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時代の先駆者の孤独に想いを馳せる

少し前、女性の先輩と友達の中間くらいの関係の人と仕事関連の話でランチをした。

どうでもいい話なんだけれど、そのくらいの間柄の関係って、なんで名前をつければいいんだろう?知り合いよりは近くて、でも親友って類の友達よりは距離があって。そういう関係を、一般論的に人は「友達」と呼んでるんだろうか?仲良くしてもらってる人?長いな、、、

多分だけど、わたしの中の「友達」の定義と世間一般の「友達」の定義って違うのかもしれない。わたしにとって「友達=親友」の感覚がある。(正確には=ではなく、ニアリイコールくらいだけど)


まあ、そんなことはなんでも良くて。
いや、なんでも良くなくて、それも今日書こうと思ってた内容に通じるのかな?


とにもかくにも、その人と結婚とか恋愛について話をしていた。彼女は40代に入ったばかりで、ちょうどわたしより10個年上。

わたしの恋愛観や結婚観を聞いて、すごく衝撃を受けていた。「そんな考え方、自分の世界線に存在してなくて、世界がひっくり返ったくらい衝撃を受けてるわ、、、そうか、、、知らない間に、わたしもいろんな世間の常識に染まってるのね」って。

わたしの結婚観というのは、別にそんな特別なものでもなくて。

ただ、お互いにとって「結婚していないことのデメリット」と「結婚することでのメリット」が、「結婚することでのデメリット」と「結婚しないことでのメリット」を上回ったとき、結婚すればいいと思っているというだけの話だ。

でも、そうか。
これって、そんなにびっくりされるような概念なんだな、、、と、逆にこちらもびっくりしたというか、衝撃を受けた。


高校の頃から、親友たちには「つむは同い年だけど、わたしたちの5年くらい先を生きてる気がする」と言われていた。わたしが高校生の頃に親友たちに語っていた恋愛観とか人生観、悩みや葛藤を、親友たちが実体験として経験したり、理解できるようになったのは、わたしたちが大学生になった後。

「今になって、高校のときにつむが言ってたことの意味がわかったよ」と言われたのが、すごく自分の中で響いている。ほら、間違ってなかったじゃん。やっと、追いついてくれたことが、嬉しかった。


そこからさらに年月が経って、最近では幼馴染と化した親友たちには「つむはミレニアム世代っていうか、もはやZ世代の人間だよね」と言われる。「5年とか10年先を生きてる感じ」と、さらりと+5年加算されていた。

実際、10以上年下の親友に近い立ち位置の友達もいて、その子とも話はすごく合う。違和感とか、歳の差をあまり感じない。ネットの使い方は、やっぱ進化してて、これを小学校から経験して育ってたら歪むだろうな〜大変そうだな〜とは思うけど。

使い方自体に関しては、そんなに違いを感じない。
人生や社会に対する感覚も、そこまで差異を感じない。


そんなこと言って、年下の親友がそこまでたくさんいるわけでもないから、結局は分からないんだけど。

ミレニアム世代とかゆとり世代とか、社会はいろんな名前をつけてくる。「これだから、ゆとりは」と言われて育ってきたのがわたしたちの世代だ。ふざけんなよ、と思った。

国の政策で、偶然そのタイミングで小学生くらいを過ごしていただけで、それで後から「ゆとりはこれだから、、、」なんて言われても、そんなのこっちは知らないよ。

そして今度は「最近のZ世代は、、、」なんて言葉が飛び交う。


好きにしたらいいと思う。
自由でいいと思う。
なんでもありの人生なんだから。

わたしは、Z世代が持つ、すべてを諦めているからこその虚無感からくる、すべてに対する包容と受容と容認の感覚、好きだよ。すべてのZ世代に当てはまるわけじゃないことも重々承知の上で。


とりもない話になったけど。
要は単純に、自分の価値観や世界の見方って、やっぱりまだまだ年上たちの中では少数派で、異質なんだろうなって思ったってこと。

でも、下の世代は「?そんな在り方も別にいいんじゃない?なんでダメなの?」とキョトンとした顔で言ってくれる。

そのキョトンとした顔に、わたしはすごく救われるんだ。

やっと、仲間が増えてきたなって。共有できる人たちが増えてきたなって。やっと、自分だけじゃないって思えるような時代が始まるんだなって。

だからきっと、やっぱりわたしはさみしかったんだと思う。時代の先駆者だなんて烏滸がましいこと言うつもりはないけれど。いわゆる時代の先駆者と言われる人たちも、こんなさみしさを抱いて、それでも見える世界、感じるビジョンに嘘はつけなくて、理解されなくても、孤独でも、道なき道を走ってたんだろうか。

そんなことにまで、ふと思いを馳せた。

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