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【絵本エッセイ】うちの絵本箱#3『「てぶくろ」の魔力』【絵本くんたちとの一期一会:絵本を真剣に読む大人による本格絵本評論】


特集:ウクライナ民話、ラチョフ絵『てぶくろ』 の魔力


0.はじめに

さあ、また始まりました。うちの絵本箱です。つい先日、創刊号を上梓したと思ったら、またたく間に第三回となりました。日本の女性作家の大ベストセラー『ぐりとぐら』を取り上げた第一回が方々でご好評を得ていますが、今回はちょっと毛色を変えて、ウクライナ民話でエウゲーニー・M・ラチョフ絵、内田莉莎子訳の『てぶくろ』を題材に選びました。

一九六五年に福音館書店発行の『てぶくろ』の原典は、一九五〇年にラチョフの絵でロシアで出版されました。福音館書店の当時の編集者(松居直さん)が、その簡易な日本語版を神保町のナウカ書店でみつけ、インドに送られていた原画が返ってくるのを待ちながら、惚れ込んでいる翻訳者の内田莉莎子さんに訳を依頼する形で、出版の運びになったそうです(註:参考文献1参照)。それ以来、この日本語版『てぶくろ』は、三〇〇万部を超える大ベストセラーとなり、また、かつてないロングセラーとなって、今に至っています。

 この愛らしい挿絵の、リズミカルな名訳の名作絵本は、私も小さいころ、よく読んでいたように覚えていますが、なぜ今、私の手元にあるのかは不明です。ですが、一代下った娘にも大のお気に入りになりました。せがまれて繰り返し読み聞かせていますが、その民話らしいテンポのよさといった特徴を一度整理してみたいと思い、また、次々に登場する動物たちが何を含意しているのかなどと、気になるところがあって、今回、あえて執筆の対象にした次第です。


1.民話としての特性 

それでは、どうしてこの『てぶくろ』が、それほど人々の心をとらえてやまないのか、以下の稿で探っていきたいと思います。

 それは、一文にまとめると、民話の特性としてのパターン化した文のテンポのよさと構成の安定感、ラチョフの絵と内田莉莎子さんの訳文の妙、ならびに寓意的な主題の深さにあると思われます。まず、民話としての特性について考えてみましょう。

 民話としての特性の第一とは、作者がいない、その匿名性にあると思われます。したがって、一般の個人の著作のように、作者による責任ある文章の彫琢がなく、自由な語の選択や組み合わせの妙がみられません。その代わりに、口承によって受け継がれながら、余計なものがそぎ落とされ、磨き抜かれてきた、ある型に則った、リズミカルな文体とパターン的な構成が特徴的です。私はこれを、「繰り返し」と「変奏」と「安定した形式」と呼びたいと思います。


繰り返しについて

繰り返しとは、端的に同じ内容が繰り返されることです。多くの研究者も指摘しているようですが、具体的には四点あります。第一に、手袋に入ってくる動物が七匹で、手袋に動物がやってくる光景が七回繰り返されること、第二に、その際の問答が、「だれ、てぶくろに すんでいるのは?」「○○。あなたは?」「○○。わたしも いれて」「どうぞ」と決まった形であり、やはりこれが七回(六回?)繰り返されること、第三に、その後、地の文で、「ほら、もう ○ひきに なりました」と説明されること、そして、第四に、「○○」にあたる動物の名前に、「くいしんぼ」「ぴょんぴょん」など、必ず形容辞がつくことです。こうした繰り返しによって、一定のリズムと響きが生まれ、聞き手に心地よい安心感を与える効果があるように思います。


変奏について

 さらに、繰り返しと同時に変奏もあります。これも四点あります。

まず、繰り返しのところで挙げた問答についてですが、毎回微妙に違います。たとえば、「だれ?」(かえる)、「だれだい?」(うさぎ)、「どなた?」(きつね)、「だれだ?」(おおかみ)、「だれだね?」(いのしし)、「だれだ?」(くま)、といったように、細かいところで、ほぼみな違ってきます。受け答えの細かい語尾もそれぞれの動物で異なっていますし、特に「どうぞ」の答え方は、それぞれの動物で長さや中身が違い、だんだん長くなり、それぞれの性格がよく出るようになっています。

第二には、問答の間の地の文も、少しずつ異なっています。「ぴょんぴょん はねてきました」(かえる)、「はしってきました」(うさぎ)、「やってきました」(きつね)、「きました」(おおかみ)、「やってきました」(いのしし)、「きのえだが ぱきぱき おれるおとがして、くまが やってきました」(くま)などです。

第三に、ねずみからくままで、だんだん動物が大きくなっていきます。最初はねずみで手に乗るくらいの大きさだったのが、最後はなんとくまにまで巨大化し、人間より大きくなってしまいます。

第四に、絵についてですが、最初ははしご、床、次に入口、そして、煙突、窓、鈴と、住居としての手袋に、改築の手が加えられていきます。これは、読んでいるだけではなかなか気づきにくい点かもしれませんが、読んでもらっている子供たちは、よく目をこらして見ているようで、大人以上に気付くそうです(註:参考文献1参照)。

これら四つの変奏は、聞き手に、次の場面へのわくわくとした期待をいだかせる効果があると思われます。


安定した形式について

 最後に、安定した形式とは、大層な名前を付けてしまいましたが、要するに、話の大枠が、おじいさんに始まって、おじいさんに終わるという、安定した閉じた形式になっていることです。日本的な起承転結とは違いますが、ちゃんと落ちがついていて、とてつもないほら話になりかけていたストーリー全体が、リアルな結末に回収され、読者は安心して、話の最後を迎えることができるようになります。


補足:ほら話の要素について

 もう一点だけ、民話の特性として付け加えておきたいことがあります。それは今も少しふれましたが、話の荒唐無稽さということです。つまり、ほら話ということです。『てぶくろ』でいえば、これも四点あります。

まず、誰でも気づくことだと思いますが、そもそも手袋にくまやいのししが入れるかということです。どれだけ大きな手袋なのでしょうか。はたまた、持ち主であるおじいさんがとてつもない巨人なのでしょうか。いずれにせよ、人を食った話です。

二点目は、冬にかえるがいるのかということです。そもそもウクライナのような冬の寒そうな国にかえるが生存できるのか、疑問に思います。少なくとも冬にかえるが出てくることは考えられないでしょう。かえるは冬眠する生物ですものね。

三・四点目は、絵についての話なのですが、手袋にはしごや床はともかく、窓や煙突ができるでしょうか。また、動物が衣服、それも民族衣装を着ているのはおかしいのではないでしょうか。ウクライナなので、民族衣装はいいとしても、手袋に穴が開いてしまっては、おじいさんが持ち帰った時に困ったのではないでしょうか。しかし、絵を見る限りでは、再びおじいさんが手袋を拾い上げたときには、窓の穴は消えてなくなっています。なんとも不思議な話です。しかし、後の二点は、画家であるラチョフのユーモアやアイデアに帰されるので、後に置くとしましょう。

とにかく、巨大な手袋の問題は、誰もがあっけにとられる、ほら話的な要素です。しかし、私はこれが民話の一つの特性であり、面白さだと思うのです。このほら話的な要素がすんなり耳に入ってきてしまうところに、構成のうまさと文体のテンポのよさなどがかかわってきて、見る者の耳目をひきつけてやまない大きな魅力になっていると思われます。

 以上に観てきたように、繰り返しと変奏と、安定した閉じた形式によるリズムとパターンの快感、ほら話の味わいといったことが民話としての特性のいくつかであり、ウクライナ民話としての『てぶくろ』を読む醍醐味につながることが肯われると私は、思うのです。

 それでは、次に、『てぶくろ』の魅力のもう一つの源であるラチョフの絵と、そこからも導かれる『てぶくろ』の主題、つまり動物の寓意の深層について、探っていこうと思います。


2.ラチョフの絵の魅力と動物の寓意

ラチョフについて

エウゲーニー・ラチョフ(一九〇六―一九九七)という人は、シベリアで生まれ、モスクワで没したロシアの絵本作家であり、ライプツィヒ国際図書展銀メダルなどの受賞歴のある、傑出した画家です。挿絵画家として知られ、特にこの『てぶくろ』が世界的に有名です。

その作風は、前期と後期で分かれるようですが、前期では、黒い輪郭線による緻密なリアリズムで知られています。この一九五〇年版の『てぶくろ』でも、愛らしいとともに、緻密で美しいリアルな絵が、なんとも豊かに話に表情を与えてくれています。

 ただ、ラチョフの絵は、ただ美しく愛らしいだけではありません。動物に衣装を着せ、それも民族衣装だったり、家としての手袋に改築の手が加えられたり、と、かなり特殊な意匠がこらされている点も見逃してはならないと思います。ある資料によると(註:参考文献2参照)、ラチョフが動物に民族衣装を着せるのは、単に装飾的な意味合いだけではなく、人間としての寓意をもたせるため、また、民族的な色を与えるなどのためだといいます。それで、動物たちに民族性や性別・年齢・社会関係などの個性が生まれるのです。たとえば、はっきりと調べはつきませんでしたが、文中の問答の語尾などからも推量されるように、ぴょんぴょんがえるやおしゃれぎつねは女性なのでは、のっそりぐまは老人なのでは、などと衣裳によって推測されるのです。

主にこうしたラチョフの工夫によって、個々の動物たちに個性が生まれることがわかりました。私は、これがこの話の表面的ではない主題や、深層の読みときの楽しさにつながると思っています。そして、それがラチョフの、ヨーロッパの伝統的な寓話の伝統に自作をことさらに加え入れた目的であるように思うのです。

つまり、『てぶくろ』も一つの寓話です。表面的な意味以上に、裏に込められた深い意味が存在している、イソップやラ・フォンテーヌなどのヨーロッパの伝統につらなる一つの深い物語形式なのです。

そこで、ここで思い切って、ただ七匹の動物が手袋に入って面白いという表の意味だけではない読みときも試してみたいと思います。その際、手掛かりになるのが、短い文と、このラチョフの絵であるでしょう。いささか参考までにラ・フォンテーヌの『寓話』も読んでみました。かなり難しいですが、思うさまを存分に述べてみたいという、本シリーズの企図に沿って、頑張ってみようと思います。


寓話としての『てぶくろ』:ユートピアの夢と現実

さて、七匹の動物のイメージですが、文とラチョフの絵からいうと、ねずみからうさぎまでが、小動物で、いきいきとしたよいイメージです。きつねが女の子で中間色。おおかみからくままでが、凶暴な大動物で、悪者のニュアンスが漂っている気がします。さらに、辞書的な意味合いなども付け合わせると、ねずみは、ちょこまかうろちょろとせわしなく動き回る感覚。かえるは威勢がよくて虚勢を張る、うさぎは足が速くて元気だけれど、間が抜けているイメージ。きつねは、ずる賢いというのが一般的なニュアンスですが、ラチョフの絵を見ると、むしろかわいい娘さんのように見えてきます。後半のおおかみ、いのしし、くまになると、強くて荒々しい、恐ろしいイメージがわくと思います。特におおかみは、「はいいろ」という暗いニュアンスの接頭辞がつくだけに悪者で、いのししはいばった役人のよう、くまはのっそりとした体の大きな暴れん坊といったところでしょうか。

私はこうしたすぐに思いつくイメージから、次のことを考えました。こうした雑多な、弱い者から強い者まで、小物から大物まで、善人から悪人まで、すべての人間のタイプを取りそろえたような七匹の動物が一堂に会した手袋とは、社会とか世界とか宇宙というニュアンスだと思うのです。また、か弱い小動物たちとそれを取って食ってしまいそうな大きな動物たちが共存している、というところに、この物語の妙味があるのではないかと。つまり、普通なら争い、食うか食われるかの争闘を繰り広げる動物たちが、平和裏に小さな手袋に住まっている。それは大変ほほえましく、和やかな風景です。ある種のユートピアといってもいいでしょう。私はこれが、この『てぶくろ』の寓意の一番奥底に込められているメッセージだと思うのです。すなわち、すべての人たちが共存共栄していく夢です。そして、読者は、この美しい夢を深層レベルで感じ取り、それに共感し、だからこそ、この荒唐無稽な物語を読んで、気持ちよく安心して満足していられるのだと思います。

この深層心理的なメッセージの背景には、画家であるラチョフの生きた時代も関係しているかと思われます。戦争つづきだった二十世紀の前半、その後のスターリンの独裁政治。強者の論理に弱者が痛めつけられていたのかもしれません。でも、きっと、そんな中でも、多くの人々は、みなが仲良く寄り添って、共存して生きていく夢を忘れなかったのではないでしょうか。そして、きっと、いつか平和な世の中が実現し、みなが幸福になれると、信じていたのではないでしょうか。私は、そんな願いがそこはかとなく、この物語の裏にあるような気がしてなりません。

もちろん、古くから伝わる民話ですから、近代の歴史を読み込む無理は承知です。牽強付会になる恐れもあります。ただ、敵同士が共存するという夢は普遍的な夢であり、だからこそ、どんな時代にあっても、どんな場所にあっても、人々の心をひきつけてやまない力があるのではないでしょうか。私はこの稿を書き進めるうちにそんなことを考えるようになりました。

ただ、この話には後日譚がありますよね。共生していた動物たちは、おじいさんが手袋を拾い上げるという落ちのところで、再びちりぢりばらばらになってしまい、共生の夢は、一瞬ではかなく終わってしまうのです。これをどう考えたらよいのでしょうか。

私は、やはりそこは民話という安定した形式にもたれつつ、ユートピアは所詮ユートピアであるという冷めた目線が存在し、美しい夢を見た後、再びリアルな現実に連れ戻してくれるという、別の意味で安心な現実的志向が根本にあるということだと思うのです。夢は夢だから美しい。だからこそ、安心して見ていられるのです。夏の花火、冬の手袋、というわけです。私はこの相反する二つの傾向がどちらも見られることに、理想にも現実にもただ単純に足をすくわれない、ロシアの民族的なたくましさを感じ取るのです。


補足:個々の動物のイメージについて

これが私の『てぶくろ』に関する個人的な思い入れの部分でしたが、いかがでしたでしょうか。もしかしたら、こうした考え方は、私自身が幼いころ母から受け継いだ考え方かもしれません。いささか安易な着地点に落ち着いてしまった気もします。いずれにせよ、最後に補足的に、個々の動物をどんなイメージでとらえたかという点に、少し言及しておきます。

まず、なぜおおかみを悪者ととらえたかといいますと、おおかみに関する「どうぞ」の合いの手が、「まあ いいでしょう」と弱冠後ろ向きになっているからです。また、衣裳もぼろぼろで、清潔な感じがしませんでした。こうしたことから、また、「はいいろ」という暗いイメージの接頭辞からも、悪者という感じととらえました。ラ・フォンテーヌの『寓話』でも、おおかみは幾度となく登場しますが、いつも暴虐な強者、権力者という寓意があったように思いました(註:参考文献3参照)。ここでも、そのニュアンスが生きていると考えました。その他、ねずみはがつがつした庶民、かえるは身分違いに憧れる小市民、うさぎはすばしっこいとんま、きつねは娼婦、いのししは傲岸で短気な暴れ者、くまはお人よしの力持ち、といった、さまざまな形容を思いつきました。そのよりどころは、『広辞苑』だったり、今挙げたラ・フォンテーヌだったり、様々です。こうしたイメージとは、人さまざま、時代さまざま、国様々だと思います。本来なら、ウクライナ地方の伝統的な動物の寓意を調べるべきだったでしょうが、ご当地の知り合いがおらず、諦めました。ここは日本。そして、私は日本の読者。そこはあえて日本のイメージでよいのではないのかと、開き直ってみた次第です。


3.結語:『てぶくろ』の魔力

それでは、『てぶくろ』の魅力を最後に簡単にまとめたいと思います。

その前に、どうしても触れておく必要がありながら、これまで言及することができなかった、訳者である内田莉莎子さんについて、触れておきます。


訳者内田莉莎子について

 第一節の民話としての特性の項で触れましたが、民話のよさとして、リズミカルな文体ということが挙げられました。私は、これは、日本語版の場合、訳者の内田莉莎子さんの技量にもかなりを負うていると考えます。

 内田莉莎子さんは、大翻訳家・作家の内田魯庵の孫で、早稲田大学露文科卒、版画家としても知られるワルワーラ・ブブノワ女史の門下生で、ポーランド留学の経験もあり、この『てぶくろ』のほかに、これも大ベストセラーの『おおきなかぶ』などで、名翻訳家として知られています。音楽にも造詣が深く、ピアノを教えていたことがあり、その翻訳の音楽性には、なみなみならぬ才能を感じとることができます。当時の福音館書店の編集者松居直さんはその才能にほれ込んでいたらしく、ぜひにといって、『てぶくろ』の翻訳を内田さんに依頼したそうです(註:参考文献1参照)。

 私は、ロシア語の教養がないので、今回は原典と突き合わせての確認ができませんでしたが、それでも、「くいしんぼねずみ」「ぴょんぴょんがえる」「おしゃれぎつね」「のっそりぐま」などといった、ユーモラスなネーミングの妙にはうならされますし、全体の無駄のない、それでいて余裕を感じさせる、響きのよい日本語に、心からの心地よさを感じます。リズミカルという以上に、気持ちのよい美しい日本語だと思います。こうした訳者の妙手がかなりこのロングセラーの人気にかかわっていると思われます。そして、このリズ ミカルで楽しい余裕のある日本語と、パターン展開する構成とが、読者の安心を呼び起こすことは、もう述べましたね。読者は安心して心地よく先へ先へとつれていってくれる文章の流れに身を浸すことができるのです。まさに快楽です。

 この内田莉莎子訳であるということが、いま言った通り、日本語版『てぶくろ』の魅力のかなり上位に挙げられる要素であると私は思います。

ここまで述べたうえで、早速まとめに入りたいと思います。私は、『てぶくろ』の魅力に、次の四点がかかわっていると考えます。


まとめ:『てぶくろ』の魅力

第一点目は、第一節でも見た通り、民話としての特性です。安心とワクワク感を呼び起こす、パターン化した構成とリズミカルな文体。また、ほら話的な要素。これが昔話を読むときの醍醐味でもあることはすでに述べましたね。

第二点目が、今言った内田莉莎子さんの訳の力です。

第三点目は、これは第二節ですでに触れましたが、ラチョフの芸の細かい絵の力が挙げられます。見惚れるほどの細かいリアリティと同時に懐かしい感じを起させるエキゾチシズムに彩られていますが、なによりそれぞれの動物たちの愛らしい民族衣装や、手袋の改築などにみられるとおり、茶目っ気たっぷりでユーモアにもあふれています、見る人はまさしくほっと一息をつきながら眺めることができるのです。すましたおしゃれぎつね、ぼろぼろのはいいろおおかみ、いばった金満家のようなきばもちいのしし、凶暴そうでお人よしでもありそうなのっそりぐま…みな、どこかユーモラスです。もちろん、手袋にはしごがつけられ、床ができ、入口が建て増しされ、しまいには煙突がそびえ、穴(窓)まで空いてしまうなんて、論理的には言語道断、でも、思わずにこっとしてしまいます。

こうしたラチョフの芸の細かさが、子供も大人もひきつけてやまない、この『てぶくろ』 の魅力の大きな部分を占めているのは、間違いのないことといえるでしょう。

第四点目の寓意については、人それぞれ思い浮かべるイメージも違うでしょうし、深層心理的な問題にもなりますし、深く突っ込めば、それこそヨーロッパのアレゴリーの系譜全体を突き詰めねばなりません。これは専門の研究者の手にもあまることなので、私はここでは諦めたいと思います。ただ、その奥に眠っているユートピアの夢については、たわいなくも美しい願いとして、大事に取っておきたいと思います。これは、誰もが思いつくような陳腐な見解もしれませんが、『てぶくろ』の好きな人のうち多くの人が賛同してくれる比較的オーソドックスな考え方であり、みなが知ってか知らずかしてか深く共感しながら読んでいる、この物語のもっとも美しい部分なのではないかと、ひそかに考えています。


「魔力的ハーモニーを奏でる民話」

と、一応まとめてはみましたが、今回は、残念ながらこれ以上突っ込んだ内容を述べることができません。この文章は、私自身のオリジナルな見解を付け加えることができていなという点で、あまり成功していないとお断りしなければならないでしょう。ただ、無理を承知で一言で述べると、「魔力的ハーモニーを奏でる民話」とでもいえるでしょうか。

なぜこんな表現にしたかといいますと、『てぶくろ』は、すでにまとめたように、よい意味で民話の持つすばらしさを最大限に引き出せている作品です。次に、すばらしい訳と絵と深い寓話的メッセージです。私は、この四つの要素のいずれが欠けてもならないと思うのです。訳は子供たちの大好きな名調子であり、絵はロシアの人民芸術家の作品、メッセージは大切な平和の夢です。この四つの要素の最高度のハーモニー=魔力的ハーモニーが、この名作中の名作のよって立つところだといえると思います。

このように、この『てぶくろ』は、文も絵も高度に優れており、内なる思想も非常に豊かな、すばらしい民話の絵本です。こうしたレベルの物語なら、これほどの人気があってもおかしくはないのです。私たちは、優れた日本語と繊細な絵でこの本が味わえることを、一つの決して小さくはない幸福ととらえてもよいのではないでしょうか。

ウクライナ民話、エウゲーニー・M・ラチョフ絵、内田莉莎子訳『てぶくろ』。侮りがたい魔力的な本であります。


参考文献

1)二〇〇五年四月二十三日(土)~九月十八日(日)開催の国立国会図書館国際子ども図書館主催の展示会「ロシア児童文学の世界―昔話から現代の作品まで」関連講演会「ロシアの絵本を日本の子どもに」福音館書店相談役松居直(平成十七年九月三日)(http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_998514_po_2005-07.pdf?contentNo=1

2)大角洋子「文芸における「窓」」プール学院大学研究紀要第四九号、二〇〇九年一~十四(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007478283

3)ラ・フォンテーヌ著、今野一雄訳『寓話』上・下、岩波書店、一九七二年

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