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勉強の時間 人類史まとめ18

『帝国』アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート2


ポストモダン-----近代の次に来る時代

そもそも「ポストモダン」という言葉は、文学とか哲学とか芸術でよく使われますが、その場合は近代の合理主義とか科学至上主義的な考え方がともすれば非人間的な仕組みを生みだして、人間に苦痛や違和感をもたらすので、それに対する反撥から、モダンなもの、合理的・科学的なものを乗り越える価値観として生まれてきた考え方を表します。

つまり、多くの人にとってポストモダンなものは人間の精神の中にあるもので、合理的な仕組みで運営されている政治とか経済など、現実世界の原理、方法論とは考えられていないわけです。

しかも、自由主義とか資本主義を支持する人たちにとって、21世紀の今でも合理的であることは正しいことだということになっているので、そもそもネグリとハートが提示する「帝国」という概念自体、理解しにくいでしょう。

さらに、そうした政治的、経済的な仕組みを批判し、改革しようとする左翼的な人たちも、多くは今のポストモダンな政治・経済体制を理解していないので、彼らの批判や改革は的外れなものになってしまうと、ネグリとハートは言っています。


上から支配しない権力機構


古い左翼的な批判や改革の試みは、「国家や資本が上から支配・搾取している、人間はそこから疎外されている」という前提に立って、国家や資本の外側から考えられ、実行されてきました。

しかし、ポストモダンな仕組みは、政治的にも経済的にも、伝統的な上からの支配体制ではないし、人間を必ずしも仕組みの外に締めだしていません。人間はゲーム的な仕組みの中にプレーヤーとして存在し、ルールの下で自発的にプレイしています。

それを、まるで仕組みの外にいるかのように、外から批判したり、仕組みの変更を要求したりしても効果はありません。

企業や公的機関の従業員にデモやストライキをやる自由はありますが、体制側は昔のように理不尽な弾圧はしませんし、合理的に判断して要求を受け入れる場合もあります。ポストモダンな仕組みはとても柔軟で、昔のように暴力や謀略で反対運動をつぶしたりしません。

グローバルな資本や超大国に対して、地域に根ざしたローカルな反抗というのも世界の各地で起きていますが、ポストモダンな仕組みは中央集権的ではないので、都合が悪くなればその地域から拠点を、あるいは影響力をほかへ移してしまうことができます。

あるいはこうした反抗は、その地域の野蛮で強権的な国家によって、暴力的に弾圧されるかもしれません。その場合、グローバルな超大国も国際機関も、強権的な地域の国家を非難したり、介入したりしますが、事態を根本的に変えて、その地域と住民が豊かで自由になるところまで支援したりはしません。

こういう柔軟な仕組みを持っているグローバルな「帝国」と戦うには、外から批判したり要求したりしても無駄だとネグリとハートは言います。世界中の人間がこの「帝国」の内側に取り込まれているんだから、「帝国」が与えてくれる立場や機能を活かしながら内側から戦う方がいいというのが、この本の大まかな提案です。


規律から自主管理へ


わかりやすく説明するために、あんまり『帝国』のテキストから離れてゲームの比喩で語っていると、肝心なところがぼやけてしまいそうなので、グローバルな「帝国」を支えている仕組みのポイントをもうひとつだけ紹介してみます。

初めに今のグローバルな「帝国」は洗練されていると言いましたが、それは政治的な制度として民主主義が普及しているとか、経済が自由主義で運営されているとか、問題があれば国家や企業のあいだで話し合ったり、国際機関が調停したりして解決しているといったことが言いたかったわけではありません。

表面的にはそうしたルールによっていろんなことが運営されているのかもしれませんが、あくまでそれはゲーム、フィクション上のできごとであって、実際には国家や民族、資本、企業、個々人といったものからなるゲームのプレーヤーは、もっと違う力によって活動しています。

それを大まかに言うと「パワー」ということになるでしょうか。

権力もパワーですし、電力も、人間の筋力も生命力もパワーですが、この場合のパワーは「意欲」、欲望をエネルギーとしてそれを満たすために意識をはたらかせて活動する力といったものです。

パワーは個人にもありますし、家族や仲間、企業、地域社会、国家にもあります。

いろんなプレーヤーがそれぞれパワーを発揮して欲望を満たそうとするわけですが、無政府状態でパワーがぶつかりあうと混乱や闘争が起きて、世の中が回らなくなりますから、そこに一定の秩序、決まり事が必要になります。これを国家のようにプレーヤーの上に立つ機構が制御・統治するというのがいわゆる政治です。


プレーヤーがルールを守ることで運営される仕組み


しかし、いろんなレベルの無数のプレーヤーが活動する近代では、なんでもかんでも国家や地域の行政機関が裁定しているわけにはいきません。プレーヤーどうしが約束事を決めて、これを守ることで世の中を回していくといったことが必要になります。

国家の機能を重視した思想として有名なのは、ホッブスの『リヴァイアサン』で、社会の約束事を重視した思想で有名なのがジョン・ロックの『社会契約論』です。

この二人は大まかに言うと17世紀イギリスの人です。

17世紀はイギリスがヨーロッパ諸国に先駆けて絶対王制から清教徒革命による共和制、王政復古を経て、立憲君主制による近代的な議会政治を実現した時代です。

中世から近代への移行は、ヨーロッパでも国によってタイミングや手順が異なりますが、近代の国家や社会とは何かといったことは、この時代のイギリスで初めて明確になったと言えます。

18世紀に産業革命が起きて、19世紀に資本主義経済が急速に発展し、ヨーロッパ諸国がそれぞれの事情の中でいろんな紆余曲折を経て、近代国家、近代社会を形成するようになっていったわけですが、その過程でも17世紀のホッブスとロックによる国家と社会の定義、機能の説明は基本的に有効でしたし、基本的には今でも有効だと言えるでしょう。


支配から管理へ、管理から調整へ


しかし、20世紀になると、この近代的な仕組みに、ある大きな変化が起きたことが指摘されるようになりました。それは20世紀に新しく起きたのではなく、18世紀あたりから徐々に進んできたのですが、20世紀になるまで誰も気づかなかった変化です。

簡単に言うと、かつてはプレーヤーが上から与えられた規律を守っていたのが、近代になると自ら進んで、あるいは自らの意欲に突き動かされて自分たちをコントロールするようになったということのようです。

王政の時代は国王が民を支配し、規律を守らせていましたから、これは上から強制された規律です。

民主主義の時代になると、国民が自分たちで法律を決めて、それを守るようになったわけですが、それでも法律とか社会のルールは強制力をもって国民の行動を制限しますし、国民はそれに従うしかありません。

企業のような経済のための組織も、法人という社会的な人格を持ち、国や社会の規律・規範に従うことが求められ、それに従います。

こんなふうに、国家や社会の仕組みは自分の外にあって、規律・規範に従うことを強制される、求められるものだと多くの人は考えているでしょう。

しかし、実際には近代という時代が長くなって、人や企業が様々な仕組みに慣れてくると、多くの人が必ずしも規律や規範が外にあるとは感じなくなってきています。特に経済を基盤にした人の生活とか、企業の活動では、資本主義の仕組みに慣れ親しんで、精通し、意欲的に活用すればするほど得をすると理解し、納得しています。

もちろん人によっては給料が安いとか、会社の事業がうまくいかないとか、国の制度が不公平だとか、色々不満はあるでしょうが、それでもただ不満を並べているだけでは、生活も経営もよくなりません。それより自分から意欲的に政治や社会や経済の仕組みをうまく活用する努力をした方が、より収入を増やすことができます。

お金を稼ぐには、仕事でうまいことやるだけでなく、貯めたお金を投資などでうまく運用すれば、それだけ儲けることができます。

19世紀から20世紀半ばあたりまでは、資本や大企業が労働者を酷使して荒っぽく稼ぎ、個人は労働力を契約によって売り渡して、企業に従属するしかなく、それが資本家と労働者の対立を生んでいましたが、大規模な労働争議が繰り返されるうちに、資本・企業側も色々学習し、労働者に譲歩するようになりました。労働者の言い分が正しいと思ったからというより、譲歩すべきところは譲歩した方が結局うまくいく、儲かるということがわかったからです。

特に20世紀初頭にロシアで社会主義革命が起き、労働運動が組織的に行われるようになってからは、先進国の政府も資本・企業も危機感を抱き、労働者に譲歩するようになりました。

資本主義の欠点とされていたもののひとつに、好況と不況の波があって繰り返し恐慌が起き、弱い立場の労働者は首切りで収入を立たれ、社会不安が起きるということがありました。

1930年前後に起きた世界恐慌の影響は特に大きく、これを乗りきるために、イギリスの経済学者ケインズが提唱した、国家による大胆な経済介入を先進国が実行するようになりました。その中で最も有名なのが、アメリカでフランクリン・ルーズベルト大統領が実施したニューディール政策です。

経済は市場に任せて、国家は介入すべきではないという市場主義・自由主義論者は、ルーズベルトやケインズ主義者を左翼呼ばわりしましたが、時間が経って第二次世界大戦など大きな危機を経験した世界では、次第に国家が必要に応じた介入を繰り返し行うようになり、国家による公共投資や金融政策などの技術・知見も進歩して、今では国家の市場介入、コントロールは常識的なセオリーになっています。

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