きみ猫サムネ

きみと猫と、クラムチャウダー

新年、と言ってもすでに2か月目に入ってすっかり「2019年」が染みついてきました。
今年は月に2作以上は書こうと決めているので、今月はあと一作、なんとしても書かなければなりません。仕事に追われる日々、新年からずっと駆け抜けてきて、そろそろと疲れのでるころ、作品にもそんな、疲れのようなものが漂っているようです。

今回の詩は、「詩集」になることを意識して書いたため、これまでのように連ごとの掲載はせずに、紙面に載せるようにアップします。スマートフォンの画面では読みづらいかもしれません。(と、思ってやってみましたが、案の定読みづらいのでスマートフォン仕様に変更しました)。

ただ、「紙面」とスクロールする「画面」での見せ方というのは、ずいぶん違うものだと思いました。ただ、同じ言葉が並んでいるだけでも、配列と高低差があるだけでも、まったく違う言葉の力を感じます。

詩は、要約が不可能な言葉。そこにある、ということ自体が価値である。

別の言葉では代替不可能で、別の場所にあってもなんだかちがう。

そういうものだと思います。

配列を動かしたり、高低差をつけるという行為も、「そこでなければならない」という必然性が重要で、安易に書き手も動かすことは躊躇われる。とても勇気のいること。

今回は、動かさないといけないような気がして、動かしてみました。僕は今回の作品はそれなりに好きです。こうして、少しずつ、自分の作品が好きだ、と言えるようになれたらいい。がんばりたい。

   *

入沢康夫さんが亡くなった。
かつて、詩とはなにか?ということで迷って仕方がなかったときに、藁にもすがる思いで古本屋で買った本が『詩の構造についての覚え書』でした。「詩は表現ではない」という主張は、僕のなかで強く息づいてるばかりではなく、現代詩を考えるうえでは基本になっている。

そんな、いまとなっては本棚の奥深くで眠っていたこの本のことを思い出して、最近、もう一度読んでみています。そこで、今回の作品にも活かされたことは次のことです。

「詩の構成にあたって、素材として処理される単位は、実は必ずしも一つ一つの単語である必要はなく、時には、その日常的秩序における連らなりである〈文〉、あるいはその集合である〈節〉でさえあることが考えられる。」
(入沢康夫『詩の構造についての覚え書』思潮社 1970年9月より)

至極当然と言えば当然なのですが、詩を構成する単位は「単語」ばかりではない、「文」や「節」である場合もある。であれば、「連」自体がイマージュであってもよいはずだ。ということを、通勤電車の15分くらいのあいだで少しずつ読みながら考えていたことが、多少、活かされています。

少しずつ、少しずつ、日常のなかで吸収しつつ、また、次の作品を書いてみたいと思います。

*サムネイル画像 ピエール・ボナール「猫と女性 あるいは餌をねだる猫」

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