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11月

気付けば立冬も過ぎていた。11月に入ったのに暖かい、を通り越して暑いくらいの日が続いていて(日中は家にいるのであまり影響は無かったんだけど、7日はさすがに暑くて冷房を入れようか迷った)、先月ぶるぶる凍えながら練習していたのは何だったのかと思ったりしていた。
上野公園では桜が咲いてしまったらしいし、私のところでも先月末からプランターのミョウガが2つも蕾をつけた。草たちもびっくりだよね。そして未だに蚊も飛んでいる(週末、練習中に指を刺された)。

今年は北海道のヒグマだけでなく全国各地、しかも市街地でのツキノワグマの被害が相次いでいる。
身近で熊なんて、って思っていたけど、3年前まで定期的に訪れていた富士吉田(フジファブリック志村さんの出身地)でも、忠霊塔(「浮雲」で歌われている「いつもの丘」、私は富士吉田に行くたびあの長い階段をいつも上っていた)のさらに上にはおそらく三つ峠のほうまで抜ける山道があって、そこに「クマ出没注意」みたいな看板があるのを目にしたことがある。散歩感覚で付近の山頂くらいまで登ることがよくあったんだけど、今そんなことをしたら危険だろう。
清里でも清泉寮の裏手から山道に入れるところがあって、昔、一人でふらっと入ってしまったら迷子になり、他に人も全然いないし大変なことになったことがある。高校時代に「妖怪アンテナ」とか「野生の勘」等と言われていた謎感覚のおかげで遭難せずに全然離れた場所の車道へ抜けることはできたんだけど、入った時間が遅かったら危なかったと思う。今思えばそこでも入り口に「ここからは先は山道なので」みたいな警告の看板があるのを見てはいたんだけど、都市部育ちにはその「山道」のイメージが全然湧かない。大きな起伏があるのかな、とか、手も使って登らなければいけないところがあるのかな、と捉えていて、そんなところは(私には体力も無いし)とても無理だから、ダメなところに出くわしたら戻ろうと思っていたんだけど、そんなハードな場所は無かったのに先は長く深く、道もわかりにくくて、気付いたら自分がどこにいるのか、戻るにもどう戻ったらいいのかわからなくなっていた。トイレも無いし。あの辺りだって熊がいてもおかしくない。
その後は反省して、ニュージーランド等の整備された低山ウォークやトランピングを楽しむようになった。山についても少し調べて、そのこわさを知った。山であればたった一日でも命を落とせるし、それは冬場の厳寒や吹雪の時期だけでなく、たとえ夏であっても、雨で濡れて冷えれば低体温症になるし、山上では天気が変わりやすいから、地上では想定していなかった荒天や低温になったりすると。知識は必要だ。

先日北海道で消防士の3人組が短いナイフでヒグマを撃退したなんてニュースがあったけど、おそらく飢えて弱っていた個体だったのではないだろうか。その熊は20代の北大生を食べて人間の血の味を覚えてしまった個体だから、放置していたら大変なことになっていただろうけど、そもそも今年はヒグマが犬みたいに見えるくらいガリガリに痩せこけた写真が出ているし、とにかく本来の生息地に本来の食料が究極的に枯渇しているのだろう。ツキノワグマもそうだけど、人間の都合で「開発」の名のもとに山を破壊したり、広葉樹を切り倒し針葉樹ばかり植え山の植生を乱暴に崩したり、木々や土壌の手入れを怠ったりした結果がこれだ(し花粉症だって無計画に針葉樹ばかり植えたから起こったことだ)。きちんと環境を見て対話し、山やそこに息づく動植物とも調和と共生をはかれるように向き合ってきたらこんなことにはならなかった。一方的に悪者にされている熊だって被害者だ。

人間と熊は同じ場で暮らすことはできない。だから、それぞれ別の場所でそれぞれの生活をしていればよかった。その調和が乱れた。乱したのは人間の傲慢だ。

私はノーガードノーマスクと同じ場で息をすることはできない。だから、それぞれ別の場所を選べればよかった。レストランやホテルの禁煙やドレスコードのように。でもそんなことにはならず、例えば全ての場所で副流煙と見たくもない全裸が溢れていてそれが当然だとでもいうような風潮だ。どこでも息をすることができないのなら、息ができない場所にいることをやめることで解決する。マイナスよりはゼロがプラスだ。

別に副流煙大好きで全裸でいたい人がその人達同士だけでその環境を満喫することには何も問題は無い。けれども私は害のある煙を吸わされたくない。顔を隠すのが嫌だとか生まれたばかりの姿が良いなどと主張する人間は何故衣服をまとうのか、化粧染髪ピアス刺青アクセサリーその他一切の装飾を行わないのか。
息が苦しい?マスクをして苦しいと感じるのは思い込みではないか(子どもや老人虚弱者など心肺機能が未発達/衰えている/弱いなどの場合は除く)?服を着ることは苦しくないのか?生まれたままの姿を隠しているし身体を覆っているのにいったい何が違うのか。
マスクをしても酸素飽和度は変わらないし日常生活を送る上で息苦しい感じることが私は全くない。ギターだってずっとマスクをしながら歌っている。つまり、ノーマスク達はマスクをしたくないという固定観念、欲望によって苦しいと「思わされている」だけなのではないか。避妊具を使わない行為のほうが気持ちが良いというイメージと同じように。そしてそれへの固執が多くの女性を傷めつけてきたように、「思い込み」による横暴が、多くの被害を生んでいる。
運動負荷が高い場面で、例えばマスクをしてジョギングするのがきついのなら、公共の場所で他人に大量の飛沫まき続けるのではなくマスクをしてできる強度に速度などを下げればいいだけだし、むしろ高地トレーニング感覚で負荷に価値を見出せばいいのでは?あるいは例えばジムの中でノーマスク達が飛沫を飛ばしエアロゾルが滞留していて感染連鎖が起きていても感染者がウイルス排出期間にきちんと家にいて外部に感染を広げないのであれば私には何も問題は無い。しかし、ノーガードノーマスク達には閉鎖空間で感染を封じ込めるという発想は皆無だ。公共の場に、積極的にウイルスを撒き散らす、ノーマスクで。

私は畑作業行なう時には夏でも長袖長ズボンだった。素足に短パンで草むらに入りマダニに血を吸わせ感染症をゲットしたいマゾヒストでは無い。皮膚癌にもなりたくないから日焼け止めも塗る。不快な状況を回避するためにできる対策はする。勿論そうしないのは自由だ。マダニに噛まれても皮膚癌になってもOKな人はそれでいい。いずれも他人に影響しない疾患なのだから。しかしコロナは違う。ノーガードの感染者がノーガードで感染を連鎖させる、そしてそれが当然視されている構造、加害を逃れられない状況が本当に最悪だ。

備蓄はだいぶ頑張って消費した。ナッツ類はだいぶ減ってきて達成感がある。ドライフルーツはまだまだだけど、引き続きガンガン使っていこうと思う。赤い実等見映えのする綺麗な色のものが無くなってしまって、最近はケーキの色がいつも茶色い残念な感じなんだけど、もう買い足さないことにした。

ギターでスクリーンショット集の消化を始めたのはなかなか面白い。調べた曲はたいていはタイトルがわかったところで「必要になったら画像をもとにまた検索して聴けばいいか」と安心満足し、その場で聴き直すことも歌詞を深く読むこともせずに安定の鳥頭で記憶の彼方へ、、となるんだけど、検索特定した段階では(意識がメロディーやサウンドに向いていてまだ)歌詞が聞けていないはずなのに歌詞でも引っかかるところのある曲が多い。サウンド的には洋楽だとUKロック寄りのものが多いかな。あとおそらく英語の発音に耳が向いているところもある気がする。こちらもまだ「言葉として意味が認知される前の段階」として。

そして、ギターや曲を通して太古の昔の記憶を辿るうち、私の認知はわりと絶対音感というか耳に大きく支配されているのでは?という気がしてきた。耳周辺、海馬関連の仕組みを調べてみたら面白そうな気がするけど、まだ実行はしていない。片付けもしなきゃいけないんだけどなかなか進まない。

まずはギターを弾かねばならない。エレジーとレクイエム、そして飛び立つために。私を供養できるのは私だけ。



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