でも、なんだかんだでやっぱりしっくりくるんだよな」みたいな、「そもそも自分は彼のことが好きなんだろうか?現実的に考えてどうなんだろう?もっと自分に合ってて好きになれる堅実な人がいるのかもしれない」なんてことをぐちゃぐちゃと考えながら、でも結局、理由なんてわからないけど「この人のことが好きなんだよな」ってところに着地してしまう気持ちも理解できる。


『裏切らないこと』『わたしたちがしたこと』と『優雅な生活』『森を歩く』の両方が、わたしの中には同時進行系で存在している。そのことを、まちがっていると思っていた。『裏切らないこと』の中に登場する記憶のなかのあのおばあちゃんが言っていたとおり、すべてを捨てて受け入れるのか、全力で逃げるのか。どちらかを選ばなければいけない、と。
もしくは、それができないのであれば、『優雅な生活』『森を歩く』的恋愛を『裏切らないこと』『わたしたちがしたこと』まで引っ張りあげてこないといけないと思っていた。そうじゃなければ、わたしは「あなたのことが好き」という権利と正当性をなくしてしまう。

でも、そんなことはないだろう。

『永遠につづく手紙の最初の一文』の中で "彼" が "あの人" が自分ではない別の誰かとの未来を想像して、口ではおめでとうと言い、祝いの置き時計かなんかをわたしつつ、家中に「別れろ別れろ別れろ」の呪いの五寸釘を刺すだろうという描写には、心の底から笑った。「めっちゃわかるわぁぁぁぁ」と涙目になって笑った。

同時に "彼" は "あの人" の幸せを、 "あの人" のことを裏切らず、本気で愛してくれる人が現れることを、"あの人" の未来の結婚生活を呪うのと同じ強さで、心の底から望んでいるのだ。その矛盾のすべてを、わたしは深く理解する。理解するだけではなく、尊い宝物であると認識する。

そのすべてを自分の内側に大切にしまいこんだ上で、わたしはこの先も誰かに恋に落ちて、愛していく可能性を信じて、未来が確約されていない恋愛という名の道を歩いていくのだろう。

愛にはいろんな形がある。人それぞれに大切にしたいものや価値観、基準があって、目指したい愛の形や関係性というものが存在する。目の前に現れる相手に対して抱く「愛」の形も、その時々できっとちがう。ちがっていていい。同じである必要性なんて、微塵もない。「愛の深さ」を比較しようとする必要すら、一切ない。ただ、あるか、ないか。それだけのこと。

「愛」とは、「現在進行形で大切」と思う対象の数だけ存在する。
「愛」は、その対象がどれだけ増えたとしても、減っていくことはしない。
それは、子をもつ母親ならきっとわかる。2人以上の子どもをもつ母ならなおのこと。
子どもでなくともいい。親友、家族、恋人、後輩、先輩。
恋人だけに抱く感情が「愛」ではないのだ。

「愛」の形は、千差万別。
自分という一人の人間の中にも、今までの人生の中で出逢った「現在進行形で大切」な人の数だけ「愛」の形がある。

だから人は、何度でも人を愛するのだろう。
傷つけられても、裏切られても。
「愛」の形は、常に変わり続けるから。

過去の「愛」と現在の「愛」、となりのカップルの「愛」と自分たちの「愛」を比較する必要はない。ただ、あるか、ないか。それだけのこと。



【過去の恋愛に関するエッセイや創作】



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