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面白くない表現の話

 自分と表現について考えた。

 ネットの向こうの知らない個人の創作に触れる気にならない。なぜ?
 大して話題になっていない本を気になって取るなんてことはほぼない。なぜ?
 YouTubeで最近の音楽を聴く時は、誰かが話題にしていたかどうかとか再生回数とかに注目し、メジャーな曲しか聴こうとしない。なぜ?

 私の根底には次のような意識がある。
 一つ、創作物は数が多すぎる。そして面白いのは一部だし有名になりがち。
 二つ、有名でなくかつ面白くない創作物に触れるのは、恥ずかしくて、悔しい。

 世界の向こうには、私の知らない無数の個人が、自分の姿をこの世に見せつけてやろうと表現を研ぎ澄ませている。全く有名ではない、個人のちょっとした創作も大量にあって、各個人が思い描いたとか表現とかがにじんでいる。このすべてに触れるのは気の遠くなる作業だ。当たり前だ。だから有名なものだけを選ぶ。
 もちろん、自分に合うものを探すという手もあるが、それ自体大変だし、それ以上の問題として、探す過程で恥ずかしさや悔しさを味わうという点がある。
 もし、私の目に触れた表現が、有名でもなく、かつ私の目から見て面白くないものだったら?私は「こんなものを見てしまった」という恥ずかしさを感じてしまう。有名でもない知らない他人が、つつましやかに公開している表現にこもった個人の世界観や表現技法を見てしまうのは、知らない他人の家を覗いてしまうような居心地の悪さがある。それが面白いなら救いがあるが、そうでなければ他人の自己満足を浴びる恥ずかしさが残る。
 また、面白くないものに触れた時のもっと単純な気持ちとしては、悔しさがある。珍しく自分から創作物を探った結果ぶつかったものがつまらない作品だったりしたら、損した気分になって悔しい。

 わざわざ探し出したつまらないこの文章を読んでいる君も、悔しくなっているかもしれないね。

 こんなこと言ってるからいつまでも創作物に触れられないし読書もしないわけだが。

 こうした失敗の例を挙げよう。鉄道を題材にしたある漫画のあるシーンが周りで話題になっていたので、面白そうだったから1巻を友人から借りて読んで、面白いと思って2巻を買った。しかし、2巻まで読み終えて冷静になってみると、嫌な部分だけ印象に残っていた。登場人物の行動は、動機も行動も単純でかつ度を超えているので奇行に感じるし、肌の露出が多いのも鬱陶しいし、しかもいまだにタピオカを女子高生のシンボル的に扱っていたのは違和感があった。鉄道も自分の興味がある部分はごく一部。そもそも自分向けではなかったのだ。
 嫌になった本はとことん嫌いだ。それが自分の本棚を占めていることすら恥ずかしくて、自分には合わなかったみたいだと言って友達に渡した。無料で。漫画単行本一冊分の損。残念。だから創作物を買うのには慎重なのだ。

 去年はそうした心のハードルを乗り越えて久々に数冊の小説を買った。名前は明かさないが、順番につまらなさを語っていこう。
 一つ目は高校生が推理する短編集。ドラマ化済み(見ていない)。書き方がなんとなく好きではなかった。書き出しもよくある「面白い小説の書き方」という感じで少し違和感があったのを覚えている。また、結末も扱っているテーマの重さに対して軽すぎる気がした。
 二つ目は中学生といじめの話。(私が物語を読み切れていないからか分からないが、)決め手となった行為がないように感じられ、気付いたら悲劇的な状況がある程度悲劇的なままゆっくりと変わって終わっていて、解決と絶望のどちらにも転ばず印象が薄かった。
 三つ目は百合のラノベ。シリーズものの第1巻。これも悪くはないのだが、もっと起伏のあるストーリー展開を望んでいた。「日常系」ならそういうものだと自分を納得させられたのだが、日常系と捉えると背後に恋愛があるのが気に食わない。一方でちゃんと恋愛の描写されたらそれも読まない気がするし、私自身が恋愛小説に向いていないのかもしれない。

 面白くない小説をたくさん読んで気付いた。面白くない小説でも読んでいる間は面白いのだ。最後に振り返って面白くないと感じる小説でも、読んでいる間は物語の進行を追うことができて、充実した感じがある。少なくとも電車内ですることもなく虚しくSNSを眺めている時よりは。だから、何でもいいから目に付いたものから読んでみればいい。面白くない表現に触れるなんて、そんなに特別な失敗ではない。

 そもそも、表現として面白いものだけが、私にとっての「良い」表現か?知らない他人の表現ならまだしも、私の周りの日常生活においては、その表現に至るまでの現実の方が意味を持っている。

 それは例えば、高校2年か3年の時に友人が見せてくれた書きかけの小説。最初はわざわざ読むのが面倒くさいなぁと思っていたが、読んでみると、物語の始まりとしてはそれなりに面白かった。しかし、今となってみれば、書き出しの良し悪しよりも重要だったものは、「君が自作の表現を見せてくれた」ということだったのかもしれない。君に本を借りたり、同じ小説を面白いと言ったりした、そのコミュニケーションの中に君の小説があった。もう記憶の片隅にあるだけだったが、あの続きが読みたい。

 表現ってそれで良いのだと思う。誰かに伝えたいという気持ちから表現が始まる。世の中の全ての表現が私に宛てたもので、私の思い通りに事が進む、なんてことはありえない。だから、偶然私の目に留まり心を動かしたものや、幸いにも私に宛てて伝えてくれたものを大事にしよう。それは狙って得られるものではなく、しきりに期待するものではなく、様々なものに触れる中で予期せず出会うものだ。様々な表現にぶつかっていく1年にしたい。

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