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2. Cuccagna シェフ・今木宏彰さん(3/4)  ー“料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語ー

 今木さんは、イタリア中部に位置するウンブリア州のグッビオというちいさな町に向かった。城壁に囲まれた高原地帯にあり、他の町へ出るのもひと苦労だったという。ここでももちろん休日はRistorante巡りをしていたが、例えばローマのRistoranteで食べたければ早朝に町を出て、昼にはローマを発たなければ、グッビオまで戻って来れない。最寄り駅までの終電が無くなり、途中から親切な見知らぬイタリア人に、車で乗っけてもらうことも多々あった。そんな行動は時にトラブルを呼んだ。Ristoranteまで運転を買って出た人が、着くなり「オーナーを呼んでくれ」と言い、「俺はここまで、こいつを連れてきたんだから、車代を請求する」と言うこともあった。「誰にでも、付いていくんじゃない」と、叱られた夜だった。

「グッビオの中世都市のような街並みに最初はすごく夢中になりました。でもちいさな町なのですごく閉鎖的な雰囲気もありましたね。他の州と比べて宗教色が強い印象で、今も中世の貴族を受け継ぐ家系の人がいたりと、階級社会の雰囲気が残る街でした。僕が入った[Taverna del Lupo]は街の有力者が営んでいるRistoranteだったのですが、雇っている人と雇われている人の境がはっきりしていて、リッチョーネのお店とは全然印象が違いましたね。食事の席も、経営者家族、イタリア人と他のヨーロッパ人グループ、その他の外国人グループという風に分かれて座り、賄いの料理も違う。それを差別と感じたかと言うと、そうではなくて、立場がはっきりしているのは、当然やしわかりやすいなと感じました」
 2番手のシェフに付いて、さまざまなポジションで働く。おもしろかったのは、突然オーナーにある提案をされたことだった。
「Giapponese!(日本人!) お前は、寿司は握れるのか?」
 チャンスがあれば何かしらアピールしたい。そう思っていた今木さんは、思わず「おう、できるよ」と答えた。
「じゃあ、寿司を握ってくれよ」
「いいよ。でも俺はステージで研修に来ているわけだから、寿司を握っても、俺にメリットがない」
「じゃあ、いくらだったらやるか?」

 その日から、メニューに「Il menu giapponese(日本料理のメニュー)」が加わった。寿司だけでなく、「Tempura」や「Carpaccio di giapponese」も加わった。
 当時イタリアにも、日本ブームが訪れはじめた頃だった。日本の文化に対してなんとなく興味を持っている、そういう雰囲気が人々の中にあった。それは食べ物だけでなく「BONSAI」や「ZEN」という言葉が入りはじめてきていたことからも、うかがえる。高層ビルが建ち並んで、全てがコンピューターで管理される近未来の国らしいという話もあれば、馬に乗ったサムライがいる国らしいという話など、いろいろな情報がごちゃ混ぜになっている時期。謎に包まれるアジアの孤島という存在だった。

 あっという間に時は過ぎ、4ヶ月が過ぎた。そろそろ次の店で、勉強したい。今木さんはそう感じるようになった。
「次はどうしようかな。そう考えていると、星付きのRistoranteで働いている日本人の先輩のことを思い出して。今まで新イタリア料理をやるような星付きの店よりも、伝統的な郷土料理を手がける店に興味を持っていたけれど、星付きってどんな仕事をするんやろう? 気になって先輩に連絡をして、次の店が決まるまでの期間、少し勉強させてもらうことになりました」

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[Taverna del Lupo]の他にも、いくつかのRistoranteで過ごしたウンブリア州。写真はサン・ジェミーニにある[Poggio del Sole]にて


星付きRistoranteで出会った、運命の味

 訪れたのはイタリア北部のピエモンテ州・トリノにある星付きのRistorante[Ristorante Barvo]。先輩が暮らしている家に、居候をさせてもらって厨房へ参加する。そこのRistorateは、ピエモンテ州の郷土料理であるAgnolotti(アニョロッティ)やタヤリン、そしてVitello tonnato (仔牛のトンナートソース)といったような料理が人気。13種の食材それぞれを衣を変えて揚げた、Fritto misto alla piemontese(ピエモンテ州のフリットミスト)など、見た目も芸術作品のように洗練されたひと皿。今まで働いていた店とは異なるかっこ良さがあり、目を見張る経験だった。

 ちなみに今木さんは、ここでも、“謎に包まれるアジアの孤島”への興味を投げかけられる。

「ある時、店の前のタバコ屋さんへタバコを買いに行くと『おい、giapponese(日本人)! おまえは、SHIATSU(指圧)ってできるのか?』と聞かれたんです。僕、格闘技をやっていたので、整骨院の先生が師範だったことがあるんですね。だから先生に何回か施術してもらったこともあったし、道場の隣の整骨院にも通っていて。なんとなくどこをどう押したら良いか、ということを知っていて。だから思わず『SHIATSU!? できるよ!』って(笑)。ちょっとやってくれないかと頼まれて、わかる範囲でこういう感じだよ、とやってみたら、『すごいわぁ、お前すごい!』って。『お小遣いやるから、たまに来てくれよ』と喜ばれました(笑)」
 それから時々タバコ屋のジーノさんが、Ristoranteの裏口にひょっこり現れるようになった。
厨房の今木さんに向かって、
「おい、giapponese! 今日はいけるか?」
「OK!」
というやりとりが、交わされる。おじさんはすっかりSHIATSUに満足したようで、「うちの前の店で働いている日本人は、SHIATSUのマエストロだ!」と、方々で感想を口にするようになった。ある日おじさんから、提案があった。「SHIATSUに興味があってやってもらいたいという人がいるぞ。店の一角を貸してやるから、客の紹介料込みで、俺に1,000リラでどうだ」。
アルバイトのようなSHIATSUの仕事が始まった。「今日の昼、大丈夫か? 二人予約が入ったよ」。彼の感想に多くの人が興味を持ち、予約が入っていく。
「そのSHIATSU代のおかげで、いろいろな店にご飯を食べに行ったりできました(笑)。彼はえらく僕を気に入って、かわいがってくれたんです。バールで会う人会う人に、僕のことを紹介してくれていました(笑)」

 陽気にジーノさんや周りの人と言葉を交わす今木さん、話を聞いているとその姿はありありと想像ができる。こうして今木さんの、トリノでの生活が続いた。

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[Ristorante Barvo]での、ある日の昼食

「日曜日はシェフのお母さんがやってきて、みんなに賄いをつくってくれるんです。それが店の習慣なんですね。みんなでテーブルを囲んで、マンマのご飯をいただく。店の料理は盛り付けも綺麗で、もちろん美味しかったんですが、何が驚いたかって、この賄いを口にした時、あまりの美味しさに、頭の中にガツーンと衝撃が走ったんです。マンマは南イタリアのプーリア出身で、賄いはブイヨンでお米を炊いただけのひと皿だとか、牛スネ肉をまるごとオーブンに入れて焼き上げたひと皿が出てくる。シンプルで素朴な味わいで、初めて食べる料理なのに、なんだかすごく懐かしい味がして。『僕がやりたかったのはこれだ!!』と、パッと開けたような気持ちになりました」
 イタリアは南よりも北のほうが仕事があり、多くの南部出身者が働き口を求めて北を目指す。マンマも若い頃、南のプーリアから北のトリノへ仕事を求めてやってきたひとりだ。その美味しさに感動し、「この料理は何!?」と尋ねる今木さんに、「Cucina Povera(貧しい土地の料理)。南イタリアの、本当に昔ながらのCucina Poveraよ」と、マンマは言った。

 これが真のイタリア料理なのではないか。そうだ次は南に行こう。今木さんの心は決まった。当時は今以上に南部は治安が悪いイメージ。周囲のイタリア人からは、「南なんか行ったら危ないぞ。あそこはイタリアじゃない」そう言われた。でも、今木さんの好奇心はおさまらない。そこからまずはプーリアを訪ねて、いろいろな店を回った。知り合った人から紹介されて、シチリアのカターニャにある[Ristorante la Siciliana]に辿りついた。

「ここが僕のこの後の人生を変えた、大切なお店です」

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[Ristorante la Siciliana]を紹介してくれた、ホルテさん家族と


2. Cuccagna シェフ・今木宏彰さん(4/4)“料理とイタリア”  現地へ渡った料理人のちいさな20の物語ー につづく。


<Information>今木宏彰さんのお店
シチリア料理専門店 Cuccagna

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