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せめて、誠実に

 8時半のアラームで目を覚ます。布団に横たわったまま左隣のスマホを手に取って反射的な動作で開いたTwitterのTLには、さっそく劣悪な議論気取りの妄言。偏見に満ちた主張、こじつけの論理、そういったものが4桁いいねで流れてくる。気分の悪い朝だ。

 それでも僕の生活はTwitterとともに過ぎる。電車内では本を取り出すのが面倒だからスマホを見て、一つの情報を真剣に読み込むのが面倒だからTwitterの雑多な情報をなんとなく眺める。そんな営みに毎日行き帰りの1時間近くを費やしているわけだ。

 緩やかな繋がりが心地よかった。ネットで繋がりのある人間が、わざわざ一対一で連絡を取らずとも、今どうしているかなんとなく分かる。君たちが何を考えているかがなんとなく見える。それだけで良かった。
 それがいつから議論に飲まれちゃったんだろうな。あまり知らない他人のRT、意見表明、馬鹿馬鹿しいトレンド、おすすめTLに流れてくる、FFでもないのに自分の興味あるようなことを言っているツイート。第三者の絶え間ない論争に僕たちは巻き込まれていく。ネットでよく見かける他人の考えをちょっと覗いてみたい、なんて最初に思ったのは僕だ。トレンドやおすすめTLに敏感に反応してしまうのも僕だ。そんな環境に身を浸しているうちに、論争が身の回りを取り囲んでいる状況に慣れてしまい、抜け出せなくなってしまった。

 世の中間違った発言だらけだ。自分の納得できるような型にはめてジャッジしないと気が済まないらしい、偏見に満ちた意見。「昔は許された」と弁明される下品な言い回しの垂れ流し。誰かが問題提起をすれば「そんなの大したことない」と笑ったり、事前には読めなかった原因で他人が失敗したら「それ見たことか」と笑ったりして、一つ一つの他人の行動を馬鹿にした発言。詭弁も侮辱も好き放題言って、その向こうにいる人間のことなんて考えていない。だから、そんな論争には立ち向わないといけない。妥当に見える前提から、論理的整合性のある推論を使って、正しく指摘をしよう。何が正しいかちゃんと考えよう。まともな議論をしよう。きっと議論は僕たちを良い方向に導いてくれる。
 「正しい」ことが複数ありうるのはもちろんだ。きっとお互い信じている前提が違うんだ。妥当な前提は一つではないからね。でも妥当でない前提はある。そして妥当でない推論もある。問題は、お互いそうしたものを使っていないか、ということだ。そこに根拠はあるか?それは詭弁ではないか?滅茶苦茶な論理構造を認めていたら、誤った発言や差別が容易に導かれてしまう。だから、そんな意見には反対しなければならない。こうして、前提と推論の妥当性を厳しく追及した議論にハマっていく。

 現実でも議論をしよう。身の回りの人たちは、議論は嫌いなのかもしれない。何かのいさかいが起きて、それについて話している途中で「あんまり雰囲気を悪くしたくない」と話題を切り上げようとする人がいた。いやいやそれって関係の改善に向けた努力を放棄しているだけじゃないか。「正しいけど言い方の問題」を指摘する人がいた。それは発言内容からの話題逸らしじゃないか。「揚げ足取り」って違う違う、僕はあなたの意見の重要な点を指摘しているだけなんだ。ちゃんと冷静に考えれば分かるはず!

 「あなたといると怖くて迂闊に発言できない。」

 そうか。そうですか。


 論争に浸りきって感覚がおかしくなっていたのかもしれない。日常的なやり取りは全部が全部議論のためではないんだね。日常会話の中でさえ、相手の何気ない発言や愚痴の中に少しでも引っかかる度に「そこに根拠はないよね」「その論理はおかしいよね」と指摘していては、会話のコストが上がるだけだ。そのまま自然と話したくなくなって日常会話がなくなってしまうのは、僕の望んだことではない。

 しかも、当然ながら僕が「正しい」と思うものもあくまで主観的なもので、歪んだ見方をしている場合だってある。「感情に価値を置く意味はない」みたいなことを軽々と言い放ち、それを理知的かっこいいと思ってしまったり。でも実際そんなに分かりやすい理屈や正しさで議論が進むわけではない場合が多いし、感情は多分に考慮されるべきだし、僕が正しいだと思っても、他人から見たら全然成り立っていない場合だってある。雰囲気を悪くしないような、傷つけない言い方、対話的な言い方だってあるだろう。

 それでも、寛容になってはいけないものだってあるんだ。誰が正しいか分からないケースは多いだろうけど、差別にも寛容になれというのはあまりにも極端な話だ。いくら日常の会話でも厳しく追及しなければならないだろう。そうなると「どこからが差別か」という問題も出てくる。差別は毅然とした態度で否定しなければならないが、一方で差別とされるラインは人によってさまざまな意見がある。誰かが反感を持つような発言はしないに越したことはないが、かといって反感を持つのを過度に恐れて委縮しまくると、思ったことすら言えなくなってしまう。

 なるべくみんなと穏やかに会話をしたい。他者はただの意見の集合体ではなく、人格を持って生きている人間なのだから、雰囲気や言い方は会話を交わす上で大きな要素だし、議論での正しさだけを重視していては、人間関係まで含めて総合的に見ていい方向になるか分からない。とはいえ、真面目に話し合うべきものについては正しく議論を交わすことになるし、僕が譲れない部分も確実にある。他者が正しい部分もあるだろう。すべての価値観を把握しきれなくても、僕は自分の発言に責任を持てる程度には正しくありたいと思っている。そのために、誠実な姿勢で話す必要があるのだと思う。

 誠実であるということ。それは、正しさが定まらないこの世の中で、せめて正しくありたいと願う僕の指針だ。誠実さは服従とは違う。相手を尊重して時や場合や言葉遣いには気を付けつつ、自分が正しいと思うことは素直に述べる。指摘されたら考え直す柔軟性を持ちつつ、譲れないものは譲らない。それが、他者と価値観を認め合い、適度に分かり合わない状態のままで、丁寧な関係を保つための適切な姿勢だと思う。今それができているとは言わないが、そういう人間になりたい。

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