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思い出を残すということ

 押入れの奥には歴史が詰まっている。ある時、父親が学生だった頃の、日ごとに券片が別だった頃の青春18きっぷや、白糠線の仮乗降場の写真などが入った鉄道旅行のアルバムを見せてくれたことがあり、過去の記録が時を経ても身近なところに残されていることへの感慨を覚えたのだった。教科書の資料よりもっと個人的な体験の記憶。それはきっと私の親だけではなく、多くの大人の思い出の品の中に見出すことができて、その総体は歴史と形容できるのかもしれない。

 だから、捨てられない。

 今、手元にファイルがある。透明なホルダーの中に紙の資料を入れるタイプの量産品だ。旅行先で貰ったパンフレットの類を一つひとつファイリングしてファイルはパンパンに膨れ上がった。もうすぐ最後のホルダーが埋まるから、次のファイルを買わないといけない。

 今、棚の中に小中高時代の教材が残っている。授業のノートから模試の冊子まで。割と勉強が好きな生徒だったんだ。授業は面白かったし、後から見返すこともあるかもしれない。だから、捨てずに棚の中に置くことにしたらしい。

 今、オンラインのフォトストリームに大量の写真がある。Googleフォトのストレージに金がかかるようになってもうすぐ2年。写真を撮りまくったら無料枠の15GBなんてすぐに埋まる。その写真が捨てられないのだ。移りの悪い写真すら、私の記憶を構成する要素であって、思い出を呼び起こす火種になる。

 これら一つひとつが私にとっての思い出だ。そしてそれは歴史になるかもしれないのだ。昔のパンフレットが博物館に展示されているように、時代を表すものとして価値を見出されるかもしれない。時代の大きな流れを反映する記録は、私という一個人の手元にもある。この時代を生きて様々なものを所持し続けているという時点で、歴史を継ぐという役割を担っているとも言えるのではないか。どうだろう?

 いや、ある意味、既に歴史になりつつあると言っていい。私のこれまで歩んできた歴史、自分史とでも言えるだろうか、その史料となる。史料には事欠かない私は、自分史学の権威であり、過去の私の多角的な解釈の見方を提示することができる。ジブン博士、とでも呼んでくれ。


 ジブン博士は史料集めに余念がない。旅行に行くたびに、思い出を表すものが増えていく。1日100枚は下らない写真、至るところで貰うパンフレットや入場券の紙、記念のストラップ、そうしたものが次から次へと「史料」として溜まる。後々振り返るため、あるいは他の人に見せるため、捨てずにいたい。だから次々に溜まる史料の整理に時間をかけることになる。そういった作業をしている間、何か重要な業務をした気になれるのだ。

 また別の日には、PCの画面を前にマウスのホイールをカラカラと回し、自分のSNSの投稿を遡り、一つひとつ振り返って当時の自分の感情やアップした写真を片っ端から確かめる作業を行う。過去の自分の発言は感情の証拠であり、撮った写真は行動の証拠であり、その全てがその時々の経験を物語っているから、顧みるのをやめられない。君たちにも教えたい、私はこういう行動原理で動いたのだ。昔の自分を再現して、まるで自分の本質を研究しているようだね。

 「研究」は止まらない。昔の自分が残した投稿と同様、今の感情も残したくなる。この瞬間に発露した私の感情を文章にまとめよう。今書かないと。文章を書けそうな気がする今書いておかないと、後で何も書けなくなる気がする。その時の自分をとっておきたいのだ。再現できるように、正しく、誤りがないように、なるべく自分の心の中を映し出すような文章が欲しかった。

 全て記録し尽くすことが目的ではない。たしかに、私の見た世界をすべて画像にまとめ、得たものをすべて取っておき、感じた世界をすべて文章に起こすとすれば、それはもはや私の記憶そのものと言えるかもしれない。だが、私が私に関する情報を取捨選択できることこそが、私の思い出や考えをかけがえのないものにするはずだ。そう信じていたから、史料を編纂することに余念がない。自分を一番よく分かっている自分が自分史を語らなければならないのだ。思い出を自分で選択し、整理する作業をずっと続けている。あの思い出の品も、あの紙切れも、自分史という物語の上に載せてやって、私の歴史の中で脚光を浴びせてやるのだ!


 ファイル、押入れ、あるいは机の上、様々なところに昔の旅行の思い出の品が顧みられることなく詰まっている。何のためにわざわざ取っておいたんだ。旅行先で買ったストラップ。あるいは無料でもらった記念のカード。そしてそれをくれた旅先の人の表情。あの旅は楽しかった。それらが放置されたままであることに罪悪感を覚える。だから押入れに眠っているそれを掘り起こして、時間も労力もかかるが整理しなければいけない、と焦る。

 押入れを漁ると、あるポストカードが出てきた。奈良は吉野、桜の広がる山の風景。このポストカードを貰ったのは修学旅行で吉野に行った時。あの旅行もまた楽しかった。吉野の後は北上し、奈良、京都と巡ったのだった。そうだ、その時に京都の保津川のトロッコで友人と撮った写真も、川下りの乗船券も、部屋に乱雑に積まれて残されている。顧みられることのないまま。

 しかし思い出とはそれだけではない。法隆寺も、伏見稲荷も、清水寺も、移動途中の電車や宿も、その体験が記憶の中に残っている。あの旅行の日々は、部屋に残っている記念の物品なんてなくても、頭の中から引っ張り出すことができる思い出だ。ではそれを現実世界で整理する意味とは?思うに、脳というのは案外整理されていて、あの日々のあの体験どうしの繋がりは自分の頭の中でまとまっている。実は、現実に残された思い出の品々を整理することに、意味がないのではないか?実は、わざわざ整理しようとしているから、整理に追われ、焦り、苦しむのではないか?

 先日、押入れの中に、思い出を溜め込む「史料置き場」を作った。元々は整理するための箱だったが、整理したってどうせ中は見ない。ならいっそ、ただの「置き場」として乱雑に思い出を突っ込んでいこうではないか。昔の旅も最近の旅も一緒くたにして、思い出の品を次々に「置き場」に突っ込むのだ。

 重要なのは、「置き場の状況を顧みないこと」。こんなもの、整理しようとしたらキリがない。ストラップとか、記念のきっぷとか、持っていてもどうしようもないが、あれは物を買ったのではなく思い出を買っているようなものだ。だから、顧みなくていい。思い出は頭の中に積み上がって残っている。旅先で買ったもの、貰ったものだって、置き場に乱雑に積み上げていけばいい。この箱のおかげで、思い出の品の処置を考えるという困難から一旦解放され、随分とすっきりした。写真についても同じだ。Googleフォトの15GBのストレージに収まりきらなくなって、ちまちまと消したりクラウドからローカルに移したりしていたが、先日、ついに月額250円を払い、Googleのストレージを100GBで使い続けられるようにした。このおかげで、わざわざ昔の写真を整理するストレスから解放されたのだ。そのための金額として月250円は悪くない。

 押入れの奥には歴史が詰まっている。しかし私の物語は、史料置き場の物や撮った写真を介して顧みなくても、私の記憶の中から簡単に語ることができる。物や写真を全てを捨てるほどの気合いもないから、整理になるべく労力を割かず、適当に放置できる環境を作ったのだ。物や写真を放置しても自分の記憶に焼き付くような体験を大事にする。それが、私が主体として自分なりの人生経験を作り上げていくということの意味なのではないか。

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