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雨水

暗い雨の降る2月の最終日だった。いつもの木曜日と全く同じように数学Ⅰの授業が終わると、僕は掃除当番のために誰もいない3年2組の教室へ向かった。階段を上がって3階、回れ右、教室は目の前。ドアを開けると、1年の教室とは違って、生徒や放置された誰かの荷物などのない、整然と机が並べられた光景。そして黒板には「卒業おめでとう」の文字と、証書入れの筒のイラスト。それを描く先生の手は止まり、掃除当番かと僕に尋ねて笑う。そう、明日は卒業式である。

思えば卒業を迎える67期生たちとの関わりはあまりなかった。部活動も67期はだいぶ前に引退していたし、文化祭も67期が中心となって盛り上げているのを僕は眺めているだけ。生徒との個人的な関わりなんてなかったから、僕は先輩の別れを惜しむというよりも、この高校から160人程が居なくなるという数値的な事象を感慨深く思うのであった。しかし、それは同時に、僕の高校生活がまもなく1年経とうとしていることを意味する。どうやら時間は、僕の成長とかやり残した経験とか、そんなもの待ってくれないらしい。

中高一貫校は僕の感覚を狂わせる。既に1年前となった中学卒業は、中学生活の終わりを告げるものだった。そこでは多少なりとも感傷に浸ったはずであるが、別れはほぼない。クラスメイトは増えるのみ、授業は受けられないものの教師にはすぐに会いに行けて、校舎だって、さらには学校生活だって、ちょっと変わるだけ。感覚は中学4年生。そうして形だけの入学式を通って高校生活が始まった。そして、それは1年終わる。

ふと気が付くと、時間は尽きていた。巷で言われる高校の青春とやらは1年しか、あるいはそれすらも十分に味わっていないのに、大学受験は、未来は、無慈悲に到来する。これでも受験への進みだしはかなり遅いほうで、同級生は皆、塾に追われている。塾が必ずしも苦であるとは言わないし、実際小学校の頃は塾にかなりのペースで通いながら小学校生活を満喫していた。しかし、皆が塾に通っているのは受験に向かっていることを僕に鮮明に意識させるには十分な状況である。

高校生活がどれほど貴重で魅力的なことか。大学生になってしまえば僕の高校生活は二度と体験できない。大学生からはもう「大人」だと、そして「少年」としての日常生活は高校生までしか体験できないのだと、僕は信じている。その理由を言い表すだけの教養と語彙がないのが苦しいことだが、強いて言えば「自由度の差」だろうか。大学生になれば選択肢が圧倒的に増え、要は自由度が大きくなり、逆に責任もそこに伴うと言える。それはそれで楽しいに違いないのだが、高校生とは全く質が違う。高校生っぽい未熟で馬鹿な事をしていたい、そう思う未熟な僕がいる。

時間は否応なしに過ぎていく。だから常に未来へ進まないといけないし、そろそろ大人にならないといけない。でも、だからこそ少年である今、行動を起こし、形を残したい。逃すと一生味わえない時に思い出をありったけ刻みたい。この焦りの表れがブログだったり、旅行記であったりする。そんな気持ちは僕も例外ではなく、こうして形に残したくなる。

この一瞬を、永遠に刻もう。青春は、壊れやすい季節だから。

真夜中、もう二度と訪れない"高1の"行事を回想しながら感傷に浸っていると、3月はいつの間にか訪れていた。

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