5月8日の脳内
帰る時に歩きながら何もやることがない。僕は考え事をする。それは今日のことであったり、自分のことであったり。そして、これを文章に起こせないかと考える。文章に起こせば、自己満足では収まらず、他人からの共感が得られるかもしれない。まあ、まず得られないだろうが。
そして、文章に起こしたいという感情が頭の中に出てくると、文章に起こすとどうなるだろう、なんて考え始める。そして、その脳内の文章にも、「文章に起こせないかな」なんて言葉が出てくるものだから、再帰的だなぁ、自分を客観視しているなぁ、なんて思う。自分の思考の中において、自分の思考のことについて客観視して考える。そんな入れ子構造の考え方をしていると、だんだん頭が疲れてくる。そのあたりで、家に着く。
家に入ると、だいたいは文章に起こすなんてことをせず、別の有意義なことをして過ごす。たまに、何もやる気が起きず、ずっと無意味なことを考え続ける日があって、今日はそんな日だった。「その無意味なことについてはもう書き残したものがある」という事実を作れば、わざわざ同じ無意味な考えを繰り返す必要はないはずだから、今日はこうして自分の思考の中で繰り返し現れる特に無意味な部分を書いておく。
思考は一時的だから、時間が経つとすぐ何を考えていたか忘れてしまう。その時は何か面白い発想をしていたはずだと思っていたはずなのに。そして、自分の思考が一通りデータベースに保存されればいいのにと妄想してみるけど、いつもの大量の思考の中から面白い発想を探し出す気にもなれないだろうな、なんて思う。たまにこうして文章を書いてどうにか残そうとするが、その間にも思考は刻一刻と変化し、一文前のことについて「何か違うんだ、あとこのことも書きたいんだ」とか、一分前のことについて「何を書こうとしてパソコンに向かったんだ」とか、どんどん消えては生まれ、脳内ではあんなに一瞬で文章が組み立てられていたのになぁと不思議に思っては、自分の語彙のなさを悔いている。
今も新しい考えが脳内に届いている。それは「今日は不自由なく文章が書けるなぁ」ということ。さらに「この今の思考も先ほど述べた『客観的』『再帰的』な見方だなぁ」と。そして、こんなことを考えているうちに、先ほどの文章の続きに何を書こうとしていたんだか分からなくなってしまった。そんな絶え間なく流れる川のような脳を不思議に思いながら、お菓子を食べる時間となったので、いったん思考を中断するのだ。きっと、帰ってきたら全然違うことを考えているだろう。しかしまとまった時間があれば忠実に文章に起こせるかといったらそうでもない。なんとも、言葉とは難しいものだ。一瞬で脳内を表せたらいいのに。でも、脳内の概念的なものを表現できるだけでも十分素晴らしいものなのだ。
なるほど、この文章を離れて少し考えてみたが、やはり再帰的な思考は脳内に現れる。あるものについて考えて、その文章を書くことを考えて、その文章にその文章を書くことを考えたということを書くということを考えて、それが何重もの入れ子構造になって、頭がいっぱいになる。しかし、もともと何を考えていたのか、離席する時何を書こうとしていたのか、あるいはここまでで書きたいことは十分だったのか。過去の体験は容易に思い出せても、思考は数十秒前のことですらよほど印象に残らない限り覚えてないものだ。実は、脳が要らない記憶をさっさと消してくれるのかもしれない。覚えていたいと思ったって、さすがに全部の思考を覚えていたら脳がすぐオーバーフローする。だから、印象に残っていないなら消えてしまって構わない、印象に残っていない過去の記憶なんてその程度のものだったんだ、と考える。そして、そのどうでもいい一瞬の記憶を残したこういう文章を、未来の自分はただ漫然と眺めて、過去の思考はちょっと面白いなと思ったりするのだ。過去の思考なんて知りっこないんだから、これくらいでいい。
こんな風にしばらく文章を書いていると、頭の中は変わってしまうものだから、一貫性がないと自分でも思う。でもその一貫性のなさだって、過去の思考をそのままに文章に起こした結果として、そういう味のあるものとして、きっと未来の自分は受け取ってくれると思う。