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何のために働くのかわからない人が抱えているもの


この間、転職経験3回で気づいた“真面目”の落とし穴というタイトルで記事を書いたら

思いのほか反響がありました。

私の個人的なキャリア失敗談を書いたつもりだったので、おどろきとともにうれしさも感じつつ…。
(スキを押してくださったみなさま、ありがとうございます)


で、最後に書いた

ということで、これからは真面目のよさを活かしつつ、仕事が“目的”にならないように生きていきたいと思います。

転職経験3回で気づいた“真面目”の落とし穴

この、《仕事が“目的”にならないように》の部分で、ちょっと気づいたことがあったので、

今回は、なぜ反響があったのか考えつつ、気づいたことを補足する形で、書いていきたいと思います。



手段の目的化という言葉

別記事でスキをいただいた方のページをまわっていたところ、ある記事に出会いました。



この記事を読んで、まさにこれまでの自分の行動が、“手段の目的化”だったのではないかと思いました。

手段の目的化とは…

手段の目的化とは、もともと、ある目的を実現するために手段を選択したはずなのに、その手段を実行すること自体が目的化してしまうこと。

手段の目的化 グロービズ経営大学院


これまで私は、“働くこと自体”が目的になっていました。

働いた先を見ていたのではなく、“働くことそのもの”を目的に働いていたんです。

そして、過去に同じような話を聞いたことを思い出しました。


それは就労支援の仕事の面接だったのですが、

『軽度の障がいをもつ人たちのなかに、“働く”という手段が目的化してしまっている人が多い』

という話が出たんですね。

本当は、

おいしいものが食べたい
旅行に行きたい
趣味を充実させたい
いい車に乗りたい
マイホームを建てたい

などと、なにか目的があって働くはずなのに

“働くこと自体”が目的となってしまっている。

だから、仕事もなかなか続かず、すぐ辞めてしまう。


そのとき、頭に衝撃が走ったんですね。

それ、私じゃん、と。


軽度とはいえ障がいがあるので、どうしても行動に制限があり、働いたその先に何がしたいのかを見出すのは、難しいのかもしれません。


私の場合はというと、アダルトチルドレンだった背景から、職場に“安全基地”を求めてしまっていました。

私が職場に対して求めていたのは、単純に“お金を稼ぐ場”ではなく、“自分を癒してくれるオアシスのような場”だったのです。

なので、思ってたのと違うな…と感じた職場は、“やりがいが感じられない”として、退職してしまっていました。


ただ、障がい者やアダルトチルドレンでなくても、

本来手段であるはずの“働くこと”が目的となってしまうことは、誰にでもありえるのではないかと、思えてきたのです。



「個性」に関するツイートを見て

過去に、「個性」に関してバズったツイートがありました。

今現在はそのページが削除されていて、話題にしていいのかわからないのですが、

別のサイトで記事になっていたので、リンクをはっておきます。

ようするに、個性を認めないのが日本の社会だということですね。

それが就活するにあたって、急に個性を出せと言われる。

とまどいながらも、自分の個性は何だろうと一生懸命考え、

運よくその答えが評価されて会社に入れたとしても、またしてもそこで個性を抑圧されてしまう、というもの。

リツイートやいいねの数からして、この考えが一定の支持を集めていたことは確かと言えます。

たしかにこのツイート見ると、なんともいえない閉塞感や脱力感に襲われて、鬱々とした気持ちになってしまいます。


そして、

私は大学を卒業してから5年間引きこもっていたのですが、

当時、読んで印象深かった本をコピーしておいたなかに、このツイートとまさにピッタリと重なり合う記述がありました。

ちょっと長いですが、引用してみます。


自分自身も身におぼえがあるが、中学高校の授業は、いかに効率的に知識を頭に詰め込むか、そしてそれを引き出すかというだけの作業でしかない。受験に関係ない科目や授業範囲はどうでもよく、要領のいいもの勝ちの世界だ。

『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』より引用

考えてみれば、実社会では明快な答えのある問題のほうが少ない。たとえば、自分が何に価値を見出し、どういう仕事をするのか、一〇〇人に語らせれば一〇〇通りの答えが返ってくるだろう。
本当なら、あるかないかわからない答えを自分で考える。そしてそのための理論を構築する作業が重要なはずだ。

『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』より引用

小学校入学から高校・大学までの間に、正答一つの課題を与え続け、疑問を抱かずに効率よくこなせる人間だけ上に引き上げる。そして社会に出る頃には、「与えられるものはなんでもやれるが、特にやりたいことのないからっぽの人間」を量産できるシステムだ。

『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』より引用


ふりかえれば、自分の学生時代もまさに“手段の目的化”が起こっていました。

学校はなんのためにあるのか?

なぜ子どもは学校に通うのか?

それがいつのまにか、受験のため、いい大学に行くための勉強になりさがっていました。


特にこの、

「与えられるものはなんでもやれるが、特にやりたいことのないからっぽの人間」

という文章は、かなり自分の心にグサグサ刺さりました。


人から、何かやってと言われればやるけれど、

「じゃあ、あなたは本当は何がしたいの?」と言われても、とくに頭の中に浮かんでこないのです。

いわゆる“指示待ち人間”ですね。



日本人は内も外もガチガチに縛られていた

私たち日本人は、小さいころから勉強のみならず、校則というわけのわからないものでガチガチに縛られ、

“個性”や“主体性”を奪われてしまいます。

日本に生まれてしまった時点で、多くの人が“個性”や“主体性”を奪われる道から逃れられないのです。


障がいを持つ人やアダルトチルドレンは、生まれつきだったり、家庭環境だったりと、内的で個人的な背景を持つことが多いです。(もちろん例外もありますが)

その内的で個人的な環境のなかで、“個性”や“主体性”をうまく育てることができません。

ところが、今まで見てきたように、学校や社会などの外的で社会的な環境でも、日本は“個性”や“主体性”が尊重されにくい現状があります。

人口の8割がアダルトチルドレンと言われているなかで(真偽のほどは定かではありませんが)

私たちは内でも外でも、ガチガチに縛られ、抑圧され、否定された中で生きなければいけないということになります。


もちろん個人差はあるだろうし、環境によっても人それぞれ違ってくるとは思います。

指示待ち人間として社会に出てしまったとしても、いろいろと壁にぶつかったり衝突したりするうちに

うまく適応したり、考え方を変えたりして生き残っていく人もたくさんいます。

ただ、それがうまくできずに、社会からはじきだされてしまう人もいます。

そこまでいかなくても、気がついたら“働くこと”が目的になってしまったり、

働く目的自体を見失ってしまい、自分は何がしたいのかわからない…と悩んでしまっている人も、多いのではないでしょうか。



数日前に、大人ってこの世に存在するんだろうかというタイトルで、記事を書きました。

子ども時代に、“内”も“外”もガチガチに縛られて抑圧されてきてしまった結果、大人になっても生きづらさを抱えてしまうのではないか

だから、ちゃんとした大人はこの世には存在しないのではないか、となり

なんだか自分の中でつながった気がします。


気がついたら、“「与えられるものはなんでもやれるが、特にやりたいことのないからっぽの人間」”になっていた。

やりたいことがわからない。

自分の個性、強みがわからない。

けれど、もう大人だから働かないといけない、ガマンしないといけない、言われたことをやらないといけない。

そんな人たちの抱える孤独や苦悩は、想像以上のものがあります。

…冷静に書いてますが、今自分が直面している壁そのものな気がします😅



他人軸がよしとされる社会

ここまで書いてきて、日本はまるで“他人軸”な人を生み出す社会のように思えてきました。

もちろん他人軸が悪いわけではないし、100%自分軸で生きられるわけではないのですが、

私自身、ずっと他人軸で生きてきて、そのことでずいぶんと悩んできました。

しかし振り返れば、それは当然だったなと思います。


“大事なこと”が、家庭でも学校でも教えられないのです。

自分の感じたことよりも、他人(親の価値観や校則や学歴至上主義など)の考えを優先させられるのです。

他人の考えは、子どものことが考えられているようで、実はそうではないのです。

親の価値観は“親”のため、校則は“学校”のため、学歴至上主義は“社会”のためでしかありません。

本当なら、あるかないかわからない答えを自分で考える。そしてそのための理論を構築する作業が重要なはずだ。

『若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来』より引用

この“理論を構築する作業”が、家庭でも学校でも行われないのです。


自分は何がしたいのか

何が好きなのか

どんな場所で、どんな人と、どんなことをして過ごしたいのか

まるでわからないのです。


また、たとえ何か思いついても

これって人からどう思われるんだろう、とか

大人としてどうなんだろう、とか考えてしまい、

結局、自分が本当は何がしたいのか、答えが見つからないのです。(思いついても、自分で認められないと言ったほうが正しいかもしれません。)




私は、外国人が日本に来て驚いた系の動画を見るのが大好物なのですが、

素直で正直な日本人に外国人が感動!みたいな動画に、なんだか違和感を覚えてしまうのです。

例えば、日本人はお財布を拾ったら、正直に届けるというもの。

もちろん、路上犯罪が海外に比べて少ない日本は、世界に誇るべき素晴らしい文化を持っていると思います。

けれど、その素直で心優しい日本人の文化が、裏を返せば“一億総他人軸”のようになっているのではないか。

財布を落とした人がいたら、迷わず拾って届けてあげる。

その素直さ、純粋さ、心優しさは、“内”も“外”もガチガチに縛られ抑制され、

自分よりも、他人を優先するよう教え込まれた文化から生み出されたものなのではないか。

そう思えて仕方ないのです。


そんな中では、日本で生まれ育って海外に移住するよりも、外国(特に英語圏)で生まれ育って日本に移住する方が、なんだか生きやすいのではと思ってしまいます。

(※あくまで個人的な考察であり、感想です)


結局、自分がやりたいことは何だろう

『日本人は“一億総他人軸”』とかわけわからないこといってないで、早く仕事を見つけろよと言われたら、何の返す言葉もないのですが、

結局のところ、自分は何がしたいんだろうというところで、止まってしまっています。


一昔前の人たちが憧れた“普通の暮らし”が、当たり前に手に入り、

価値観や働き方やライフスタイルが多様化する社会のなかで、

以前よりも、自分自身とじっくり向き合わなくてはいけなくなってしまいました。


小学校の卒業文集に、将来の夢は“美容師”とか“プロ野球選手”とか“保育士さん”などがある中で、

“人の役に立つ職業”なんてざっくりしたことを書いたまま、私は大人になってしまいました。

そこからあまり成長していない気がします。

それは、自分は本当は何をしたいか、考えてこなかったからです。


結局のところ、世間体や他人の価値観にまどわされずに、自分のやりたいことを純粋に見つめることが大事な気がします。

自分のやりたいこと…。


しいて言えば、私は女性の割に背が高く(割合にすると人口の0.1%以下でした😲)

一度でいいからオランダとかデンマークとか、背の高い人が多い国に行って

自分が目立たないことを味わってみたいなと思います。(逆に背の高いアジア人は目立つのか?)


見上げてみたい、イケメンを…。


はたからみたら、「なんだそれ」と鼻でわらわれそうな夢です。

今すぐオランダとかデンマークに行くこともできません。

けど、そんなことを目標に生きていってもいい気がします。


おいしいガトーショコラが食べたいとか

好きな芸能人を生で見てみたいとか

世界中の絶景を見て回りたいとか。

小さいことでもいいのです。

高いこころざしや立派な動機がなくても、いいのです。


自分がやりたい!と、純粋に思ったことを目標にしていくこと。

それが、

何のために働くのかわからない…

または、社会からはじきだされてしまって、どうしたらいいのかわらない…

そんな状況から抜け出すための、ヒントになる気がします。




なんだか間の抜けた最後になってしまいましたが、自分的にはスッキリしました。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました😊




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