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さようならと口にするのは簡単だけれど

H&Mのスキニーは歩きやすいし、靴はマーチンがいい。ダウンは従姉妹のお下がりがあったかいし、ニットはリブのタートルが1番私を綺麗に見せてくれる。たまにおめかしするときはレーヨンのさらっとしたロングワンピースがいい。
物質的な豊かさはもうそんなに必要ない。

それでもレースフリルリボンチュールオーガンジー!みたいにきらきらふわふわなお洋服はたまにみかけると未だにずっきゅんしちゃうし、冬場に薄手のワンピースを着てがんばるのは本当に女の子の可愛さを最大限に引き出してくれるなあと思う。でも、今の私が毎日そんな服装で出歩いたら、風邪ひいちゃう。もう若くないから。
仮面をかぶって生きるのはときに正義だけど、そろそろそんなもの脱ぎ捨てないと仮面の下が蒸れて大変なことになってしまいそう。あとは素顔を見られていないと本質的には整わない気もしてる。

死にたかった私を生きながらえさせたのは、紛れもなくコンプレックスだった。
女は賢くて可愛くて聡明で綺麗であざとくなくてたおやかでしなやかで華やかでしとやかで影がないといけないと思っていたから、社会に迎合する気持ちでがんばっていた時期があった。
でも、そんな自分になんの意味があるの?って、ここ数年でやっと気がついた。
もちろん、賢くて可愛くて聡明で綺麗であざとくなくてたおやかでしなやかで華やかでしとやかで影のある女性は素敵だと思うんだけど、それでもなーーんにもしたくない日は家の中でゆるい下着だけつけてじゃがりこ食べながら読書したり古い友達のSNSページをスクロールしてだらごろ過ごしたり、そういう日も、やっぱりたまには設けておかないと、死ぬ。

だからといって、素敵なレストランに一生行かなくて満足ってわけでもなく、たまにはがんばって職場の近くとか中央区あたりに出向いて馴染みのお店に顔も出したいし、週末は定期的に美味しい煮魚の食べられる和食屋さんとかに行きたいです。

ここまで書いてきて気がついたけど、もしかして、わたし基準の「ふつう」って世間的にみると「贅沢」にカテゴライズされるものですか……?
タワマンに住みたいとかはぜんぜん思わないし、いまいちばん欲しいものは安心です。
でもやりたいのは歯の矯正とインプラントとワーホリだし、洗濯洗剤だってできればいつもエマールを使いたいです。

生まれたときから(物質的に)甘やかされていたひとり娘が簡素に質素につつましく生きるなんて、無理な話なんでしょうか。

今日のマリ・クレール通りと

一昨日の目黒川です。

そしてカバー写真はミッドタウン。桜がやさしい。

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