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人命以上の「価値」とはどういうことだろうか。
ロシアの暴挙によって引き起こされたウクライナ問題の戦争について、そう思うときが多々ある。私含めて第二次世界大戦後という時代では、戦争というのは、他人事であり、戦争を知らない子供たちの代名詞になる唄もあったくらいだ。とりわけ戦争反対と言っておけば、正常な国民だと思われているのだろうか。心理学においてミラーリングという手法がある。相手とコミュニケーションを取りやすくするために、同じ動作を真似るのであるが、基本的な考え方は、相手が自分と同じ(共通)判断基準を持たせるようなイメージを持ってもらうために行うのである。ある意味、このミラーイメージングというのは、陥りやすい罠でもある。つまり、日本国民であれば戦争というキーワードは、まさに「反対」であり、二度と起こらないという価値観になっているのであろう。しかしながら、人というのは「まさか」だとか「最悪の事態」を考えることが心理的に難しいと言われています。

今、戦争を仕掛けるということは世界中の世論が想定しないことであり、仕掛けた代償も大きな損失となってしっぺ返しをくらうことがわかっているからである。そういう価値観に陥っているのであるが、プーチン政権のロシアは侵攻を開始した。1990年にもフセイン政権のイラクはクウェートへ侵攻を開始したが、その時点までは「まさか」である。中国による台湾や尖閣諸島への侵攻は、本当に起きないのだろうか。中国自身に多大な経済損失を被ることがわかっているので、習近平国家主席は本当に判断を誤らないだろうか。多くは起こり得ないとする指摘は強いものの、侵攻して来る可能性はゼロではなく、その保証も無いのが事実であり誰も否定はできない。

2011年3月、日本では戦争では無いものの東日本大震災という未曾有の大災害を経験している。もう既に10年以上も経っているが、未だに完全な復興は出来ていないどころか、この災害によって世界各国で原子力発電の是非を問う議論が始まった。このエネルギー問題で日本では原子力発電と共に原子力という核関連に関して、全てが否定される価値観になっている。これは核爆弾による被爆国であるが故に更に肥大化した価値観となっているものであろうと思われる。しかしながら、文明の進歩というべき次世代ではデジタル化社会になって生活の利便性は向上しているのだろう。また、脱炭素をもとに一次エネルギー削減などから全ての動力源などはEV化(電力)するように開発が進んでいる。これはこれで上手く大儀になっているように思えるが、今まで以上に膨大で良質な電力を生み出さなくてはならないのも事実であり避けては通れないだろう。その矢先に、6月7日に今年の夏の電力需要逼迫による節電要請の議論が交わされた。世界の顔である「東京」が停電になる恐れ、そして節電を呼びかけられるのである。そして、未だ終息の目処がつかない未知の新型コロナウイルスによる世界パンデミックが現在も進行形である。震災含め感染者パンデミック、いずれにしても「まさか」の事態であり、最悪の事態となってしまった。流行語にもなった「想定外」というものだ。

でも、一度経験してしまえば「備える」ことができる。また、自国に降りかかるであろう問題に関して「備える」ことができるはずである。日本国民全員に戦争観を持って欲しいとは思わないが、「まさか」とか「最悪の事態」ということに関して無関心になってはいけないというものである。つい先日の世論調査では(読売含め各報道局)、防衛費の増額等に関しては50%以上の賛成意見があった。それは、中国が台湾や尖閣諸島での侵攻が繋がる可能性について、「懸念している」「ある程度の懸念をしている」との回答が80%を超えているからだと思える。ただ、否定意見なども半数近くあり拮抗しているとも取れる数字だ。一方で日米が連携してロシアや中国に対して対抗する姿勢を打ち出したことについては、70%以上も評価する数字が出ていたが、あくまでも首脳会談の中だけなので、有事となった場合に本当にアメリカが日本を守ってくれる真意は不明と言わざるを得ないであろう。
(まぁ防衛費増よりも労働契約法の改定となって研究開発者(頭脳)が他国へ流れでるかも知れない、、、国内の危機的問題の方が優先すべきか。。。これはまた別の問題ですね。よく、すり替わって問題定義する人を見掛けるので。。。)

つまり、他人事としてではなく「自分事」として捉えられるかどうか、その価値観が重要であると思われる。「備える」といっても簡単なことではない。まず一番のネックになるのは法律であろうし「憲法」改革が必要であるということ。そして制度も整っていない。日本には戦闘という概念が無いことから「自衛隊」という「自衛官」しかいない。また、もし日本が外国から侵略された場合「自衛隊に参加して戦う」と答えた人は、たかが数パーセントという世論調査結果が出ている。特に人の問題は深刻であり、世界各国を見渡しても日本は最低レベルであり、そもそも論、戦争という概念の価値観は極端に少ないのである。(これはこれで平和的に良いことかも知れないが、、、、)

「価値観」という概念はどう育まれるのか。
ここでも良く紹介していますが、最近のテレビのCMは「コト」を中心においたストーリー仕立てが多くなっています。車や生保など様々な商品ではあるものの、CMの最後になってようやく商品や企業名が出てくるだけです。つまり、その商品が人生のどの部分で必要とされるかのシチュエーションを演出しているのである。

規模は異なるものであるし、比較してはいけないかも知れません。しかしながら、ビジネスにおける「商談」というのは、特に住宅に関わる商談ごとで新築住宅ならば、30年以上という人生の半分を住宅ローンで縛ることになる。30年と言えば30歳でローンを組むと60歳の高齢になる。息子や娘も立派に成人し家を出て、結婚をして新しい家庭や家族を築いているかも知れない。もちろん、彼らから見れば親の家は(売った家)、かけがえのない実家になっているのである。住宅を売るということは、買って頂ける人や家族の人生を背負っているかも知れないということに繋がる。そういう商談だという「覚悟」を持っているかどうか。家族の命や人生を預かっているにも等しい仕事なんだという自覚を持っているかどうか。失敗したら歩合支給が無くなるかも知れないの前に、気づいて良かった、指摘してもらって良かった、授業料だと思えるかどうか。これを教訓(ネタ)に次の商談へと向かえるかどうか。

ウクライナ人は命を賭して、命よりも「価値」を守るために戦っているのではないのか。
それは「自由」であり「独立」であり「尊厳」である「価値」なのであろうか。核保有国である大国のロシアに対して、早々に降伏すればあらゆる被害も損害も最小限になるかも知れないが、譲れない「価値」に対して、守るべき「価値」に対して粘り強く戦っている。
日本国民は、決して他人事ではない「自分事」として捉え、「覚悟」を問うことの大切さ、そして「価値」に対して向き合うことの重要さを認識すべきではないだろうか。。。

ビジネスも同様だと思う。ビジネスの基本は、同じ産業内で競争しているのである。競争に負けたら生活できないかも知れない。働く場所を失うかも知れない。会社が倒産するかも知れない。(そこまでには、他にも色々な理由がありますが、、、)
いくら「コト」を語っても、「モノ」を売らないとダメなのです。生きて行くこと、生き抜いて行くということは簡単に美化できるものではない。覚悟や価値というのは、個人の主観的な範疇かも知れないが、きれいごとのように美化できるものでは無いということであると思います。

20220606