挫折のハサミ
それは昨日のことでした。ついにやってしまいました。
書き始めて以来ずっと続けていたノートの投稿が、昨日ぷっつりと途切れてしまいました。
理由はただ、忘れてしまっただけのこと。本当にただ純粋に忘れていました。
154日で破綻
ノートって投稿する度に「連続投稿何日目」といった表示が出てくるんですよね。それが確か一昨日は「154日目」と出ていたと思うんです。
コツコツ続けていることが数値化されて返ってくると、なんだかその行為自体に意味があるような確信を覚えます。
この「投稿応援機能」により、ノートで勧めたいことがはっきり定まらないうちからでも支えられている人は、結構多いのではないでしょうか?
もちろんえんじろうもその1人でした。
そして上の写真では90日が達成され、その次の360日でバッジが全部出揃うみたいな雰囲気が出ていました。
心の自然治癒力
これは文字通りの「挫折」ですね。やり続けてきたことが切断されてしまった。そして心の中は絶望へと沈んでゆきます。
このノートは「明るい思考」というタイトルですが、今回は書きます。
切断された絶望
154日ではまだ半分以下ではありますが、半年近く続けてきたものがぷっつり途切れてしまったと思うと、なんだかやるせないというか虚しい気持ちになります。
ずっとあったはずの希望の綱が、ハサミで切られてしまったような・・・。ここからまた360日(約1年)連続を目指すのかと考えると、気が重くなりました。
後悔の波が押し寄せてきます。
なぜ昨日はすっかり忘れてしまったのだろうか?いや待てよ、お風呂に入る前に「あっ今日投稿してないな」と呟いたではないか?なぜその後も放置してしまったのだ?
そのせいでこんなにも絶望することになるんだぞ。これまでの154日間が全く持っての無駄になってしまうんだぞ。
あーもうどうでも良くなってきた。ノートもここまでかな?所詮えんじろうは1つのこともまともに継続できないようなダメ人間なんだ。もうどうしても書きたい長文がない限りは、放ったらかしにしようかな。
そんな思いが頭をめぐりかけたとき!
本当に無駄?
頭の中で「シャーン」という大量の鈴が振られたような音がした。
それは「だまらっしゃい!ちょっと落ち着きなさい」と言っているようだった。そりゃもう丁寧にリバーブ「響き」まで付いていた。その後は本当にシーンとなった。頭の中の話ですよ。
そして落ち着いて考えてみると、あれっ僕は何を絶望しているんだっけ?と判らなくなったのです。
ノートは思いを発信できるのが楽しそうだから始めただけで、更に他のSNSではほとんど「意味がない」と思えた「他人の文章を読む」ことも意味があると感じられたから続けてきたのではないか?そしてサイト全体もシンプルで見やすいからとても良いなと思っていたのではないか。
そこに「毎日の投稿を続けられる」からいいなと思ったなんてのはなかった。いつの間にかバッジ機能に乗せられて、日々投稿したいという「植え付けられた欲求」が加わっていただけだったのです。
前にも後にも綱は続く
これまで続けてきた記事たちは、消耗品ではない。1度見た人にとっては利用済になったとしても、まだ記事を読んでいないノートの無数の利用者さんやネットを見ている人からしたら未使用の状態なのだ。
つまり過去の記事の価値は活き続けている。これから各記事の価値も同等に活かせてゆくものとなる。その間に1日途切れがあろうとなかろうと、前後の価値そのものには全く影響がないのだ。綱に見えるのは、つづ繰り返していた様子を見ているだけで、そこに生地そのものの価値は見えていない。
そして落ち込んでいるときって、そういう普通の思考すらできなくなるんですよね。
価値観鷲掴み
目的を思い出せ!元々やりたかったことは何だったのか?155日目はそれを考え直すべき日だったのだろう。
毎日投稿の意味
毎日投稿自体に意味はないとは思いません。
それは「一生懸命続けて頑張っているんだね」という、記事を読む前の信用度や共感度や声援度?のようなものを上げる効果はあると思います。他の人で「何日突破!」という記事を見ると、応援したい気持ちになるのも事実です。
ただそれらはすべて「ブランドのパッケージング」的な部分の話だということなのです。記事に触れる前から印象を良くするというところの話です。
だからあくまで大切なのは記事の中身ですし、ましてやブランド価値が確立されてもいないえんじろうは気にして落ち込むような話じゃなかったということですね。
危うく「毎日投稿」をパッケージ包装にして、ネタ探しに苦しむ日々にしてしまうところでした。
自由
書きたいときに書きたいことを書く。それがたくさんあったから結果として「毎日投稿」していたという本来のパズルの形を思い出そう。記事という点が同じ間隔で連なっていたから、それが綱に見えていただけのこと。綱は結果でありそれを維持することには意味はないということです。
そうしたら楽になった(というかまともになった)というのが、今回のお話でした。
ほらね、こんな風にダメダメな出来事に思えた内容も、明るい思考として記事に書き換えることができるんです。本当に人の思考って勝手でいい加減だなあ(いい意味で)と思います。
そしてこの柔軟な思考を「自由」というのかも知れないですね。おうなんか決まった気がする(頭がめでたい)というわけで、この思考の記事が読者さんの挫折の際に役に立つことを結構本気で祈ります。
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