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「思うだけでなく動く」―普通の大学生がファッションデザイナーになった話

「やりたいことはあるけど経験ないし・・・」
「もう若くないし、未経験じゃ今からじゃ無理だよな・・・」とか
そんな風に思って、自分のやりたい事をあきらめようとしていませんか?

人にはそれぞれ思い描く未来の姿があります。その実現が日々の活力になり仕事やプライベートでの生きがいにもなっています。

私は31年間ファッションデザイナーとして仕事をしてきました。フリーランスとしても17年のキャリアになります。専門学校も出ておらず全くの未経験で、デザイナー志望だったわけでもないのに長い間仕事を続けてこられたのには理由があります。それは、ファッションという仕事を通じて、思い描いた未来の自分の姿を実現してきたからです。

過去のnoteではアパレル業界に起きている様々な問題について書いてきましたが、今回はそのアパレル業界の中で自分がどう歩んできたかについて書いてみたいと思います。

私がこのnoteを読んで頂く方に伝えたい点は3つです。

・まず、自分がどうなりたいかのビジョンを明確にするのが大事
・キャリアや経験だけが全てでなく、行動にすれば道は開ける
・根拠を求めずに必ずやれると強く信じ込めばなんとかなる

「思考は現実化する」や「願望は必ず叶う」など自己啓発的な考え方もたくさんありますが、そういった精神的な話ではありません。今回は私の実体験に基づくお話をさせて頂きます。

「憧れのブランドでヨーロッパを行き来できる仕事をする」という明確な目標

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私は大学4年になって将来の進路について考え始めたのですが、実際その段階では特別にやりたいことがあったわけではありません。当時は売り手市場だったこともあり、流されるままに就職活動をしていました。

大学時代から服が好きだったこともあり、アパレル業界も選択肢の一つではありました。最初は丸井などで売っていたDCブランドなどを着ていたのですが、百貨店でバイトをしていたこともあって、4年生ぐらいから「エルメス」や「クリスチャン・ディオール」などのフランスのブランドに興味を持つようになります。

初めてインポートブランドを購入したのはエルメスのネクタイでした。海外のブランドに触れた感覚・・・品というか格というか、何か自分がワンランク上がったような高揚感があったのを覚えています。そうしているうちにフランスという国自体にもあこがれるようになって、「ヨーロッパへ行けるような仕事をしたいな」という漠然とした思いを抱くことになりました。

それから、ヨーロッパで仕事ができる可能性を模索します。そして、海外ブランドを展開しているアパレルメーカーを探して面接を受けようとしていたタイミングで、ある衝撃的なニュースが飛び込んできました。憧れていたフランスのブランドが、日本のアパレルメーカーとライセンス契約を結んで日本での展開をスタートするという発表だったのです。

「これだ」・・・その瞬間、私の意志は固まります。ターゲットを一本化した私は、面接を突破し憧れのブランドを展開しているアパレルメーカーに入社します。人と話すことが好きで社交的な自分の性格を生かせるよう、面接では終始一貫して「海外ブランドのプレス」を希望していたのですが、入社後は「海外事業部」という部署の営業部に配属されることに。一般大学の経済学部卒であることを考えれば当然のことですが、面接時から希望を明確にしていた私にとって、その配属先は不本意そのものでした。

「完全アウェイ」なデザイン室へ異動の苦境

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入社後2ヶ月ほど、営業研修として物流倉庫で商品整理をしていました。くる日もくる日も地下倉庫での出荷業務の毎日で、気が狂いそうだったのを覚えています。自分の理想とかけはなれた日々に我慢できず、短気な私は意を決して上司に退職の意思を告げたところ、上司から返ってきた答えは予想を裏切るもの「デザイナーが一人辞めるので、その代わりとして異動してみないか?」― デザイン室の部長が私を欲しがっているというのです。

「ダメ元だし、失敗したらやめればいい、とりあえずやってみよう」という思いで異動を承諾しました。服飾の知識もない素人の私が異動するというのは通常ではありえないことでした。どうして私が選ばれたのかの理由が「新人の中でも特別に面白かったから」というのを後日知ることになります。確かに、新入社員の歓迎会でひとりで場を盛り上げ笑いをとっていたのは事実でした。

担当することになったのは、希望していたフランスではなくイタリアのブランド。デザイン室での仕事は、何もかもが新鮮で、それまでイタリアに対する知識はゼロに近かったのですが、知れば知るほど興味が湧いてきました。

とはいえ、仕事は心が折れることの連続。どんな業界でも、初めてやることだらけの新入社員が苦労するのは当然ですが、私の場合は自分以外のスタッフは全て服飾の専門学校卒という、完全にアウェイな 環境です。デザインのことなど何も学んでいないため、業務上の日常会話すら理解できず、アシスタント業務をこなしながら基礎知識を覚えるのが精一杯でした。

もちろん、あきらめそうになったことは何度もありましたが、根がポジティブで好奇心が旺盛だったため、ギリギリのところで持ち応えられたのかもしれません。しかし何より、どうしてもヨーロッパに行って仕事をしたいという気持ちが強かったのです。

「思うだけでなく動く」ことこそ、目標を実現するための近道 

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日々学ぶ時間を過ごしながらも、目標であった「いつかイタリアへ行く」ときのために、独学でイタリア語も学び始めました。自分がイタリアと日本を行き来する姿を勝手に想像して、具体的な行動に移していったのです。そして入社3年目、ついに海外出張の機会がやってきました。

ここまでの私は、客観的に見ると「ただの運のいい奴」という印象がありますが、そうではありません。「ヨーロッパを行き来する仕事をする」という目標を決めた時点から、漠然と就職するのではなく「自分の目標を実現するための近道」として企業を選んだのが功を奏したのだと思います。面接時や入社後も、会社に対して「海外ブランドを希望する」という自分の意思を明確にし、そのための準備をしていました。「思うだけでなく動く」、それによって早い段階でチャンスを得られたのです。

初めてのイタリア出張は、私の人生に大きな影響を与えることになります。イタリア人デザイナーからデザインや素材、縫製についてなど、モノづくりの考え方を学びました。白いキャンバスに色を塗り重ねるように、イタリア流の考え方をどんどん吸収していったのです。

その後も、よりコミュニケーション能力を上げるために日本でイタリア語学校に通いました。こうしてイタリア人たちからも信頼を得ることができ、年に何度もヨーロッパに出張して仕事をするという、大学生の時に思い描いた未来の姿を現実のものにするのです。

新たな目標・・・大好きな「ゴッドファーザー」への衣装提供が叶うまで

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一つの目標を実現すると、違う目標を探したくなります。イタリアどっぷりの生活を送っていた私は、映画「ゴッドファーザー」が大好きでした。マフィアの抗争を描くその世界観に圧倒されて何度も繰り返し見ては、ストーリーや台詞を完璧に覚えるほどでした。

当時、私は日本でのライセンスブランドを担当しており、ドラマへの衣装提供や有名芸能人の着用などブランドの露出も増えていったことから、売り上げや知名度は徐々に上がっていきました。しかし、本国イタリアでは、ミラノコレクションに参加していたものの、メジャーな知名度ではなかったのです。

その頃のイタリアでは、「3つのG」ー「ジョルジョ・アルマーニ」「ジャンニ・ベルサーチ」「ジャンフランコ・フェレ」というメジャーブランドがあり、中でもアルマーニの人気が絶大でした。そんなアルマーニがブレイクしたきっかけは、デビュー当時のリチャード・ギアが主演した映画「アメリカン・ジゴロ」(1980年)に衣装提供したこと。そして、その人気を決定づけたのは、同じくアルマーニが衣装を手掛けたケビン・コスナー主演「アンタッチャブル」(1987年)でした。

私はこの2つの映画を見て、純粋にカッコイイと思う反面、悔しい気持ちがありました。アルマーニがどんどん有名になっていく中で、私が一緒に仕事をしていたイタリア人デザイナーがどうして評価されないのだろうというジレンマ。もしできることなら、私の大好きな「ゴッドファーザー」のような映画に衣装提供できることを願っていたのです。

そんな願いを持つようになってから何年かがたった頃、イタリアから驚きの知らせが。「ゴッドファーザーの続編に衣装提供が決まるかもしれない」― その時正直、すぐに信じることはできませんでした。まさか何度も繰り返し作品を鑑賞し夢にまで見た映画への衣装提供が実現するとはと、驚きました。

そして映画、「ゴッドファーザーPART III」(1990年)に衣装提供をすることになったのです。私は撮影に同行していませんが、主演のアル・パチーノと、アンディ・ガルシアの衣装をメインに監修。完成した作品を見ると、マフィアの凄味と哀愁が表現されており、その姿は圧巻そのものでした。やはり、デザイナーがシチリア島出身だということが、ストーリーにおける着こなしを表現する上で大きかったのでしょう。

強く思うことでその目標が実現する。改めて「強く思うこと」の大事さを実感しました。今でも「ゴッドファーザーPART III」を見ると当時の思い出が浮かんできて、感慨深い気持ちになります。

天狗になって陥った暗闇―逆境をチャンスに変えたマインドとは

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入社後10年が過ぎて、業務について多少のマンネリを感じ始めた頃、あることがきっかけで会社を退職することになります。それは、社長との衝突でした。自分が思うような会社人生を歩んできたことによる慢心、一言でいえば「天狗になっていた」のです。自分は何でもできるのだと。でもそれは間違いでした。後先考えずに退職した後も自分の力を過信していたことで、転職の面接に落とされ続けて1年間ほど無職の状況が続きました。

さすがに1年間は長くきつかったのですが、考える時間も多く、無駄な期間ではなかったと思います。慢心や過信を反省し、切り替えて次のステップへ進むために、別のスキルを身につけようと専門学校に通ってWEBサイトの制作などを学び、上手ではなかったデザイン画も勉強するなどの努力をしました。かなり逆境の時期ではありましたが、「必ずチャンスやってくる」と、根拠はないものの、強く信じていました。

その後、小さな企画会社に入社することになりました。新しい会社では、それまで経験したことのない仕事の連続。イタリアブランド時代は10万円以上の高価格商品をデザインしていたのですが、そこでは2万円程度の低価格商品をデザインしていたのです。値段もさることながら、イタリアブランドでは数百着ぐらいの生産数量だったのが、今度は何千、何万着という単位になりました。

ファッションが好きでこだわりのある人達に向けたデザインから、たくさんの一般の人達に向けたデザインへ・・・クリエーションとマーケティング、以前とは全く違う考え方が求められました。しかし、当時は高価格帯のブランドと低価格帯のブランドの両方を手掛けたことのある人も少なかったことから、そういった相反する考え方を身につけることは将来にとって大きなチャンスだと、ポジティブに考えていたのです。

安い服だと馬鹿にしたり、常識にとらわれたりせず、自分がイタリア人から教わったノウハウを惜しげもなくつぎこんで、「最高の2万円の服をつくる」「高いものを知るからこそ、最高にリーズナブルな商品をつくることができる」というマインドで取り組みました。根拠はありませんが、「自分なら絶対できる」と、思い込むように。その結果、手掛けたブランドの商品は飛ぶように売れ、いつしかマスコミからも取り上げられるほど注目を集めるようになりました。商品だけでなく売り方の斬新さもあってブランドが急成長していったのです。

今の自分があるのは、この時の経験があったからだと思います。過去の成功体験にとらわれず、どんなことも積極的に取り入れて学んでいく。以前とは逆の考え方のフィールドで結果を出したことは、自分にとって大きな自信になりました。

服をデザインしていて真の喜びを感じる瞬間

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この成功をきっかけにフリーの道へと進んだ私は、初めて大きなクライアントと出会いました。大手小売店とのプロジェクトをスタートさせる商社との契約だったのですが、担当社員の数名が、私がかって手掛けていたイタリアブランドのお客さんだったのです。

それまでにも、ファミリーセールや販売応援などで直接お客さんと接したことはありました。しかし、そういった場所でないところで実際に購入してくれていた人たちと会う経験はなかったので、とても感激しました。自分がいかにそのブランドのファンで、服を大切に着ているかを熱く語ってくれて、私に会うのを楽しみにしていたとも言ってくれたのです。

自分がデザインした服が着る人の人生のストーリーに寄り添い、長い間大事に着てくれている。その姿を目の当たりにして、ファッションの素晴らしさや、ブランドが着る人にとってどんな影響を与えることになるのかを改めて実感した瞬間だったのです。

この出会いをきっかけに、私の考え方は変わります。それまでは、私にとってデザイナーの仕事は「未来の姿を実現する為の手段」でしかありませんでした。しかし、「着る人に喜びや幸せを与える」ことこそがデザイナーの仕事だと思うようになったのです。

それからは、まずクライアントをどう喜ばせるか、着てくれる人たちにどう楽しんでもらえるかを第一に考えるようになりました。そうすると面白いようにオファーが増え、たくさんのブランドの仕事を得ることができたのです。仕事が増えていくのに比例して、自分がデザインした服の数も多くなっていきました。

そうなると、日常の中で自分がデザインした服を着てくれている人との偶然の出会いも増えていきます。新幹線に乗った際に隣の席に座った人や、山手線で横に立っていた人、仕事先で名刺交換をした初対面の人など― ―こういった予想もしていないときに遭遇すると、感激のあまり一人ひとりに声をかけたい衝動にかられます。全ての苦労がこういったことで報われ、服づくりをしてきて本当に良かったと、心の底から思えるのです。

服をつくる人・着る人の双方が幸せになる世界に

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ファッションビジネスは今、過去のnoteでも書いた「大量生産、大量消費」など、売れない事を前提にした物づくりのあり方が問題になっています。企業の利潤のみを追求した考え方が、結果として業界全体を苦しめることになったのです。

私はこれまで、ファッションを通じて自分の描いた姿を実現することができてきました。そしてこれからは、「服をつくる人も着る人もワクワクできて、幸せになれる世界」という新たなビジョンを実現するブランドの立ち上げに向けて歩み出したいと考えています。

服をつくってくれる人達が苦しむのではなく一緒に未来を見られるように。服を着る人たちがもっと自分らしく楽しめるように。業界全体を変えるほどの力はありませんが、私がやれることをやっていくつもりです。そしていつか、服の素晴らしさを教えてくれたイタリアの人達の日常を、私がデザインする服で楽しくすることができるのを夢見て。その理想に向かって、一歩一歩進んでいきたいと考えています。

最後まで読んでくれた方に
長く書き綴ってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。浮き沈みがあっても、いま楽しく仕事ができているのは、やはり最後まで自分を信じてあきらめなかったことだと思います。もし、やりたいことがあるのならば、とことんやってみることがいいのでは。トライした失敗よりも、やらなかった後悔の方が大きく残るので。


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