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毎日読書メモ(146)桜庭一樹「キメラ―『少女を埋める』のそれから」(「文學界」2021年11月号)

「文學界」2021年9月号に掲載された『少女を埋める』については、まずは朝日新聞文芸時評(8月25日掲載)での取り扱われ方に、作者桜庭一樹がTwitter上で異を唱えた時点で書いてみて(ここ)、全文読まずには判断出来ないな、と、「文學界」を買ってきて読んだところでもう一度書いた(ここ)。その後、まずはネット上の文芸時評が改稿され(ここ)、新聞本紙(紙媒体)での説明を求めた桜庭さんの要請を受け入れた朝日新聞の9月7日の文化欄で双方の主張が紹介された(ここ)。

小説の粗筋でない、本人の解釈を、あたかも粗筋のように紹介することへ異議を唱えた桜庭一樹と、小説の読み方は人それぞれ、という鴻巣友季子の主張はTwitter上でも朝日新聞紙上でも平行線のまま終わっているが、桜庭一樹が「文學界」2021年11月号で発表した「キメラー『少女を埋める』のそれから」で、桜庭一樹自身がこの一連の騒動(という表現をとっていいのかやや迷うが)から会得したものごとが開陳されている。

ずっとTwitterのタイムラインを追い続けていた訳ではないので、リアルタイムで両者の主張を読んでいた訳ではないが、あらためて「キメラ」の中でその経過を読み、息苦しい思いをする。あくまでも桜庭一樹の観点からの手記(「少女を埋める」は私小説だったが、これは小説ではなく手記である、とわたしは思っている)で、対するC氏(「文芸時評」が全文引用されていて、匿名とする理由はないが、それをあえてC氏と表記することも桜庭の見解だろう)の主張は、書かれたもの、及び両者のTwitterでの応酬に限られたかたちで紹介されるに留まる(当然だけど。そしておそらく彼女がこの件について別稿で触れることはないのではないかと思っている)。また、自分の郷里における朝日新聞の存在の大きさ、そこで、自分が書いたのと違う解釈の物語が流布することへの恐怖を桜庭は丁寧に説明しているが、彼女自身が鳥取の人に反応を確認することもなく、影響が及ぶことを恐れている母本人にコンタクトをすることもない(その辺の距離感は「少女を埋める」を読んだ人にはなんとなく理解できるが、「キメラ」単体を読んだ人にはわかりにくいかもしれない)。

そして、母親からのメッセージも、間接的な形でもたらされる。

光が射す。

文学の読みの中で生まれる無数のキメラたち。そして、埋められた多数の少女たち。作者はC氏の中にあったものについて、想像する。それを検証することは出来ないけれど。

家庭菜園、コーヒーフロート、火浦功、SMAP。暮らしの中で現れるものごとが彼女を少しずつ推し進める。大切なことだから3回言います、「我々は出て行かないし、従わない」。「少女を埋める」のなかで3回言われたのは「共同体は個人の幸福のために!」。自分のよって立つ主張を見つけるための過程が作品の中で語られている。

別の作家の人のツイートの趣旨、「テキストだけが文学だった時代は終わっている。どう読むかだけの議論では文学は残らない。いまは社会でどう作用するかまでが文学で、双方向から社会を作っていく時代なのだ」(たしかにこのTweetは感銘的だ)が紹介され、わたしが手記とした「キメラ」もまた文学の一部である、ということが語られているのも印象的。

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