ちょっと 一休み
何らかの「自覚」あるいは「意識」を持たなければ、「問う」ということはなく、問うことがなければ、他者と関りを持つこともありません。
しかしそのような一連のことが行われるようになると、人はそれを「生きる」とか「私」という言葉でとらえ、それと自ら向き合うことで「生きるとは何か」「私とは何か」といった問いを問うことになります。
「生とは何か」、そしてその生がやがて終わることになる「死とは何か」
これらの問いは、人間が人間である限り、問わずにはいられません。
あるいは、その問いを問う者を、我々は「人間」または同類とみなします。
(例えば、AIが自らこれらの問いを問うでしょうか。)
「生きるとは何か」「私とは何か」
生や私を問わない者は、いったい「何」を生きているのでしょうか。
知らないうちに与えられた生、手近にあった間に合わせの生、それを疑いもせず、無反省に、それしかないものだと思って漫然と生きている。
そのような者は、「生の奴隷」だと言うしかありません。
さて、それでは、「生とは何か」「私とは何か」そのように問うた者、問うている者はどのように生きるのでしょうか。
生や私の答えが見つかるでしょうか。答えを見つけて確かな生を生きているのでしょうか。
いえ、その問いに答えは見つかりはしません。
問いを問い続けて、答えが見つからず、答えが見つからないからなおも問うときに、人は知ります。
問うことが生であると。
「問いの問い人」
問いを問うて半世紀を自任するジジイからの一言でした。
ちょっと、一休み。失礼いたしました。