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卒業の実感というもの


 1年間の高校生活を終えた実感のないままにそのことを書き綴ったのは2年前の今頃だ。僕は何をしてきただろう。理想像とは遠いなりに僕は高校2年の生活を謳歌したと思う。一人で旅行した。地理に興味を持った。文化祭で頑張った。打ち込む趣味もあった。受験勉強も始まった。塾に通い始めた。理想なんてどうでもいい。今ここにある自分の高校生活だけでよかった。気づけば高2の1年間も終わっていた。
 高3では最後の音楽祭があり、最後の体育祭があり、最後の文化祭があり、そして受験がやってきて、卒業。中高合わせて6年間いた学校から出てしまうことになる。そんな予定だった。
 全然実感が湧いていなかったと思う。本当に最後の音楽祭があるのだろうか。各行事の最後があるのだろうか。最後の行事を終えたら、これでもう二度とできないという実感が湧いてきて、泣いたりするのだろうか。もう高校生活の最後が訪れるということは、頭では分かっていたが信じられず、その終わりは幻のようだった。

 実際、幻だった。音楽祭はなかった。体育祭はなかった。
 僕は音楽祭がこの学校の行事の中で特に好きだった。高2の時は実行委員も務めた。毎年、近くの大学のホールを借りて行うが、その舞台裏で様々な仕事をしていた。あの暗さ、静寂、響く歌声、ピアノの音、とても美しい空間だったと思う。僕は音楽祭が好きなはずだった。しかし、僕が音楽祭がなくなったことを知った時、何か思っただろうか。あまり覚えていない。少し寂しいとは思っただろうが、もともと予定されていたこともそれがなくなったことも実感が湧かなかった。
 体育祭は学年を越えて白組や赤組などに分かれる。高2の時、先輩が涙ぐみながら掛け声を合わせていたのを覚えている。来年、僕も体育祭が最後であることに泣きながら頑張るのかなと漠然と思い描いていた。結局、体育祭はなくなったけど、それは思い描いていた漠然としたイメージがなくなっただけだった。
 要するに両方とも実感が湧いていなかったのだ。あることすら実感が湧かなかった「最後の行事」がなくなったところで、特別な悲しさが訪れるわけではなかった。もともと漠然としたイメージが、実はなかったというそれだけのことだ。幻を見ていたのだ。
 文化祭も消えかけていたが、これは縮小されながらも開催された。ただ休校とかいろいろあって、もともとやりたかったことへの意欲はだいぶ薄れてしまっていた。そんな状態のまま最後の文化祭は意外とすぐにやってきて、意外とすぐに終わってしまった。本番への心の高ぶりを全身で感じられるような、そんな情熱的な打ち込み方があるのだろうと高1の頃から漠然と思い描いていたのだが、それも幻だったようだ。しかし友人はそうやって高校最後の輝きを存分に味わっていたようだった。その達成感に満ちた感想を友人から聞いたとき、僕は何か大事なものを得られなかったのかもしれない、という寂しさが襲ってきた。

 多分、僕の人生はだいたいこんな感じで過ぎていく。少し前まで未来だったものがあっという間にやってきて、もうこんな時期かと思いながら向き合うことになるし、もしそれが思い描いていたものと違ってもそういうものだと受け止めてしまう。それが終わり過去の出来事として振り返るときになって、自分はあの時ある行事を乗り越えたのだとしみじみと感じるのだろう。そこで、得られたものを愛でたり、なかったものを嘆いたりするのだ。

 意外とあっさり受験も終わってしまった。実感が湧かないが大量の教材をこなしていく日々はひとまず終わったらしい。場合によっては来月大学に行く。その実感も湧かないから気分は浪人生だ。
 そして、今日は高校を卒業したらしい。まあそんなものなのだろうな。実感がやっぱり湧かないや。きっと、今まで当然のように歩いてきた廊下もベランダも教室も校門も階段もトイレもロータリーも特に名前のなさそうな通路も、グラウンドから見上げる空も教室の窓の外の景色も通学路もチャイムも全部日常の風景ではなくなって、そうして別の日常が僕の体に染み渡ったときに初めて、過去の日常として高校生活が思い出され、その思い出の中で行事が位置付けられ、その終わりとして卒業が認識され、それが僕にとっての高校生活全体の確かな実感となるのだと思う。それを感じている頃には、僕はいつの間にか大学に入り卒業しているかもしれない。社会に出ているかもしれないし結婚しているかもしれない。それへの実感もないままに。そんな風にして、いつの間にか老いて、もうこんな時期かと思いながら死に至るのかもしれない。

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