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日記が教えてくれる「自分の幸せのカタチ」と「自分の言葉」

ふと、自分を振り返ってみたくなる機会はありませんか?

こんにちは、どさんこRUNAです!
親戚が小学校を卒業し、中学生になった今年、自分が小学生や中学生の時に夢中だったことは何だっけ?どんなことを楽しみに過ごしていたっけ?と思い返すことがありました。

自分を振り返る時、私は「日記」を見ています。

「1年前のこの日」というタイトルで、1年前の今日をビデオにしてくれるスマホのおかげで、自ら残す作業をしなくても、スマホが日々の記憶を管理してくれる時代です。
何の会話をしていたのかは、トーク履歴で、自分や社会にどんな出来事があったのかは写真やメモ機能、Webサイトで確認できる便利な現代で、私が「日記」にこだわる理由をお話しします。


「日記の中の自分」と話す理由

人は、1日の中でたくさんの役割をこなしています。
ある人の毎日では、母として、パートナーとして、会社員として、友人として、ママ友として、近所の人として…
慌ただしく日々が過ぎ去っていく中で、誰もが色んな側面の役割を果たしていると思います。

多面的な自分が所々でがんばっているはずなのに、ネット上には止めどなく「同年代の芸能人のキラキラした生活」、「いいパートナー像」、「理想の暮らし」などが発信されています。特に探していないのに目に飛び込んでくると、何気なく他者の生活と自分とを比べて努力が足りないのではないかと不安や心配が生まれてしまうのです。

ネットが提示する「理想の幸せのカタチ」は、自分じゃない世間の期待や意見で作られているものです。その幸せなカタチを目にする機会が多いので、みんなそう”している”んだと、それが”ある”から幸せなんだと思い込んでいるのかもしれません。

なぜなら、自分で幸せのカタチを生み出すよりも、すでにある幸せの共通認識に当てはめて自分の幸せをはかる方が”わかりやすい”からです。
そのわかりやすさがネットの中には溢れています。

だから、スマホから離れて、「日記の中の自分」と話すことにしたのです。

スマホでも日記は書けます。
ですが、予定アプリで何をしたかを管理したり、スマホのメモに日々のことをメモしたりしていると、ピコンの通知とともに誰かの発信やニュースに目がいき、自分が考えていたことを忘れて、ネットの中に入り込んでしまうことがあります。

日記を書くのは自分しかいなくて、それを読むのも自分しかいない。
他者が立ち入ることもなく、他者と比較することもない。
そういった場が必要だと思うのです。

将来どのようなことをしたい?
大きくなったら、何になりたい?

何かを”する”、何かに”なる”ことを求められる世の中で、ただ「ある」だけでいい場が日記だと思うのです。

何をしたか、何もしなかったか、何が嫌だったか、何が嬉しかったか。
ただ「ある」だけの自分でも、色んな面を生きていて、それを実感できる。
日記を書いていくことで、色んな自分を知ることができます。

自分の言葉が生み出される場所

私は、自分の言葉で話す人に憧れを抱きます。
周りにいるそんな人たちには、日記を書いているという共通点がありました。

部活時代の物知りな恩師は、まめに日記を書いている人でした。部活用の日記帳があって、そこに何をしたかや何を伝えたいかをまとめていると言っていました。中身は見ていませんが、分厚い日記帳でした。

部活生にも部活日記としてノートを配り、たまに提出があって、たくさんコメントをしてくれました。ある時、「みんなが求めている言葉を話しているから、自分の言葉で話しなさい」そうコメントされた時がありました。
どうしたらいいか分からず悩んでいると、「自分」がないと「自分の言葉」で話せないから、日記にチームとしてではなくて、自分として何を思ったか書きなさいと言われました。

しっかりした言葉や立派なことを言わなければと思えば思うほど、中身のない浅い言葉を言っている自分に気づきました。
きっちりしたことはカタチになりやすいですが、その反対はなんだろう?そう考えた時に思い浮かんだのが、曖昧で言葉にならないモヤモヤしたものでした。

モヤモヤした感情は、カタチのないものなので、向き合うことも、カタチにすることも難しいです。でも、そのモヤモヤした感情こそ、自分しか感じられない大切なものだと気づいたのです。

また、じいちゃんも日記を書く人でした。
〇〇年に自分はこんなことをしていて、日本の状況はこうだった。
このように自分の出来事と、社会情勢を関連付けて覚えていました。

ある時、何かについて「ひどいよね」と話していると、「誰がそう思ったのか?」と問われたことがありました。その時、聞いてくれる人も同じ感情だと勝手に想像し、自分がどう思ったかを話していないと気づきました。

「〇〇ってひどいよね?」
このように何かを話す時、同じことを感じていると思い、無意識に同意を求めてしまうのは、他者の視点で話しているからで、そこに「自分がない」ということかもしれない。
「自分は〇〇についてひどいと思う」が言えるのは、自分の言葉がある、「自分がある」からこそだと思いました。

曖昧な言葉ばかり選んでしまいがちな会話という場では難しいですが、日記という場では自分の言葉で話す練習ができると思うのです。なぜなら、そこに他者の存在はなく、自分の考えを知ろうとするのも、わかってもらおうとするのも自分しかいないからです。

月日が経ち、記憶力が悪くなっても、家に行くたび、孫とひ孫の名前を全部書いてほしいと言って日記を渡してくれました。私が書いた文字を見て、言葉に出す姿は、忘れないようにと自分に言い聞かせているようでした。
亡くなったじいちゃんの日記には、よく歌っていた曲の歌詞や孫たちの名前が書いてあり、大事なものを忘れないように残す姿を感じました。
日記の中で、その人が生きていることを知った瞬間でした。

どんな自分も「いてよし!」

日記にこだわるのは、自分なりの幸せを見つけられるかもしれない、自分の言葉で話せるようになるかもしれないと思っているからです。
今も、その道半ばですが、そういった目標に進むためだけでなく、心配性な自分をただただ許してほしいという不完全な自分を記す場にもなっています。

私は、友人たちに本当に不安症だね、心配性だね、すんごいネガティブだねと称されます。
こういった私の性格はマイナスで治すべきものとして指摘してもらう機会が多いですが、そんな自分がいるおかげで気づくこと、学ぶこともあります。

きっと共通認識の幸せのカタチを知っているのに、そのカタチに溶け込めない自分、そして溶け込まないといけないと思っている自分が「どうしようどうしよう」と不安を煽っているのだと思います。

「歴史は強者によって作られる」と言いますが、自己啓発本もエッセイも、うまくいった話が多い気がします。それらの本によって助けられることもありますが、別の物語が必要な場合もあります。

とことん失敗していること、笑顔になれない日々のこと、大人と言われる年齢だけど全く大人になれていないこと…。様々な自分の不完全さを日記に記録することで、自分にとって必要な別の物語が生まれると思うのです。
日記だから私の中にしか残らない。でも、それは無駄なものではないと思っています。

ダメダメな自分、イケイケな自分、さまざまな面を持つ自分。
どれも本当の自分で、色んな自分が毎日何かを感じて考えている。
日記を読む未来の自分という読者は、この自分をどう思うだろうか。

自分の色々な側面と日記で向き合うことで、他者にも1つではない様々な側面を持っていると想像することができる。きっと、色んな自分がいるおかげで、白と黒だけでなく、日々に彩りを添えてくれる存在に目を向けることができるのだと思うのです。

自分の言葉で様々な面を持つ自分と対話し、自分の幸せのカタチを形成していく。そうすることで、遠くにいる他者や、その生活を想像する力を養えることができるのが日記が持つ力だと思います。

「いてよし!」
彩りはたくさんあっていいんだと思える日記生活をこれからも続けていこうと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

Text by どさんこRUNA

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