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何のためのテスト?ー評価で変わる学校と学びレビュー

本書を読んでテスティングの基礎から、その考え方の変換、日本の学びの現状を簡単に受験と絡めて、自分で思ったことをまとめてみました。本書のネタバレにはほぼなっていません。
教員として一度手に取って損のない書籍です。職場にもテストに関して同自考えを持った先生がいるはずです。

学校のテストは達成度テストである

学校のテストでは授業で習ったことの理解の達成度合いを測っている。個人の点数、クラス・学校の平均点を見て学習内容の定着度を見ている。個別の問題項目ごとの平均点から問題の難易度も教師は分析している。
テストデータから、妥当性と信頼性も考慮して、補習すべき範囲を洗い出したり次学期の指標にもする。

模擬試験は弁別度テストである

定期テストは教えた内容の達成度を測るのだから、全員が100点でも何も問題ない。むしろ小学生の時のテストはみんなが高得点だったはずである。
一方で高校入試や大学入試を模した模擬試験は学力の差を弁別するためのテストである。高得点の生徒もいれば低得点の生徒もいて、点数がばらけることで、生徒の学力差を測っている。つまり全員が高得点でも低得点でもテストとしては出来が悪いものである。テストが簡単すぎて生徒たちの学力差が見えない(逆に難しすぎても同じ)。
ここでいう学力は計算力や歴史上の出来事などである。

テストによるウォッシュバック効果

学校現場では生徒に勉強させるための道具としてテストを使う教員もいる。テストで評価されることをポジティブにとらえて勉強する生徒もいる一方で、テストで評価されることに怯えて勉強する生徒もいる。この場合、テストはネガティブにとらえられる。またテストの結果によって自己肯定感を落とす生徒もいれば、自己肯定感をあげる生徒もいる。
ポジティブであれ、ネガティブであれテストによって生徒は学習が管理されている。

もちろん、現場ではテストの点数に気をとらわれず、やり直しやフィードバックを与えることでポジティブな方向に舵を切るべく個別面談などを通じてフォローアップをしている。テストの結果に対してダメ出しではなく、学習計画にテストの結果を反映させて次の学習に繋げるのである。

教師も塾講師の真似事をしてしまっている

批判を恐れず言えば、教員も生徒の成績の伸びによって評価されている。教える側も、指導力の向上に勤しんでいる。決して悪いこととまでは言わないが、そもそもなんのためのテストなのかを考え直せば、生徒の取り組みを評価する事で、次の一歩へとポジティブに向かわせるためである。もちろんその成果が学力向上となって現れ、教員がその評価を受ける理屈は理解できる。
一方で先述のように必ずしもテストが得意な子だけではない。
テストは不得意でもよりよく生きている生徒もいる。テストが万能でないことは分かりきっている。
にもかかわらず、学校現場の教員が受験のための講師と同じ学びのスタイルを生徒に求めることのおかしさを再認識する必要がある。

関係性を通じた教育へ

上記の学びから本書では関係性を通じた学びを提言している。つまり協働学習や教師との関係性を駆使する。協働学習ではテストの点数による競争ではなく、共に学ぶ、共に成果物を作成する共創相手と位置付ける。教師との関係も評価をする側とされる側ではなく、生徒が定めた目標を達成すべく支援する側になる。
つまり先述のウォッシュバック効果の負の側面を解消しようという訳である。

評価はどうするのか?

管理教育から「協働作業で成果物を作る」や「自身で定めた目標を達成する」への移行すると評価はどうするのか?と問われるだろう。本書ではプロセス評価とリフレクション評価を提案している。
学習した結果成績が伸びたかどうかよりも、どのように学習したのかを重視する。自分の学習方法がうまくいったのかどうかを自分で振り返って評価する。

そんなことしたら、みんな満点じゃないか!?と公平性や平等性について不満をいう人もいるだろう。
自己評価が甘い子もいるだろう、だが別にそれで構わない。当初に説明した通り評価は他者と差をつけるために行うものではなく自分で定めた目標への達成度を測るものだからである。
例えばメダカの飼育が上手くいかなかったとしても、二度目の飼育では一度目より上手にできるはずである。二度目にうまくできる理由は一度目の失敗から学びがあるからである。

こう言った取り組みが、教育を成果主義から開放するといえる。

受験の歪さ

こと大学入試に限って言えば、大学に入った後にグループワークや調べ学習とレポートの提出、プレゼン発表が多く課題として求められているにもかかわらず、入学の際には適正として求められている能力がテストに強いことというのが歪である。
また内申点も受験の、評価材料になりうるがゆえに平等性や公平性への意識が強まりすぎてテストでの評価しか許されない雰囲気がどこかあるのではないか?
もちろん大学での学びを実りあるものにするために高校の学習内容を習熟しているかどうかをチェックするためのテストである。とか、昨今では総合型や学校推薦型入試も拡大している。とも言える。

だが本書で問題提起しているのはテストの根本的な考え方の変換である。

外国では評価をどうしているか?

本書は決して日本に絞った内容が書かれているわけではない。つまりここに書かれているテストの暴力性は海外にとっても当てはまるようである。しかし、アメリカ、カナダ、オーストラリアの学校を仕事で視察した際に日本の学校の学びやテストと大きく違うと感じている。
同じ学校で働く外国人の先生のテストや評価の考え方も日本のそれとは大きく異なっている。
比較的パフォーマンステストが盛んに行われている海外に比べ日本では個人のペーパーテストが主流である。
中間・期末試験一発評価という学校も少なくないであろう。平常点といっても割合は非常に少ない。一方で海外ではParticipationといって授業への参加度や小テスト(クイズ)の方が学期末テストよりも比重が重い。
授業参加の度合いは教師の主観によるかもしれないが、その権限が与えられているのも確かである。だからこそ教師は人格者が求められるのかもしれない。
ハリーポッターでも教師から理不尽にも見える減点をもらうシーンもあれば、実は主人公の努力を見ており評価してくれるシーンもある。

日本の学びのスタイルが全て悪というわけではないが、この学び「でなければならない」という考え方をもっと柔軟に受け止めて海外に限らず評価のスタイルを根本的に問い直すことは絶対に必要である。

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