足つぼの記録 4日目 6/26
23日~24日も足もみは続けていたが、記録をしなかった。
記録を後まわしにするくらいに、
少しずつエネルギーが尽きてきているのを感じていた。
仕事では、事実が明らかになったり、
新しいことにチャレンジして発見があったり、嬉しいこともあって、
充実していると思っていたのだが、
6/25の夜に大変な絶不調(強烈な目の痛み、水を飲んでも嘔吐)に見舞われた。
この日は生理2日目。
足もみを始めてからは、生理の症状(出血量、痛み、冷え)はむしろ良くなっているのを実感している。生理痛で動けない、なんて皆無である。
また、生理の時期は、身体に溜まったものが出ていく時期で、
デトックスの期間という側面もある。
私は、生理の期間は特に、
「未解決で今まで実感することを避けてきた内面の課題」が
「わかりやすい体調不良」となって浮き彫りになりやすい。
この日の夕方、ややエネルギー切れ気味のわたしを見て、
ひとのこと https://note.com/hitonokoto/の
あっこ https://note.com/kotono84accoから
「康子はもう十分家族に甘えているのに、それを受け取っていないよ。
受け取ったら、どんな問題があるの?」
という問いかけがあった。
今回の体調不良は、この問いについて、向き合ういい機会が来たのだと思った。
夜、口から鼻から、オエオエ嘔吐しながら、
「この症状って、私に何を伝えてるんやろか?
家族に十分甘えているという事実を受け取らないのは何故?」と自分に問うていた。
(後日、足つぼ仲間のあさみhttps://note.com/cute_swan711/
が「そんな気持ち悪くなってオエオエ吐かないと自分の感情に関心を持たないなんて、なんのために足つぼしてるん?面白いなあ~」と言っていたが、
全くその通りだな。押して”痛い!”で終わっていたな~。とばつが悪い。)
自分が自分の内面の課題に気づかないふりをしていると、
きっと身体は「おーい、ここにおいてけぼりの感情あるよー。これでも気づかないなら、症状どんどん出すよ~」と、「症状」」という形で、
一生懸命教えてくれるのだ。
必要以上に大きな病気となって現れる前に、どんどん気づいていけたら幸せだな。
1.身体の状態
目の奥が強烈に重く痛い(目を閉じておきたい)
嘔吐(水も吐く)
身体に力が入らない
※先日友人から「それらはもしかして、まとめて偏頭痛の症状なのでは?」という意見をもらったので、採用してみる。肩こり
2.感情の状態
無気力
自分を戒めているようでみぞおちのあたりが苦しい
→何を戒めているのだろうか?
【7つのチャクラ キャロライン・メイス より抜粋】
・第4チャクラ
(心臓、循環器、肺、肩、腕、あばら骨、乳房、横隔膜、胸腺)
愛と憎しみ、拒絶感、反感、怒り、悲しみ、自己中心性、寂しさ、
コミットメント、許し、慈しみの心、信頼、希望
・第6チャクラ
(脳、神経系、目、耳、鼻、松果体、脳下垂体)
自己評価、真実、知性の力、人の考えを受け入れること
経験から学ぶ力、感情の成熟度
【リズ・ブルボー著「自分を愛して!」より抜粋】
★偏頭痛
◎「存在の在り方」と直接関係する病気。
自分に対して、自分が望むあり方を許していない人に起こりやすい。
また、自分に対して影響力のある人に異議を唱えると罪悪感を感じてしまうタイプの人にも起こる。
「私にはできない」と考えることが多く、他人の影響のもとに自分のものではない人生を生きることになる。
◎自分への質問
「もしどんなことでも可能だとしたら、私はどんな人間になりたいのだろうか?」
この質問で、あなたが本来の自分になるのを阻んできた考え方が分かる。
ある人に依存すれば、その人からもっと愛されるようになると考えるのはもうやめましょう。あなたの心の中にある恐れに気づいてください。
恐れを持っている自分を受け入れるのです。そしてその恐れは、あなたが目標に達するためにはどうしても必要なのだ、ということを知ってください。
★無気力
◎「何が起こっても私は影響を受けない、何故なら私は何も感じない人間なのだから」という風に自分を欺くのは、もうやめましょう。
そういう態度をとっていると、あなたがしようと思っていることは中々実現しません。もっと率直に自分を見つめ、本当は自分が何を恐れているのかを知りましょう。あなたの不安には本当に根拠があるのでしょうか?
それを確かめてください。
★肩こり(肩の痛み)
他の人たちのためにあまりにも多くのことをしようとしすぎている。
そのために自分の望む方向に進むことが出来ません。
他の人達の幸福や成功の責任は自分にあると思い込んでいるからです。
肩の痛みは一般的に多くのことをする能力を持っている人に起こります。
メッセージは「人生において多くのことをするのをやめる必要はありません。ただそれらを、義務感からではなく、愛の思いで行うことが大切なのです。」他の人たちのために沢山のことをしなければならないと考えているために、他の人たちは、本当は自分がやらなければならないことを学ぶことが出来ずにいます。あなたがやっていることは本当に必要なことなのかしっかりと確かめることをお勧めします。
あなたが自分のニーズを大切にすれば、他の人たちもまたそれを大切にしてくれるはずです。もっと柔軟な考え方をしましょう。
3.もんだ足の部位
基本のライン(湧泉~腎臓~尿管~膀胱)
足の指先~かかと~足の甲~基本のラインまで、全体的に老廃物を流す
僧帽筋(肩の部位)←ずっとゴリゴリ
肝臓、心臓(←この2つの部位にずっとゴリゴリ塊がいることに向き合う)
3ー(1).依存と甘え、それから肩
1.2.までの本の箇所を読んでいたら、唐突に
「依存と甘え」という言葉が浮かんできた。
意味を調べると
・依存:自分の脚で立とうとせず、相手の言う事で自分の選択を決めたり、
相手の価値観にだけ従ったりすること。
・甘え:自分の脚で立った上で、自分が○○したい、ということを相手に伝
え、手伝ってもらうこと。
ということらしい。
私は、足をもみながら、幼少期の親との関係を思い出していた。
私は親と、かなり「依存関係」を育んできたと思っている。
例えば、親が「このお花きれいでしょう!このお花好き?」と言った花に
対して、
①私が「そのお花はあまりきれいだと思わない。嫌い。」
というと、親は残念そうな、傷ついたような顔をしたり、
「このきれいさが分からないなんて信じられない」と、
けなす言葉を伝えてきた。
②私が「うん、きれいだね!好き!」と同意すると、
嬉しそうな顔をしたり、私のことを褒めたりした。
③私から「この花きれいだね!好き!」と言った時は、
親自身がその内容に興味がなければ、あまり反応はなかった。
私からの発信には、親自身が気に入る発信の内容以外は、
親は無関心だった。
私は、親の反応がどうであれ『私が好きだと思ったものは好きで、
私が嫌いだと思うものは嫌いだ』と、自分の思ったことを貫いてもよかっ
たのに、そうしなかった。
親の心地の良い反応が欲しくて、それを愛情だと思うことにして、
自分の思ったことは間違えているんだと思うことにして、
親の良い反応がもらえる返答をすることが多かった。
その内、自分が本当にそれを好きだと思って言っているのか、親の反応を伺って好きと言っているのか、わからなくなってきた。
自分から進んで、親の言いなりになり、親との依存関係を育んでいた。
そうすれば、親は私を見捨てないし、関心を継続してくれるし、
生き延びられるから。
そんなこんなで身体はどんどん大きくなっていったけれど、
成長してからも、私は親以外の人と関係を育むときにも、
相も変わらず『依存関係』を築こうとするようになった。
自分の意見を言わず、相手の言いなりになることが、
相手への愛情だと思っていた。
特に、近しい人や大切にしたい人にこそそれが出てきて、
沢山の人に辛い思いをさせてきた。
特に、パートナーや子どもたちには、
『相手の望みには無関心なのに、精神的依存やお金の依存はする』という
てんで最悪な存在だった。
パートナーのことはATMとしか思っていないし、
子供たちのことはまさに生んだだけで、無関心だった。
私には、今、取り組んでいることがある。
①コミュニティー『なんやかんやファーム』が持続可能に存続すること。
②私は、自分の欲しいものは自分で稼いだお金で買う。
そのお金の量を増やす。
③子どもたちには、お世話をするのはなく、
一緒に考えたり、アイデアを出し合う存在でいる。
協力を得たいことは協力をしてほしいと伝える。
④パートナーはATMではなく、彼の寛大さを以て、私を許していること
を、私が受け取ること。
これらは、私にとっての自立の第一歩だと思っている。
そのために私がやりたいこと、行きたい場所について伝え、
家族からサポートを受けている自分は、
『依存関係』からの自立の途上にいて、十二分に家族に『甘えて』いる。
サポートを受けていることは『依存』ではない。
自分を責める思考はやめて、一度その事実を受け取ろう。
と分かったとたん、目の痛みと嘔吐がピタリと止んだ。
『依存になるのは嫌だ!』として、素直にサポートを受けていなかったのだ。甘えていたんだな。私はなんて幸せ者なんだろう。と知った。
身体は正直だな。。。あんなにオエオエいってたのに。。。
肩の部分のゴリゴリとも向き合う。
『私は、誰かのために生きている。』
それが美徳だとすり替えていたが、自分は何も決めず楽をして、
ただ身体だけが生きている状態。
とんだ隠れ蓑だな、オイ。その”誰か”にとっても、
そんな奴に粘着され、自分の言ったことややったことで、
誰かの人生の責任を背負わされようとするなんて、めっちゃ邪魔やろう。
私は、私のために私の人生を生きるのだ。
それが、誰かの何かに役に立ったら、それはとても幸せなことだ。
3-(2).肝臓と心臓
『康子が表現しないようにしているのは肝臓の部分、「怒り」の感情じゃないかな。』とあさみが言ったことをきっかけに、
『あー、足つぼで肝臓の所にゴリゴリの塊があることをしりながら、
見て見ぬふりをしてた。。。』と気づいたので、官足法で押してみた。
しばらく押すと、にぶい痛みが出てきた。
私はどんな怒りを戒めていたんだろう。と問うと
『相手に依存して、本来の自分自身を長らく封じ込めてきたあげく、
ずっと誰かや何かのせいにしてきて向き合ってこなかった自分に怒って
いる』
『自分に対して無関心だった親に怒っている
→関心を持たれないことが、ずっと寂しかった』
という、怒り、寂しさ、が湧いてきた。
おお、ちゃんと思い出せたやん。
小さい頃の私よ。親の態度が無関心だか愛情だかもよく分からん状況で、
生きるためによくがんばったな。楽もしてきたけど苦しかったね。
今はね、状況が違うんだ。
自分の感じたことを表現することで信頼を紡ぎ、
人間関係を紡いでいくことに喜びを感じる人たちと共にいるんだよ。
自分らしく生きようぜ。
同じように、心臓の所にもゴリゴリがあるんだよね。
こちらも入念にもみほぐす。
もみほぐしながら
「どんな憎しみや拒絶があるの?自己中心的に振舞っておきたいのは
何故?」と自分に問う。
私は、自分を戒める思考パターンが非常に多い。
戒めることで、自分のやり方を変えない。
『私のやり方は正しかったんだ。これからも変えるものか。
今まで避けてきた他者の考え方に心を開いて受け入れたら、
無知で軽薄な私がバレて格好悪いじゃん!』という、
自分が無知であることを恥だとし隠したがる、頑固な自分と向き合う。
無知であることを認めることは、可能性が無限に開けるということ。
そして、喜びも悲しみも楽しみも怒りも、沢山の感情が動く冒険が、
39歳になっても、目の前に開かれているということ。
体験こそ、何歳になっても、何よりも生きる力になり、価値のあるも
の。体験から気づき、感じ、つかみ取り、経験とする過程がどれほど貴重
か。そこに共に向き合い、自分の経験を分かち合う仲間がいることがどれ
ほど大切でありがたく、喜ばしいことか。
他ならぬ私が、そう感じ考えている。
自分をもっと愛そう。
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