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家族を想うとき

2006年の『麦の穂をゆらす風 』と、2016年の『わたしは、ダニエル・ブレイク』で2度のカンヌ映画際パルムドールに輝いているイギリスの巨匠ケン・ローチ監督が、引退を撤回してまで作った(まぁ、引退撤回は2度目らしいんですが。)、世界的に拡がる格差とその構造をフランチャイズという搾取のシステムを通して描いた最新作『家族を想うとき』の感想です。

2019年最後に劇場で観た映画なんですが、ある意味2019年最高の胸クソ映画だったかもしれないです。悲しさとか怒りとか空しさとか、様々な感情がぐちゃぐちゃになって途中から観るのが辛かったんですが、この映画で知ることは正に今、世界で起こっていることなんだと気を取り直して観てたらあのラストですよ。ありがちなエンディングには辟易としていたはずなのに、何でもいいからフィクションとしての救いをと、エンドロール後の展開に期待するも空しくそのまま劇場の灯りが点きました(そして、しばらく立ち上がれませんでした。ケン・ローチ監督、83歳にしてなんという切れ味かと。)。とはいえ巨匠ケン・ローチ作品。辛い現実を見せられながらも「面白い映画観た。」っていう充足感も凄くて。天才とか巨匠って言われる人たちの所以なんだと思うんですけど、きっと何を撮っても"映画"になっちゃうんでしょうね(例えば、キューブリックとか、ヒッチコックの作品なんか観てても思います。)。現実を淡々と描写してるだけ(つまり、監督の意思や思想なんかはほとんど入ってない様)に見えるのに、その怒りややるせなさ、劇中の家族に向けられた優しい目線なんかには確実にケン・ローチ作品だなと思わせる空気があって。だから、めちゃくちゃ辛いんですけど映画として凄く豊かで繊細で面白いんです。

イギリスのニューカッスルという街に住む父、母、兄、妹のどこにでもいる様な4人家族が主人公で、父親のリッキーが再就職する為の面接を受けてる。宅配ドライバーの仕事で、いわゆる今流行りのフランチャイズ制の仕事なんですけど、フランチャイズであるということはどういうことかっていうのを会社から説明されてるんですね。「雇用関係ではなくビジネス・パートナーだ。」とか、「出社時間もタイムカードもないので好きな時に働ける。」とか、「働けば働いた分だけ自分の儲けになる。」とか、「配送用の車は自車を用意してもいいし会社から貸し出してもいいが、その場合はレンタル料金が掛かる。」とか、「個人事業主なので自分の責任で何でも出来るし煩わしい人付き合いもない。」等々。要するに、全てはあなた次第。上手くいけば儲かるけど失敗した時の責任は全部自分で負ってねってことを言っているんですよね(だけどこれ、テレビやネットの仕事探しのコマーシャルなんかでよく聞くセリフでもありますね。)。リッキーはいまいち理解してないんですが、とにかく雇ってくれるならってことで契約します。家に戻って妻のアビーに配送用の車を買わなきゃならないから今使ってる車を売りたいと相談しますが、その車はアビーが介護士の仕事で使っているものなんです。多少無理してでもまずは仕事を得ることが先決なのでアビーはバス通勤するということで了承します。というのも、ふたりには家を買うという目的があるんです。確かに、子供2人との4人家族でのアパート暮らしは窮屈そう。子供たちの将来を考えればそれは当然のことで。リッキーはそれまで建築現場で働いていたんですが、いろいろあり(これがあのリーマンショック、サブプライムローンのせいらしいんです。)家を買う為に貯めていた貯金もなくなり、心機一転、一から家を買う為に働くぞというのがこの映画の冒頭部分なんです。なんか、全てがよくある話で、家族モノ映画のあるあるネタを見てる様なんですけど、じつはこの映画、基本的にこの家族モノあるあるが続くんです。

思春期の息子のセブが学校で問題を起こすのも家族モノにはよくあるエピソードですし、妹のライザが家族のことを思ってした行動が問題になり、それが逆に家族の絆を深めるなんてのも、仕事が忙しい両親の気持ちがすれ違って行くってのもよく分かるエピソードじゃないですか。ていうか、これらの問題を乗り越えることによって家族の絆が深まるというのがこの手の家族モノの一番の共感ポイントだし、この家族にはそれが出来るだけの設定とドラマが用意されてるんですね(家族ひとりひとりのキャラクターがどんな風に複雑で、どういう想いを抱いているのかがもの凄く丁寧に描かれるんです。この辺りの人物描写がほんとに素晴らしい。)。でも、そうならないのがこの話と言いますか。そうさせない"何か"が描かれるんですけど、それが何なのかっていうのがジワジワと分かり出すとほんとに恐ろしい。つまり(いや、実際何が恐ろしいのかは映画観て感じてもらった方がいいですね。)、夢とか自由とか責任て言葉を自分より上の立場の人間が使い出したら信用するなってことと、それらの言葉を使う場合、権利や尊厳ていうのとセットになってないと全く意味がないってこと。そして、リッキー家族にも当然その権利と資格があるってこと。それが痛いほど伝わって来るんです。

この映画で、ケン・ローチ監督がフィクションである最大のメリット"救い"と"結論"を描かなかったのは、これが現在進行形の話だからで、そして、どの国の人にも当てはまることだから(「万引き家族」も「アス」も「パラサイト」も同じことを扱ってる映画ですからね。)なんじゃないかと思うんですよね。現時点では、どんなにお互いを想い合う家族とその絆を描いても現実(の理不尽さ)に負けてしまう。だから、ここに答えはない。問題の根幹は何なのか。それを各々が考えるべきだっていうメッセージ(ウーバーイーツの問題も、時短営業に踏み切ったセブンイレブンの店長が本社から契約解除されたのも正にここ日本での出来事ですからね。上から目線で「幸せになって欲しい。」なんて言ってる場合じゃないんですよね。ほんとは。)なんじゃないかと思ったんですよね。

あと、映画的なことをひとつ付け加えておきますと、配役にほとんど素人の人たちを使ってるらしいんですが、演技が(会社側の人間マロニーも含めて)ほんと良かったですね。あと、若者代表として描かれる息子のセブがちゃんと社会を見ているって描写になってるのも良かったです。もしかすると、この映画の中で唯一の希望的描写かもしれないです。

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