君と僕とインターネット。毎月末更新予定←無理でした

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最近の記事

長い休みの果てから

 堕落ですよこんなの、堕落。  量子力学の単位も捨てたし、毎月更新を目標にしてたnoteも2か月更新できていないし、夏休み中にやろうとしていた読書も勉強もすぐ飽きて結局続かなかったし。  そもそもなぜ夏休みに経済学などをやろうとしたのか。確かに工学の応用が効く興味はある分野だ。ただ、自主的な勉強はモチベーションを自分で持続させられるかがカギで、それを裏で支えるのが「将来何になりたいか」という未来像なのだろう。それがないまま「面白そう」で取り掛かってもすぐ飽きる。少なくとも

    • せめて、誠実に

       8時半のアラームで目を覚ます。布団に横たわったまま左隣のスマホを手に取って反射的な動作で開いたTwitterのTLには、さっそく劣悪な議論気取りの妄言。偏見に満ちた主張、こじつけの論理、そういったものが4桁いいねで流れてくる。気分の悪い朝だ。  それでも僕の生活はTwitterとともに過ぎる。電車内では本を取り出すのが面倒だからスマホを見て、一つの情報を真剣に読み込むのが面倒だからTwitterの雑多な情報をなんとなく眺める。そんな営みに毎日行き帰りの1時間近くを費やして

      • 「かわいい」なんていうフィクション

         5月のぬるい空気は気持ち悪い。身の引き締まる寒さでも、燃えるような暑さでもなく、僕を取り囲み感覚を奪う実験室のような、不気味な暖かさだ。ふと見上げた空もまた、均一な明るい灰色で間接照明のように僕らを包み込む。現実じゃなくて、誰かに仕組まれたフィクションの世界だったりして。春と夏の境目って、そんな季節だ。  さて、フィクションと現実の区別が融け落ちていくこんな季節。僕の大好きなフィクションの話でもしようか。あるところに男の子がいた。親にとって子供はかわいいもの。その子だってか

        • 思い出を残すということ

           押入れの奥には歴史が詰まっている。ある時、父親が学生だった頃の、日ごとに券片が別だった頃の青春18きっぷや、白糠線の仮乗降場の写真などが入った鉄道旅行のアルバムを見せてくれたことがあり、過去の記録が時を経ても身近なところに残されていることへの感慨を覚えたのだった。教科書の資料よりもっと個人的な体験の記憶。それはきっと私の親だけではなく、多くの大人の思い出の品の中に見出すことができて、その総体は歴史と形容できるのかもしれない。  だから、捨てられない。  今、手元にファイ

        長い休みの果てから

          表現者になろう

           積読でパワーを得られるという君の気持ちが分からない。積読は、やりかけで放置している事柄のかたまり。君が読んでいないあれやこれやが君の部屋を占有し、さらにはその本の存在が君の頭の中にもどっしりと構えそうなものだが、君はむしろそこからパワーが得られると言う。正気で居られるのだろうか。  逆に、僕が変なのかもしれない。モチベーションが湧かなくても、読みかけのものがあればそれを読むまで次に移れない。しかしなかなか読み進める気にならないので、ずっと読み終わらない。これって単純に僕が読

          表現者になろう

          衒学バトルから降りよう

           衒学バトルで遊ぼう。自分の知識を開陳して鼻高々になろうじゃないか。会話とかSNSとかの日常的な対人コミュニケーションで、相手よりも自分の知識とか学習のアピールをできればできるほど優越感を得られる。逆にアピールされれば劣等感を抱く。そういう絶え間ないバトルだ。  くだらないだろ?  これから衒学バトルがくだらないっていう当たり前の話をしよう。  僕は地理が好きだ。専門的とまでは言えないが、趣味的に。地形のでき方、河川の流れ方、河川と人々の営み、都市のでき方、現状。大地の

          衒学バトルから降りよう

          面白くない表現の話

           自分と表現について考えた。  ネットの向こうの知らない個人の創作に触れる気にならない。なぜ?  大して話題になっていない本を気になって取るなんてことはほぼない。なぜ?  YouTubeで最近の音楽を聴く時は、誰かが話題にしていたかどうかとか再生回数とかに注目し、メジャーな曲しか聴こうとしない。なぜ?  私の根底には次のような意識がある。  一つ、創作物は数が多すぎる。そして面白いのは一部だし有名になりがち。  二つ、有名でなくかつ面白くない創作物に触れるのは、恥ずかしく

          面白くない表現の話

          SNSの幻覚を見ていた

           辛いね。苦しいねぇ。  なんでSNSやってんの?他人を見たいから?自分を見せたいから?そりゃあ自分を見せたいから!絶えない自己顕示、尽きない承認欲求。 その1  更新更新更新。今日もTwitterのタイムラインには仲良しの流れ。くだらない戯れ、どうでもいい情報交換、ツイッターで打ち合わせて現実で大集合。  フォローバックって見返りとして期待するものではないんだよな。分かってる。でもタイムラインに集っている君らがこっちを見ないなら楽しいわけないじゃないか!  正直君ら

          SNSの幻覚を見ていた

          卒業の実感というもの

           1年間の高校生活を終えた実感のないままにそのことを書き綴ったのは2年前の今頃だ。僕は何をしてきただろう。理想像とは遠いなりに僕は高校2年の生活を謳歌したと思う。一人で旅行した。地理に興味を持った。文化祭で頑張った。打ち込む趣味もあった。受験勉強も始まった。塾に通い始めた。理想なんてどうでもいい。今ここにある自分の高校生活だけでよかった。気づけば高2の1年間も終わっていた。  高3では最後の音楽祭があり、最後の体育祭があり、最後の文化祭があり、そして受験がやってきて、卒業。中

          卒業の実感というもの

          共通テスト 感想

          2日目を終えて家に帰り、自己採点を終えた時の気分は、旅行後のようだった。試験場に赴き初めて見る問題に挑むという体験は、大学受験の大きな転換点に当事者として誰よりも早く立ち会っているという感覚も相まって、旅にも似た高揚や緊張感をもたらしたのかもしれない。 全体としては、これまでのセンターと難易度が特段変わったように感じられないし、試行調査とはちょっと変わったところもあったけど、そのせいで点数が下がるほどの大幅な傾向変化だとは感じなかった。 ・対策模試と試行調査は活用した。

          共通テスト 感想

          客観視病

          繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、自分を相対化して、また今の自分を相対化して、常に一瞬前の自分を今の自分から客観的に見たふりをしてまた次の瞬間には一瞬前の自分を客観視している一瞬前の自分を客観視する自分が生まれてまた次の瞬間には一瞬前の自分を客観視している一瞬前の自分を客観視する一瞬前の自分を客観視する自分が生まれて、はい、僕は誰ですか、誰でもないです、はい。 文字列「レベルN客観視」は次の方法で再帰的に定義されます。 レベル0客観視 = “自分” レベルN客観視 =

          客観視病

          5月8日の脳内

           帰る時に歩きながら何もやることがない。僕は考え事をする。それは今日のことであったり、自分のことであったり。そして、これを文章に起こせないかと考える。文章に起こせば、自己満足では収まらず、他人からの共感が得られるかもしれない。まあ、まず得られないだろうが。  そして、文章に起こしたいという感情が頭の中に出てくると、文章に起こすとどうなるだろう、なんて考え始める。そして、その脳内の文章にも、「文章に起こせないかな」なんて言葉が出てくるものだから、再帰的だなぁ、自分を客観視してい

          5月8日の脳内

          春分

          「春眠暁を覚えず」という一節はあまりにも有名であるが、やはり昔から今まで残ってきただけあって言い得て妙なもので、春休み中だった僕は4月の初っ端から歴代二番目くらいの遅さとなる10時半に起床してしまった。しかし日本古来の一節「春はあけぼの」の感性も捨てがたく、やはり朝早く起きてこそ体験できる良さがそこにはある。 気が向いた時に、朝、それも日の出前に起床して外に出てみるといい。春に限らず、新たな楽しみの発見があるだろう。 休みの日の過ごし方は多数派なのは夜更かしをして朝は日が

          春分

          啓蟄

          期末試験期間が終わって、最近は午前中に授業が終わってしまう。その後学校で講座などを受けたとしても、混み始める夕方の電車も坂の上からのいつもの夕焼けもまだ全く見られないような時間に、僕はもう家路についてしまう。その日の風は強くて、それでいて身震いするような寒さをもたらしたりはしないものだったから、ひょっとすると今日が関東の春一番かななんて思いながら、追い風を受けて坂を走り抜けた。 関東では春一番は3月9日だったらしい。風というものは、都会にいても簡単に季節の移り変わりを感じら

          雨水

          暗い雨の降る2月の最終日だった。いつもの木曜日と全く同じように数学Ⅰの授業が終わると、僕は掃除当番のために誰もいない3年2組の教室へ向かった。階段を上がって3階、回れ右、教室は目の前。ドアを開けると、1年の教室とは違って、生徒や放置された誰かの荷物などのない、整然と机が並べられた光景。そして黒板には「卒業おめでとう」の文字と、証書入れの筒のイラスト。それを描く先生の手は止まり、掃除当番かと僕に尋ねて笑う。そう、明日は卒業式である。 思えば卒業を迎える67期生たちとの関わりは

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