見出し画像

たまに海外でソフィア・ロッシと名乗ることについて。

 しばらく欧州をうろうろしていたとき、偶然から友だちになった中国人留学生の子たちが、なぜだかフランチェスカだのマリアだのと横文字の名前を名乗り始めたときには、ちょっと驚いた。
 私が「今、フランチェスカって言った?」なんて確認を取ると、かわいく小首をかしげて「これは海外用の名前なの」って前置きをしてから、手帳に漢字で書いて本名を教えてくれた。もう長いこと象形文字を見ていなかったから、小学校で習った漢字だけで構成されたフランチェスカの本名は、涙が零れそうになるくらい懐かしいものに見えた。
 フランチェスカをフランチェスカと名付けたのは、彼女たちを欧州に送り出した中国の大学のゼミの先生だったのだそうで、みんな和気藹々と「私はこんな理由でこんな名前にしていただいたの」と教えてくれたけれど、細かいことは私の語学力がついて行かなくて記憶できなかった。

 私が海外用の横文字ネームを持っていないと知ると、この中国人留学生たちは「何度も名前を間違えられるのってストレスが溜まるでしょ、私たちが決めてあげる!」と盛り上がった。残念ながら命名会議は時間切れになってしまって、私はそのままアジアの名前で生活を続ける運びになったけれど、自分の新しい名前について考えてもらえるのは、すごく楽しかった。
 いつかまた会えるといいねと言い合って別れたときには、最後に「フランチェスカ、マリア、リサ……」と指さし確認をしたけれど、フェイスブックで繋がってしまえば漢字まじりでやり取りするのが便利だから、それっきり私が彼女をフランチェスカと呼んだことはない。

 それから数ヶ月後、レストランに電話予約を入れなくてはいけなくなったとき、なかなか伝わらないアジアの名前を電話口で連呼するのが嫌で、ふと「ソフィア・ロッシです」と名乗ってみたとき、フランチェスカたちが横文字の名前を使っていることの意味がしみじみと分かった。
 予約を受け付けてくれたレストランの従業員は、一度も聞き直さずに「はい、ソフィア・ロッシさん。今夜の7時ですね。それでは後で」と確認を取って、ぷつりと通話を切った。情報伝達にムダがないって、素晴らしいことだった。お互いに苛立つことなく、予約の時間を店員と客として楽しみに待てるっていうのは、想像していた以上に気楽だった。

 苗字にロッシを選んだのは、その国で一番ありふれたものだと聞いたことがあったからで、名前をソフィアにしたのは、父が付けてくれた私の本名が、たとえば智子だとか聡美だとか、知性や聡明さにちなんだ漢字を含むものだったから。ソフィアという名前が知性を表すことを知っていたのは、アニメが好きなソニアという名前の女の子が「私たち、ロシア語と日本語で同じ名前なのね」と笑ってくれたことがあったからだった。イタリア人のソニアが、どうしてロシア系の名前を持っているのかは、まだ聞いたことがないから分からない。

 なにか自分を示す記号が必要な時にだけ、もしその方が便利なら名乗るソフィア・ロッシっていう名前のことを、あれから一度も顔を合わせていないフランチェスカは知らないんだけど、もしもまた会えたときには、彼女がフランチェスカで私がソフィアだっていう話で笑いながら、いつか一緒に飲みたいねって言ったアジアの香りがする緑色のお茶で一服したい。


#名前の由来

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?