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グラム・ファイブ・ノックアウト 3-5

 病院を出る頃には夜になっていた。
 時間は遅かったが編集長さんは決して家まで送ってはくれなかった。
 未熟児だった時間が長かったせいで、毎日薬を飲んでいると言っていた。体の節々が痛くなる病気だそうだ。
 僕にはよく分からない。若いからそういう感覚になれないということではない。そういう過去を背負っていないということだ。
 尊敬しないが、すごいとは思った。
 今度、俺の体調が良かったら、年上らしいことの一つや二つはしてやると言って去っていった。
 病院を出る瞬間、編集長さんは大柄な男と体がぶつかった。大柄な男の方は、何か分からないが含み笑いをしながら編集長さんに近づく。距離が少しずつ狭まると、安心しきったような表情の大柄な男と違い、編集長さんは緊張した表情で服の内側から何かを見せる。
 黒くて細長く、突起物が見えた。
 鉄製で滑らかな感じは全くない。なるべく人の体を拒絶するように作られているように見えた。そしてここから分かるくらいに油っぽかった。
 編集長さんが、地面と平行になっている部分を何度かスライドさせる。 大柄な男の方が視線を切って、病院内を何事もなかったように歩き始めた。
 編集長さんは僕に気が付くと、鼻で笑って片方の手をあげた。
 小指と薬指がなかった。
 僕の向かう方向は逆だ。病院の正面の方ではなく裏通りの出口から出る。家へと向かって歩いた。
 家が見えてきた。それと同じタイミングで自動販売機とコンビニも見えてくる。喉が渇いていたのでお茶を買うと、コンビニの中がいやに騒がしいので見入ってしまった。
 コンビニの中では酔った会社員が、店員に詰め寄って近くにあったおでんの汁をお玉ですくってかけていた。熱がる店員を見て笑っている。
 おでんの汁を掛けられている店員は少し誤魔化すようにして笑い、かけてくる男のことを見ていた。だが、目は笑ってはいなかった。
 奥にいた店長らしき人がその酔っぱらいを見つめながら携帯で電話をしていた。
 それから十分もしないうちに酔っぱらいはパトカーに乗せられた。おでんの汁を掛けられた店員は顔が赤くなっていた。火傷の跡は残るかもしれない。
 パトカーの中でも酔っぱらいは上機嫌で、警察官の顔を何度か小突いていた。確かこの前も酔っぱらった勢いで堂々と万引きして店員を殴っている所を見た。
 かなり前だが、近所の人に最近あの人は離婚したのだと教えてもらった。
 仕事も休みがちだそうだ。
「ねぇねぇ、あの人どうなっちゃうと思う。」
 援交をしていた女子生徒が殺されると教えてくれた、中学生が僕の家の前に立っていた。
「ねぇ、死ぬかな。あの援交してた女子生徒みたいに。」
「分かりません。」
「でもさ、もう終わりでしょ。」
「終わりかどうかは分かりません。」
「でも終わっているかどうかの判断って、簡単だよ。」
「どうすれば、分かるのですか。」
「周りの人間が、あいつって終わってるよなって思ってたら、そいつは終わってるよ。」
「一理あると思います。」
「お兄さんはさぁ。」
「はい。」
「終わってるよね。」
 中学生はけたたましく笑って僕の肩を何度も叩いた。少し痣になるのではないかと思うほどで途中でかなり嫌になった。
 この中学生がいるということは。
 ソラトブヒカルネコなのか。
「あそこに会いに来てるよ。」
「あそことはどこですか。」
「お兄さんの家の中。」
 僕は中学生の横を抜けると門をくぐって、小さな飛び石の上を走り、扉に手をかける。
 鍵が開いていた。
 中に入る。
 テーブルの上には猫がいた。
 二三回、あたりを跳ねまわると後ろ足で積み上がったカセットテープを蹴とばした。散乱することで乾いた音が聞こえてくる。
「これはお兄さんの置き土産ですかねぇ。」
 カセットテープのうちの一つに、前足と後ろ足を乗せてそう尋ねてくる。
 礼儀正しく、行儀というものを知っている。人間のように振る舞い人間のような言葉使いをする闇に溶けやすい危険な猫。
 あの猫がいる。
 名前はソラトブヒカルネコ。
「きみのお兄さんには助けられてねぇ。」
「そうですか。どうして助けられたんですか。」
「君のお兄さんが都市伝説を解決してくれたおかげで助かったんだよ。」
「そうですか。」
「だから、君のお兄さんを殺そうとする、君のことは必ず殺す。」
「殺しますか。」
「あの記者連中共も殺す。」
「全員殺す予定なんですね。」
「その予定ですねぇ。」
「狂いませんかね。」
「狂わせる可能性のあるものも殺してしまいますからねぇ。」
 ソラトブヒカルネコは、こちらとの心の距離を崩す気はないようである。
「君のお兄さんが、都市伝説を解決するんですけどねぇ。」
「はい。」
「大変だったのですよ。」
「何がですか。」
「僕も探偵なのですよ。」
「どういう意味ですか。」
「都市伝説に関係する事件をいかに解決するかということは、頼まれた探偵からすると大変なのですよ。事件自体に全く掴みどころが全くないでしょうし、それによって解決を頼まれた依頼主にどのように報告しなければいけないかも、困ったものですから。」
「兄さんが事件を解決すると、それによって利益があるんですか。」
「勝手に解決してくれるのですよ。そのおかげで、仕事をする必要もなく、簡単な解決の手段をとることができます。」
「何もしていないのと同じでしょう。」
「貴方のお兄さんに直接会って、話すこともあるということなんですがねぇ。」
「兄さんと会っているのですか。」
「彼に事件を解決させているのは、僕といっても過言ではないのですよ。」
 都市伝説の裏にも、同じように都市伝説的な解決方法を辿る人間がいた。そのことは決して不快ではなかった。
 兄さんは自分で努力することを苦にしない人間だった。
 別に善人ではない。
 というか悪人のような人間性もその中には見出すことはできない。
 努力するという手段が、他の人間たちにはどのような面倒さを抱えるものであるかどうかということを兄さん自身が理解できていないのだ。
 過去も現在も。
 そしてこれからも。
 ソラトブヒカルネコは笑っていた。
 少なくともそう見えた。
「兄さんを利用しないでください。」
「彼は何とも思っていない。」
「兄さんが思っていなくとも僕は思っています。」
「彼は、どんな都市伝説が起きる場所にも訪れて、そこで勝手に捜査している。私はそれに準じた都市伝説に関係する事件の依頼を逆算して受けることで、あらかじめ君のお兄さんが調べていた事柄と私の情報との合わせ技によって、早々の解決を行う。そして、依頼主に君のお兄さんが暴いた真相を知らせる。それによって多くの物事は解決しているのですがねぇ。」
「解決していることは分かっても、その利益を手にしているのは貴方だけです。」
「依頼を受けているのは私なのですから当然でしょう。それに彼はそのことを気にしていない。」
 ソラトブヒカルネコという名の探偵は、自分自身に探偵としての価値がないということを重々理解している。
 ソラトブヒカルネコと兄さんは違う。
 兄さんは自分の価値を全く理解はしていないけれど、それ以上にありとあらゆる価値を持っている。
 ボーイスカウトリーダー。
 連続殺人鬼。
 逃走犯。
 探偵。
 僕は今後も兄さんにはなれないだろう。けれど、その兄さんのためにできることはあるだろう。
「いかに他人がどれだけ優れていると言っても、重要なのはそれによる結果というものをどの人間がものにするかということなのですよ。あなたには分からないかもしれないけれども、重要なのは圧倒的な才能でも努力でもなく、その上澄みを救い上げていかに利益に変換できるかということなのですねぇ。君のお兄さんがいかに優秀なのかは、私の知るところではありますよ、それは当然です。勝てませんよ。でも人生は勝負ではありませんし、彼を利用することで利益を生み出すこと自体を彼が良しとしているのであれば、その上澄みを飲み干す権利はあるでしょう。その上で考えれば、行動に移すことは何の問題もないでしょう。」
「問題はありませんが、そこに貴方は必要ありません。」
「私がそこに不必要ですかねぇ。」
「最早必要、不必要の問題ではありません。」
「必要なのは、君のお兄さんであって、そこから生まれる利益であって、その利益を独占する誰かでしょう。私自身も、今現在ではその利益の上澄みによって事件の解決に着手しなくとも相談役として動くことで多くの利益を得ていますしねぇ。」
 兄さんに金の臭いを感じているのは、決して悪いことではないだろう。人間である以上、経済活動の中に入ることでしか満足に生きていくことはできないのだ。不憫だけれどこれが事実であるしこうでなければ人間の文明は進歩しなかった。
 粘着質な悪意と金銭的な感覚による捩じ切れた人間性の羅針盤が、どこかソラトブヒカルネコの本質であると思えた。
 純粋な悪意などではない。
 人間らしい歪んだ悪意をそこに見た気がした。
「殺しますか。」
「だから、当然、殺すつもりですよ。」
「利益のためですか。」
「利益以外のために人を殺せますかねぇ。」
「利益を度外視するという言葉があると思いますが。」
「その言葉ほど、利益というものを考えている言葉はないと思いますがねぇ。」
 家の中には僕とソラトブヒカルネコだけがいる。
 そのつもりだった。
 部屋の中には置物がある。
 あの置物は兄貴のこだわりが詰まっている。
 自分で作ったのだ。
 だから、どの方向で置くべきかが決まっているし、兄貴は絶対に触らせなかった。どんな時でさえ、その置物に関係する事柄はすべて兄貴の手によって行われていた。
 それを見た。
 その置物は、僕が家に帰る前と後で間違いなく動かされていた。
それだというのに様になっている。
 むしろ、良くなっている。
 ということは、だ。
 兄貴はここに帰って来ていて、置物を間違いなく動かしている。
 ソラトブヒカルネコを見つめる。
 少しばかり鳴いて、テーブルの上を三週。また定位置のように、テーブルの真ん中で座って僕を見つめてくる。
 気づいているのか。気づいているように見せかけているのか。
 でも、どちらにせよここに兄貴はいない。
 そういう性格ではないというよりも、この家から兄貴の臭いはしなかった。
 ただ視覚によって確認できる兄貴の痕跡がある。その痕跡も兄貴が無理に残していったものかもしれない。ソラトブヒカルネコには分からず、僕だけにはこの家に戻ったことを告げる手段だったのかもしれない。
 いや。
 かもしれないではない。
 そうに決まっている。
「兄はどこですか。」
「僕も知りたいんだよねぇ。最近、会っていないものでね。」
「最後に会ったのはいつですか。」
「覚えてはいるけれども、そこから推測するよねぇ。」
「何を推測すると思っているんですか。」
「お兄さんがどこにいるか。」
「はい、推測して殺します。」
「だから、君のことはグラウンドで殺してやろうと思ったんだけども。」
「脅しですか。」
「脅しだけどねぇ、殺してもいいと思っていたねぇ。」
「女性記者は生きています。」
「後遺症が残るように殴ったんだけれど。」
「兄さんは貴方にとってただの金を稼いでくる道具ですか。」

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https://note.com/erifar/n/nbf05fa3ae594

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