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徒然草 其二〜ところとこころ〜

みなさん、おはこんばんにちは。
最高気温が20度を下回る日も出てくるようになり、季節が変わったことを感じさせます。
京都や長野のような盆地で紅葉を見てのんびりしたいと思います。
もちろん、そんな時間はないんですが…。休みが欲しいです。
皆さんはどんな秋をお過ごしですか?

ところで、『釣りのハイパーセミオティクス』(中沢新一 著)という評論文を知っていますか?
現代文Bの教科書に載っているものをチラッと見ただけなのですが、
簡単にいうと、人と魚とが持つ生き物としての「コード」は釣りによって初めて「横断」する、と言うような話でした。
違っていたらすみません。

でも!!
ここで思ったのは、「ん?『初めて』?」なんです。
何も別に、この評論にケチをつけるわけではなくて、
「初めて」と言うところに引っかかったんです。
それぞれの生物が持つ生物としてのあり方や命としての存在をコードとするならば、それを語るのがセミオティクス(記号論)なわけですが、
この地球という生態系において、コードが横断する(交わる)のは常のことだと思うんです。
全てのコードが相互に影響し合うことで生態系が、生命が成り立っているんだと思えたんですね。
つまり初めて横断するのではなく、初めて「認識される」ということだと思いました。
「釣る」という行為によって、魚は自らの生死を本能的に認識するでしょう。逃がすまい、とて人は魚のコード(波?)を認識します。
ここに、コードの駆け引きがあるような気がしませんか?
そういう意味では、「認識」だと思うんですね。
もちろん持論ですが。

これって、何も人と動物に限ったことではなくて、人と人にも言えると思います。
人のコードを認識することで人と関わっていくと思うんですね。
悪く言えば「顔色を伺う」ということですが、
よく言えば「思いやる」ということだと思うんです。
思いやりって「Hospitality」だと思うんですが、
でも、なんか違うと思うんです。言い表せない「日本語感」があると思っています。
そういう意味では日本語って素敵です。
雨の言い方が何通りもあったり、情感を表す言葉が幾重にも重なっていたり、
古典の世界から1000年の時を超えて続く趣が日本語にはあると思うのです。
美しい日本語は、鼻濁音の発話者の数も含めて減少傾向にあります。
綺麗な日本語を、雅と趣のある日本語を、残すとともに、興味関心を抱く。
この心を忘れない日本人でありたいと思います。
もちろん、海外の文化や言語だって大好きです。
こんな時代だからこそ、曲がった愛国心ではなく、心からその国の人らしさを漂わせることのできる人間でありたいと、そして、そういう人間を育てたいと、思うのです。
青二才が、何を言っているのかとお思いの方もありましょう。
でも、若い世代が興味を持たなければ、廃れていくんですよ、何事も。
政治だってそうです。
史上最少年の総理大臣は、初代総理大臣の伊藤博文(44歳)でした。
戦後の総理大臣の平均年齢は60歳ほどだと思うんです。多分。
うーん。と思いませんか?
なんか、少子高齢化の理由が少しだけわかった気がしませんか?
そんなに単純ではないと思いますが、単純な一本の紐が絡み合うから複雑になると考えれば、単純でしょう。
高齢者がトップに立ち牽引する国は、高齢者のための世の中に傾倒すると思いませんか?
無理にでも若い世代が、国民が、声をあげ立ち上がらなければ、ないがしろにされ、踏み台にされる労働力人口の年齢層。
人生100年時代を目前に、年金支給の繰上げや定年の廃止など、諸問題が山積みです。
若い世代が声を上げないと、始まらないと思いませんか。
いろんな思想の方がおありですから、とやかくは言いませんし、言わんでください。
もしこれを見て、憤る方がいらっしゃったとしたら、あなたは、税金と時間を無駄にして、予算委員会中に予算以外のことで、体たらくな資料とともに閣僚に詰め寄る口だけ議員と同類と認定します。
大人しく、いろいろな意見を認めてください。
民主主義ですから。
これも、人と人のコードです。

コードを認識する時、もしくは、第三者のコードの認識を見る時、
片方が誤ったコードの認識をしているのを見ることがあります。
よくあることですし、私にもあるのですが、
てんで違う方向を向いて認識しようとする人もいるんですね。
一度や二度とであればいいのですが、毎回ともなると、辟易してしまうんです。こういう点は大人になれないんですね。。。
仕方ない、と割り切ってはみるのですが、
どうして「考える」ことを放棄したり、「考え」てダメなら「熟考」するという移行をしなかったり、するのかなぁ、と思って見ています。
お前がなんぼのもんだと言われればそれまでですが、
私も一人生を歩むものとして、一学習者として、一教育者として、一人間として、学ぶ謙虚さと歩んだ自負を持っているつもりですから、こういう考えに至ってしまうんですね。
謙虚さを生むのは「遠慮」か「知己」だと思っています。
ー実るほど頭を垂れる稲穂かな
の句にもあるように、「知己」の極みは「謙虚」であると思うのですが、
謙虚にはもう一つあって、「遠慮」だと思うのです。
ある意味「知己」ではあるのですが、自分が一学習者であることを「知った」上で、師・先立の前で「遠慮」するのです。
大抵の謙虚さは「遠慮」です。食卓で残る唐揚げの最後の一個と同じです。
自負というと偉そうですが、自負の極みは「知己」であるとも思っています。
自らの歩んだ道を背負うからこそ、自らを知ることにもつながる、と思うのです。そういう意味で、自己分析は大切です。
私は自己分析が足りない部類の人間ですが、
自己分析信者に限って、自己分析が一番おろそかだったり、見当違いだったりするんです。学んだことをそのまま鵜呑みにするような、消化していると思い込んでいて、熟考しないんです。身の程を知り間違えているんです。
○○ができない原因は△△にある!と思い込むんです。違うのに。
自分の要領や容量を棚にあげるんです。効率悪いなぁと思います。
まぁ、実際には、側から見ると、違うように見えるのに、です。
私はというと、精進あるのみです。
知己の頂に少しでも近づけるようにしようと思っています。

徒然草 其二
ところとこころを生きる人間になりたいなぁと思う今日この頃でした。

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