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【絵本エッセイ】うちの絵本箱#4『「もりのなか」の不思議』【絵本くんたちとの一期一会:絵本を真剣に読む大人による絵本本格評論】


マリー・ホール・エッツ作『もりのなか』の不思議


0.はじめに

 月日の過ぎるのは早いもので、もう第四号となりました。そろそろマンネリではないかと、題材を選ぶにも一工夫が必要になってきましたが、古典でもあり、珍しくもあるものがいいのではないかということで、今回は、一九六三年に福音館書店発行(原典の初版は一九四四年)の古典、マリー・ホール・エッツ文・絵、間崎ルリ子訳『もりのなか』を選びました。

 なぜこの本が我が家の絵本箱に眠っていたかといいますと、どうやら母が知人からもらってきてくれたからのようですが、二歳になる娘は、本の出どころなどお構いなく、大いに気に入っているようです。私は残念ながら最近になるまでその存在を知らなかったのですが(あるいは、小さいころは、鈍感だった私にはそのよさがわからなかったのでしょう)、娘につられて読むうちに、いつの間にか引き込まれていました。

 私が今回、そんなこの本をことさらに選んだわけは、この白黒の静的な絵の、起伏の少ない物語が、今もいいましたが、奇妙に心を惹きつけるからです。話に起伏はあまりないのですが、一風変わっていて、どこか強く印象を残すのです。一読したぐらいでは、つかみどころがなくて、なかなか深い理解には至りませんが、今回取り上げることで、一度その魅力について肉薄してみたいと思った次第です。


1.『もりのなか』の不思議

それでは、どのような手順でその魅力に迫ったらよいでしょうか。あまりに茫洋としていて、なかなかとっかかりが見つかりません。が、私は、何度も読んでみて、あることに気が付きました。

それは、今言った通りそのままで、茫洋としていて、とても不思議だということです。私は、この作品の全体を、開き直りかもしれませんが、この「不思議」という言葉でまとめたいと思いました。

では、どういうところが不思議なのでしょうか。私は、いくつかの論点にまとめられると考えました。


「ぼく」について

まず、主人公の少年「ぼく」についてです。「ぼく」は冒頭で紙の帽子と新しいラッパをもって散歩にでかけることにします。この起承転結の起の部分は、いい意味でとぼけた、素っ頓狂な感じで、何が起こるかわからない、その後を期待させてくれる始まりで、ストーリー展開としてもいいと思いますが、まず、この「ぼく」が、紙の帽子とおもちゃのラッパというきわめて無防備な出で立ちで出てくるのが不思議な感じがします。とても探検や行進に出かける格好ではないのです。私は最初、ハーメルンの笛吹男や軍楽隊の行進を思い浮かべたのですが、すぐに違うと思いなおしました。あくまで散歩であり、のんびりしていて、行進と散歩で大きな落差があります。ただし、明らかに見た目は行進です(後でサルたちも言っています)。それを散歩と言っているところも不思議ですね。また、「ぼく」は、森へ出かけられる唯一の人間であり、特別な存在なのに、まったく普通の少年として描かれているところが、不思議な感じがします(物語の常套手段としては極めて普通かもしれませんが)。


絵について

次に、絵についてです。エッツ本人による、きわめて地味で静的で、しかもリアルな絵が全体として不思議で、かつ可笑しな味わいを醸し出していますが、まず、動物たちが二足歩行するところが珍妙です。特に、ライオンが王冠をかぶっているのが可笑しいですね。このように、リアリズムの絵なのに、可笑しなシチュエーションが描かれているところが、きわめてユニークです。このようにある意味でふざけていて、笑いを含んでいるところが、この本の魅力の一つだと思われます。不思議でかつ可笑しいのです。


文体について

文体についてです。全体に簡潔でシンプルなのに、深い余韻を漂わせていますが、特に、英語の原文では、「森で散歩をしているとき」「○○もついてきました」と繰り返されるテンポの良さが、とても心地よく、また不思議な味わいです。間崎ルリ子による言葉を補いながらも簡潔かつニュアンスに富んだ訳文の魅力もあるでしょう。


動物たちについて

副主人公ともいえる動物たちについてです。七場面で十二匹登場します。まず、なんといっても、エッツの生国であるアメリカに住んでいない動物たちも登場するのが不思議です。ライオンとクマとカンガルーが一堂に会するなんて、動物園やおもちゃ箱以外ではありませんよね。少なくとも森の中で遭遇するなんてことはありません。そんなことがあったら一大事です。また、その動物たちの姿が奇妙です。セーターだけ・靴だけや余所行きなど、てんでばらばらの格好をしています。動物が服を着ること自体が奇妙なのですが、それがまた、変な格好なので、笑ってしまいますよね。また、持ち物も変です。櫛、靴、ピーナッツとジャムとおさじ、太鼓、どれも子供のおもちゃのようなガラクタです。動物がこんな物を持つなんて思わず笑ってしまいます。最後に、そうした一緒にいるはずがない動物たちが、てんでばらばらの姿と持ち物で、思い思いの楽器を使って一緒に合奏する前半のクライマックスシーンは圧巻のヘンテコさです。みんなてんでばらばらなのに合奏しているところ、黙って歩きながら演奏しているところなどが、思わず笑みがこぼれてしまう可笑しさだと思います。ここも、可笑しさかつ不思議さの共存です。


ピクニックとゲームについて

次いで、ピクニックとゲームについてです。まず、誰もいない森の中にピクニックの用意がされていたというのが奇妙です。「跡」というのは、日本語の訳の問題でもあるのですが、それにしても、なぜ森にはこう不思議なことが起こるのでしょうか。跡を荒らすというので、共犯者にでもなった気がします。次に、ゲームについてですが、「ハンカチ落とし」と「ロンドン橋落ちた」という子供の遊びを動物たちがするというのが、大変面白いです。擬人化されたということなのでしょうが、「ぼく」と動物たちが友達になる通過儀礼として描かれているという以上に、奇妙であるといえると思います。また、遊んでいるというのに、キャーキャー騒いでいる印象がしないのも変わっています。私はこれは、絵の特徴として何となく静かな雰囲気が漂っているからだと思います。最後に、「かくれんぼう」ですが、鬼にウサギが隠れないのが見えるというのが、おかしいと思います。また、どうして動物たちは一匹もいなくなっているのでしょう。なんとも合点のいかない話です。「ハンカチ落とし」と「ロンドン橋落ちた」とで、「かくれんぼう」の伏線になっているのがわかりますが、夢落ちの一種かもしれないとして、「かくれんぼう」で話が締められるは珍しいですね。これも不思議のオンパレードです。


お父さんについて

お父さんについてです。お父さんは、「ぼく」とともに読者が現実に戻るためのきっかけとなっているだけでなく、はたしてすべてが空想だったのかどうかワクワクし、次の冒険が楽しみになり(註:詳しくは続編『またもりへ』(一九六九年、福音館書店刊(原典は一九五三年刊)を参照されたし))、安心して読み終わるための装置になってくれています。また、私は、ここでお母さんではなく、お父さんが落ちになっているのが重要だと思っています。つまり、お父さんは、普通大人社会の代表者のような存在です。家庭にはあまりいないのが通常です。そんないつもはいない、いかめしいはずのお父さんが、突然現れて、夢のような子供の空想を完全否定しない。優しく受け止めてくれている。この意味で、この本は、お父さんを信頼する子供と、優しく子供と子供の空想の世界を受け入れる、ユーモアあふれるお父さんとの触れ合いを求める本であり、また、お父さんにそうであってほしいと願っている本なのだと思います。ただ、やはりこれは普通にはあまりないシチュエーションであり、その意味で実に想像力豊かな興味深い描き方です。そんな豊かなイマジネーションの産物として、ここは非常に不可思議な雰囲気が漂う場面となっています。まさに夢のお父さんの登場場面として、ふわふわと不思議な感覚が漂っているのかもしれません。


森について

最後に、舞台である森についてです。タイトルにもあり、舞台になっている森とは、どんな場所でしょうか。第一節のまとめにもなりますが、私は、森とは、一言で言って、不思議の場所であると思います。最初にも言いましたが、そもそもアメリカの森に棲んでいないライオンやゾウやカンガルーなどが出てくるのはおかしいですし、ピクニックの「跡」というのも妙な話です。「かくれんぼう」をしたら、動物たちがみんないなくなってしまったというのも変です。私は、こうした奇妙な動物たちが共存し、奇妙なことが起きる森とは、どんなことでも起きてしまう、不思議のごった煮の世界、とでもいいましょうか、そういう特別な場所であるといえると思うのです。あるいは、あらゆる動物や生物や出来事が共存してしまう、森羅万象の世界とでもいいましょうか。


以上、全体のストーリー構成を考えながら、中心となる特徴である不思議さの要因となっているいくつかの観点を取り上げてきましたが、これで不思議なことばかりの物語であることが分かったと思います。冒頭から不思議なイメージはありましたが、物語が進むにつれ、どんどんその不思議さは加速し、最後まで消えることがありません。

それでは、こうした表面的な特徴の下に隠れている、この本の発するメッセージとはいったい何なのでしょうか。以下の項では、そうしたもう少し突っ込んだ内容に触れていきたいと思います。


2.自由な動物たち

 一体全体、この奇妙な物語の深層には、どんなメッセージが隠れているのでしょうか。私は、この物語の中心部分である、動物たちの登場シーンの分析から始めたいと思います。


子供の代弁者としての動物たち

動物たちの登場シーンは、絵本でよくあるパターン化した繰り返しの構成になっており、前節でも触れた通り、七場面で十二匹の動物たちが登場します。ただし、みな、奇妙な行動をとり、共通点はほとんどありません。この動物たちの一見奇妙な行動は、どのように分析できるでしょうか。 

まず、ライオンは昼寝をしており、髪を櫛でとかすと散歩についてきます。私は、まず、昼寝をするところから髪をとかすという行為への変化が、自主的に人間の仲間になるという意識の表れであると思います。また、さらに重要なのですが、私は、ライオンがぼさぼさの髪をしているというところがポイントだと思います。つまり、子供というものは髪がぼさぼさであることが多いです。また、髪を櫛でとかすという行動を嫌がります。それを百獣の王(絵には王冠が描かれていますね)ライオンが喜んでしている。子供の代わりにライオンが髪をとかされてくれるのです。子供はこれで十分に喜びます。あのライオンさんも髪をとかすんだ!ライオンさんにとっても髪をとかすのは大変なお仕事なんだ、と感情移入するわけです。

続いて、二匹のゾウの子供(原文では赤ちゃん)は水浴びをやめ、セーターと靴を身に着けてついてきます。これは、ゾウも人間の仲間になる決意したという事実を表すとともに、子供には服を着るのも靴を履くのも一仕事だということを表しています。あのゾウさんも、お洋服を着るんだ!靴を履くんだ!と、子供は大喜びです。

二匹の茶色のクマは、ピーナッツとジャムとおさじをもってついてきます。子供は甘いものをなめるのが大好きです。クマも子供の象徴なのです。

カンガルーの夫婦は赤ちゃんに飛び方を教えていましたが、太鼓を持ってついてきます。子供は音を鳴らすのが大好きです。太鼓も大好きなおもちゃの一つです。また、お父さんとお母さんに直接物を教えてもらえるというのは、大変嬉しい経験です。

灰色のコウノトリはじっとしていて、黙ってついてきますが、落ち着きのない子供にとっては、じっと黙っている存在も面白いでしょう。奇妙に心惹かれるのではないでしょうか。第一、「妙な鳥」とちゃんと書かれているではありませんか。

二匹のサルは「行列だ!」と叫んで、余所行きの洋服を着てついてきますが、子供はたまにお出かけをします。子供はそうした、たまのお出かけも大好きですから、サルがお出かけの支度をするのは、十分に共感の対象なのです。また、この場面のサルのセリフは、裸の王様の一幕を思わせ、愉快です。そんな痛快なサルは、子供たちのお気に入りになりうる存在なのではないでしょうか。さらに、叫ぶ、という行為も子供は好きだということを指摘しておきましょう。

最後のウサギですが、何もしないというところがポイントです。何もしないというのは、子供にとって一番か弱くかわいらしく思える性質ではないでしょうか。その意味で一番身近な存在がウサギなのです。小動物で、子供が実際に飼える、アメリカにもいる身近な動物であることも関係しているかもしれません。

 このように考えてくると、一見奇妙に思われる、ばらばらな動物たちの行動が、全体として動物から人間の仲間へと擬人化される意識の変化を表すとともに、子供の心を惹きつける装置として機能していることがわかります。すると、それ以降の話も同じように考えられることがわかってきます。

たとえば、前半のクライマックスの合奏ですが、子供たちは音を出すのが大好きです。

また、いろいろな動物が思い思いの楽器で演奏していますが、これはいろいろなタイプの子供たちを体現しているように思われます。ここの場面は、子供の好きなことをし、大勢の子供たちがかかわっていることを示唆することで、やはり子供の興味をぐっと引き付ける意図を感じます。

その後のピクニックとゲームも、みんなが擬人化され、一体化し、仲のよい仲間・友達になることを表しており、子供たちが動物をさらに身近な存在に感じるようになるきっかけになっている気がします。特に、「かくれんぼう」の後で動物たちがいなくなり、お父さんの導きで「ぼく」が人間の現実の世界に戻っていくと、動物たちが「ぼく」の(仮定かもしれませんが)仲間だったことがわかります。そして、「ぼく」は動物たちの王国である森にまた帰ってくることが示唆されます。動物たちは、「ぼく」と、その味方である読者の子供たちの一番の友達であり、理解者であるといえるのです。また、英語の原文で、二度ほど「ぼくの動物たち」、と表現されている個所がありますが、擬人化された動物たちは、「ぼく」のおもちゃのコレクションのような、愛着のある存在でもあるのです。

このように、動物たちは、「ぼく」=子供たちの立場を代弁する存在であり、大事な仲間であることがわかりました。主要な登場人物である動物たちが、このように子供の立場を代弁する存在であるからこそ、この物語は子供たちの心をとらえてやまないのです。一見めちゃくちゃな動物たちですが、物語内の立派な装置として機能しており、不思議でありながら、愛すべき存在でもあるのです。この不思議さと愛らしさとのほどよいバランスが、この作品の非常に巧妙な仕掛けであり、読み味わう上での醍醐味であると思われるのです。


自由な動物たち

もう一つ、この動物たちに関して、大事な観点があります。一言でいえば、友達同士だけれど、連帯意識が緩く、それぞれが自由にのびのびしているという点です。

 たとえば、「ぼく」の先導する散歩は、強制されたものではありません。みんな、「待って!」と自分からついてきます。また、みんな、セーターや余所行きなど、思い思いの格好で参加しています。楽器もてんでばらばらです。行列はできていますが、あくまで散歩なのです。先導する男の子である「ぼく」には、何の権力もありません。加えて、みんな違う動物です。生息する場所も本来異なる、異種の動物たちです。

私は、これらの点が、さまざまなタイプの存在が混在している不思議の森で、みんながのびのびと行動していることの表れであると考えます。また、みんなが散歩に自由意志で参加しているというところがポイントなのでは、と思います。そして、そういう意味で、ここでは自由の理念が体現されていて、どこかしらアメリカ的である気がするのです。すなわち、独立した個人が束縛・強制されることなしに、何かをなしているという意味で、自由なのです。

こうした特徴に表れているこの物語の基本的発想は、国民全体が「右に習え」をしがちな日本では、難しい発想なのでは、と思われます。おそらく日本の民話などでは、ここまでばらばらの動物たちを描きえないのではないかと思われるのです。しかも、自由意志で動物であることをやめ、自ら擬人化すらされるのです。こんな面白い表現が、かつて日本の児童文学に存在したでしょうか。

こうした自由意志の参加によるてんでばらばらの散歩の行列。サラダボールのようなアメリカ合衆国の混然一体社会を暗示しているように思います。牽強付会の解釈かもしれませんが、これは一つの自由な読みの可能性を示しているのではないでしょうか。少なくとも私には、紙の帽子をかぶって、新しいラッパをもった、散歩の先導をする男の子が、非常に魅力的に見えるのです。自由の国アメリカの理想を体現してでもいうかのように。非常にはつらつとした、自由の国の希望が少年の形で私たちの前に姿を現してくれている。そんな印象を持つのです。私の手元にある版には古くて記載がないのですが、この本が、後でことさらに「世界傑作絵本シリーズ」というシリーズに入れられ、「アメリカの絵本」と銘打たれた、ということも、そっと指摘させていただきたいと思います。


3.結語:不思議ということ

さあ、ここまでにおいて、この物語における「不思議」ということの様々な側面を考えることができました。子供の立場の代表としての動物たちと自由の理念の表象としての動物たちという隠されたメッセージについても言及しましたが、やはり何といっても不思議ということが一番際立った特徴といえるでしょう。

その不思議という特徴ですが、「ぼく」の奇妙な登場の仕方、リアルでかつありえないシチュエーションを描いた白黒のユーモアあふれる絵、全く共通点のない動物たちの登場と、その奇妙な共存などを主な理由として成立しているといえました。また、全体としては、起伏が少なくも、詰まった中身の物語によって、静けさと騒がしさの同居という不思議さが喚起されているといえるとも思います。ここで結論を一言でいえば、この不思議さという特徴こそがこの物語の主な魅力の源になっているのです。

では、なぜ不思議ということが、魅力の源なのでしょうか。それは、端的に言えば、不思議であるということは、心に特殊な作用を及ぼすからです。読者は、その不思議さに捉えられて、目を離すことができなくなるのです。

私たちが普段住んでいる日常的現実の世界は、すべて原因はこれこれこうだから、こうなった、と説明のできる世界です。これは決まりきったつまらない世界です。心が高揚することも、惹きつけられることもないでしょう。いつも同じことの繰り返しだからです。それに対して、不思議の世界は、つまらない日常の世界は違っていて、説明のつかない謎に満ちていて、見飽きることがありません。そして、そこに身を浸すことで、つまらない現実の世界を生き抜いていく新たな力が湧き上がってくるのです。

この物語の森とは、そういう非日常の世界を象徴しているのだと思います。だからこそ、「ぼく」はいつか現実の世界に引き戻されてしまい、不思議の世界は一瞬で終わってしまいます。ですが、この自由なおとぎ話の国では、また森に戻ってくることができるといわれます。「ぼく」とともにいる読者の子供たちは、この物語とともに、謎に満ちた非日常の世界に遊び、また、つまらない現実にいったん引き戻されても、いつでもおとぎの世界に戻ってこられると、力強く保証してもらえるのです(しかも、現実の代表者お父さんによって!)。その意味で、この作品は、自由な空想の世界に遊べる子供というものの特権、そして、空想=非日常の世界に遊ぶことの大切さ、その力の強靭さ、そういうものを、声高にではありませんが、静かに歌っている作品であるように思います。

 この物語で実現されているのは、それ自体とてつもなく不思議な世界なのですが、それをこのように意識的に行っているところが、ことさらにユニークであるように思います。先にも述べましたが、地味ながら、リアルかつとぼけた、ユーモラスな白黒の絵によってもそれが際立つのではないでしょうか。大変魅力的であるとともに、興味深い作品であり、試みであると思います。

こうしたこの物語は、大人も有無を言わせず惹きつけるのですが、特に空想の大好きな子供はこういう不思議な世界に敏感だと思われます。一言でいえば、ノンセンスの世界です。これは、子供のように柔軟な発想でないと、ついていけない世界かもしれません。その意味で、この本は、大人よりも子供により直接的に語り掛ける作品なのでしょう。

はっきり言えば、前節で述べたアメリカ的であるうんぬん、といった問題など、どうでもいいのです。大人である私たちも、この「自由の不思議の森」に遊んでみる、自由な子供心を忘れないようにしたいものです。それが、私たちがこの本を読むと真っ先に思い出すことであり、この本を、そして、あらゆる絵本を読む上での、一番の絵本くんたちへの恩返しであると思われます。

これからは、そうしたことを意識しながら、自由に絵本くんたちの不思議の世界を読み味わいたいものですね。少なくとも『もりのなか』を読むときには、そうでありたいです。私は、繰り返し読むごとに、そんな思いが強められそうな気がしています。これが、絵本を読む醍醐味なのかもしれませんね。私は今回、そういうことに気付かされました。その意味でも、この本を取り上げてよかったと思います。これも『もりのなか』のおかげです。すごい本ですね(笑)。

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