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“人の役に立つやりがいのある仕事につきたい”の背景にあるもの


よく、『やりがいのある仕事につきたい』という言葉を耳にします。

また私自身、人の役に立つ仕事につきたいとずっと思ってきました。

小学校の卒業文集には、将来の夢は“人の役に立つ職業”とさえ書いていました。



けれど最近、この“やりがい”や“人の役に立つ”仕事にとらわれすぎると、

かえってほんとうの“やりがい”や“人の役に立つ”ということから遠ざかってしまうのではないか

ということに気づきました。

そして、自分の中の“やりがい”や“人の役に立つ”仕事を追い求める背景には、別の心理があったことに気づきました。



その心理とは、うまく育んでこられなかった自信を、仕事で取り戻そうとしていたことです。


仕事に対する理想が異様なほどに高かった

そもそも、この記事を書くにあたってきっかけとなった本があります。

その名も、『働くことがイヤな人のための本』です。

この本とは、大学を卒業してひきこもり状態のときに出会いました。

社会出ることを恐れているきみは、たぶん平凡な仕事を望んではいないんだろう? きみはただお金をもらうだけの仕事など望んでいないだろう? それが見いだせなくて悩み苦しんでいるのではないだろう? 

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

この本の中で、とても印象の強かった箇所です。

ちなみに、この場面では、

“あらゆる人間関係が煩わしく、会社という組織にがんじがらめになって生きるのが恐怖”で、

“会社員の半奴隷のような薄汚い生態が厭でたまらない”と考えている学生(架空の人物)に向けて、対談形式で書かれています。

きみは、きつい仕事はいやだ、危険な仕事は厭だ、生存競争の激しい職場は厭だ、知性のカケラもない職場も厭だ、下品な職場も厭だ、顧客にペコペコする仕事も厭だ、和気あいあいとした家庭的な雰囲気の職場も厭だ、ワンマン社長がふんぞり返っている職場も厭だ、アレも厭だ、コレも厭だ、と自分の「適正」をきわめて狭く絞って、そのハードルをことごとくクリアするような仕事を望んでいる。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

この文章を読んだとき、正直『え…これ、自分じゃん』と思いました。

私は当時、

平凡な仕事につきたくない
つぶしがきかない職業につきたくない
単純な肉体労働の仕事につきたくない

そう思っていました。

…と、過去形で書きましたが、正直に言ってしまうと、ほんのつい最近までこういった考えを持っていました。


なので、仕事を探す際は、あれもダメ、これもダメ、と何かと難癖をつけては、求人票に×をつけていました。

自分がかけがえのない唯一無二の存在として扱われ、それでいて心からやりがいを感じる仕事につきたい!と思っていたんです。


幼少期にうまく自信をつけてこれなかった

なぜ私は、こうもかたくなに“理想の仕事”に固執していたのでしょうか。

それは私自身が、幼少期に適切な自己肯定感を得ることができなかったことから来ています。

そして気づけば、“自分は無力で無価値な人間だ”と、強く思い込んでしまっていました。


そんな脆さを持った状態で私が社会に何を期待したかと言うと、“自分を傷つけてこない”ということです。

しかし、社会は残酷です。

すなわち、人生とは「理不尽」のひとことに尽きること。思い通りにならないのがあたりまえであること。いかに粉骨砕身の努力をしても報われないことがあること。いかにのんべんだらりと暮らしていても、頭上の棚からぼたもちが落ちてくることがあること。いかに品行方正な人生を送っても、罪を被ることがあり、いかに悪辣な人生を送っても賞賛され美化されることがあること。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

そして、社会に出て仕事をするとは、このすべてを受け入れるということ、その中でもがくということ、その中でため息をつくということなのだ。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

当然社会に出れば、理不尽な目にあうことは日常茶飯事です。

いくら誠意を持って行動しても、適当にやりすごしている人の方が評価されることがあります。

もっと言えば、

やりがいを人質に搾取され、人としての尊厳を踏みにじられることなどざらにあります。

そのうちに、社会に出ること自体に恐怖を感じてしまい、家にとじこもるようになってしまいます。


仕事を生きがいにしなくていい

社会とは、

合理的にことがすすまないこと、不都合がまかり通っていること、ずるく立ち回る人が報われることもあり、誠実そのものの人が没落してゆくこともある。えせ作品が多くのファンを呼び寄せることもあり、真価のある作品が無視されることもある。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

とあります。

しかし、著者はこう続けます。

といって、完全に反対でもない。誠実な人が誠実さゆえに報われることもあり、狡猾こうかつな人が狡猾さゆえに没落することもある。えせ作品がそのつまらなさゆえに、たちまち飽きられることもあり、真実の作品がやがて光を放つこともある。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

つまり、何ごともこうと決まらないのだ。何ごとも正確には見通せないのだ。割り切れないのだよ。これがすなわち人生なのであり、とすれば生きようとするかぎり、その中に飛び込んでいくよりほかはない。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用

結局、自分を”傷つけてこない”社会などこの世には存在しておらず、

妥協したり諦めたりしながら、人は社会の中で生きていかなければならないとあります。

そして、こう続けます。

理不尽であるからこそ、そこにさまざまなドラマを見ることができる。そこに、さまざまな人間の深さを見ることができる。目が鍛えられ、耳が鍛えられ、思考が鍛えられ、精神が鍛えられ、からだが鍛えられる。

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用


“理不尽な社会の中にドラマを見ること”は、そう簡単なことではありません。

社会に出るとは厳しくつらいものと頭ではわかっていても、傷つきたくない、イヤな思いをしたくないと、どうしても抵抗感を持ってしまいます。


しかし、こんな記述があります。

私たちはどのような仕事をすればいいのか、見なおしてみよう。すると、具体的な何かをすることではなく、生きることそのことを常に優位に置くこと、この順序を断じて転倒してはならないことがわかるのではないか?生きることがそのまま仕事であるような、そうした仕事を求めるべきだということがわかるのではないか?

中島義道著『働くことがイヤな人のための本』より引用


つまり、“働くこと”が目的なのではなく、“よく生きること”を目的とする。

私はこの引用部分を読んで、ふと、


“自分の人生を全力で楽しむこと”を、生きることのいちばんの目標にしていいのではないか


という考えが浮かびました。



私はこれまで、職業が自分を規定すると思ってきました。

大学生という肩書を失った後、自分を規定する何かを得なければならないと思っていました。

そして仕事につくことで始めて、一人前のアイデンティティが与えられたような気がしていたのです。(もちろん働かなければ自立していけないのですが)

けれど、どんな仕事をしているのかが私を定義するのではなく、

私は私のことを好きに定義していっていいのだ、ということに気がつきました。

そしてそれは、必ずしも職業ではなくていいのです。

好きな趣味や習い事や勉強していることなどと、職業を同列に扱っていいのです。

そしてアクセサリーのように、好きに身に着けたり取り外していいのです。

職業が私のすべてを規定するわけではない。

あくまでも自分の第一の目標は、自分の人生を全力で楽しむこと。

この考えに行きついたとき、なんともいえない安心感を覚えました。


私は、これまでに失ってしまった自信を、仕事を通して取り戻そう・・・・・としていました。

志の高い職業に就き、その職業を名乗ることで、自分のすべてを語ろうとしていました。

そのため、どうしても仕事に対して過度な期待をしてしまっていました。

自分にしかできないことをして、それがまわりから認められればられるほど、自信がつくと思っていました。

けれど、失ってしまった自信を仕事で取り戻そうとしなくていいのです。

仕事を無理やり自分のアイデンティティにする必要はないのです。


本当の“やりがい”や人の役に立つ”仕事とは何か

そんな中で、人の役に立つ仕事とは本当は何だろうかと考えたときに思ったのは、


どの仕事もすべて人の役に立つ仕事である


ということです。


仕事は基本、『誰かに手伝ってほしいな~』と思った人がいて、『じゃあ手伝いますよ』と誰かが言って契約をする、と考えると、

誰かに手伝ってほしいと思った雇用主の願いをかなえている時点で、それはもうすでに人の役に立っているのではないか、と思ったのです。


また、やりがいのある仕事は何かと考えたときに、大事だなと思ったのが、

理想の仕事に“出会う”ことではなく、自分が自分にとっての理想の仕事に“していく”ということです。


縁があって採用された会社で、自分が自ら理想の会社にしていく。

そうして働きかけているうちに、その会社の中で自ら進んでなろうとしなくても、

唯一無二のかけがえのない存在になることができるのではないか。

そして、たとえ仕事内容は単純なものであったり、肉体労働であったり、かえがきくものであっても、

結果的に、深いやりがいを感じることができるのではないか。




働くことは、結局は欲しいものを買うため、生活していくためにすぎません。

自分の時間と労力を提供してお金をもらう行為にすぎないのです。

そこに価値を求めすぎたり、重きを置きすぎてしまうと、かえって働くことの本質から遠ざかってしまいます。



今まで私は、世間的に認められた仕事につくことで自分の価値を上げたい、自信をつけたいと思ってきました。

そのため、必要以上に働くことを“神聖化”してしまっていました。

やりがいや使命感のようなものを持って、仕事したいと思ってきました。

もちろんそれはとても重要なことですが、

自分にとって必要なことは、それよりもまず、欲しいものを買うため、生活していくためにお金を稼ぐという、ごく当たり前の動機でした。

そして、それでいいのです。それでも十分自分は成り立つ・・・・・・・のです。




私の中の、『人の役に立つやりがいのある仕事につきたい』をひもといていくと、

“育んでこれなかった自信を、やりがいのある仕事につくことで取り返したい”という、仕事に対する過剰な期待がありました。

しかし、まずは自分の人生を全力で楽しむという発想になってから、

仕事に対する考えが変わりました。


あくまでも自分の第一の目標は、自分の人生を全力で楽しむことでいい。

そして仕事は、自分の人生を全力で楽しむための、手段・・の一つでしかない。



仕事にあまりにも使命感を持たせてしまうと、かえって動きがつかなくなり、

本当に大事にすべき自分の人生がうまく立ち行かなくなってしまう、ということに気がつきました。


なのでこれからは、仕事は人生を全力で楽しむための手段の一つと割り切り、

まずは自分の人生を思いっきり全力で楽しんでいこうと思います。




ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました🍀


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