読書日記#4 京極夏彦『姑獲鳥の夏』

しばらくぶりの読書日記。本は毎日何かしら読んでいるのだけれど、時間的・精神的余裕がなかったので。下書きにはいくつかあるのだけれど、一番最近読了したのが面白すぎて一気に書きたい。

今日は京極夏彦『姑獲鳥の夏』(講談社文庫)。

本作は中学の頃に初めて読んで、久しぶりの再読。新鮮に面白かったし、中学の頃より細かく読めた。


あらすじ

鬱病の気があり赤面症多汗症失語症を持つ文士・関口巽は、古本屋にして神主の京極堂こと中禅寺秋彦を訪れる。幽霊や妖怪、心と脳の関係、量子力学に関する込み入った会話ののち、関口は京極堂の妹で出版社に勤める雑誌記者・中禅寺敦子から持ち込まれた話として「二十箇月もの間嬰児を身籠り続ける妊婦」の話をする。産婦人科医の久遠寺医院の娘・久遠寺梗子は夫・久遠寺牧朗が密室から失踪したのち妊娠が発覚し、その後二十箇月もの間妊娠し続けているという。

関口は、敦子の勤める出版社の編集部に顔を出す。編集長は久遠寺医院で嬰児失踪事件が連続して発生していることを知らされる。その後、京極堂に勧められ、失踪した久遠寺牧朗、旧姓・藤野牧朗(渾名・藤牧)と同窓で、関口・京極堂らの先輩である探偵・榎木津礼二郎を訪れる。折しも榎木津の事務所には久遠寺家のもう一人の娘・久遠寺涼子が失踪した藤牧を探してほしいと依頼しに来るところだった。榎木津には特殊な能力があり、視力が極めて悪い代わりに他人の記憶を見ることができる。この後、関口は京極堂の元で榎木津の能力についての講釈を聞くことになる。

榎木津と関口、敦子は久遠寺医院を訪れ、捜査をする。院長・久遠寺嘉親とその妻で事務長の久遠寺菊乃、医師見習いの内藤がいた。ここで、関口は無意識に封じていた過去の記憶を思い出す。藤牧の過去や彼の怪しい研究を聞き出して、いよいよ二十箇月妊娠し続ける妊婦・梗子のいる部屋へ向かう。その部屋は、藤牧が失踪したまさにその書庫であった。踏み込んだ榎木津は、血相を変えて「木場に相談しろ」と言う。木場とは、従軍時代の関口の部下であり現在は刑事である木場修太郎(渾名・木場修)である。しかし関口には何も見えない。

とりあえず、謎(二十箇月の妊娠、藤牧の密室からの失踪、嬰児連続失踪事件)と登場人物が出揃ったこの辺でやめておく。以下はネタバレあり。


京極堂による論の要約

本作で最も重要なのは、実は冒頭の関口と京極堂の会話である。妖怪、幽霊、脳と心、量子力学。私の知り合いはこの部分をただの衒学的な蘊蓄だと言ったが、それはとんだ誤読である。まずはこの部分をまとめてみよう。

「憑き物落とし」とファクター1

まず初めに、京極堂は彼の行う「憑き物落とし」の話をする。京極堂曰く、「憑き物落とし」は、ただのお祓いでも、超自然的な事象の科学的な解明でもない。彼は言う。

「いや、幽霊はいるよ。見えるし、触れるし、声も聞こえるさ。しかし存在はしない。だから科学では扱えない。でも科学で扱えないから、絵空事だ、存在しないというのは間違ってるよ。実際いるんだから」

『姑獲鳥の夏』文庫版 30頁より

心は科学では扱えない、というのだ。しかし脳と心は違う。また、世界は二つに分けられるという。

「外の世界は自然界の物理法則に完全に従っている。内の世界はそれをまったく無視している。人間は生きていくためにこの二つを巧く添い遂げさせなくちゃあならない(略)」

34頁より

外の世界から受け取った情報を税関たる脳が交通整理して顧客たる心に進呈する。しかし理屈の通じない内の世界も脳が交通整理して「意識」において心に受け渡す。

ともかく、外から受け取った情報を脳が検閲し納得したものだけを意識の舞台に乗せる。通らなかった情報は意識に上らぬまま記憶の蔵に仕舞われる。これが後々重要なファクターとなる。ファクター1としておく。しかしこの税関たる脳は、顧客たる心の我が儘を聞いて偽物を意識に乗せる。これによって、「死んだ人間と逢いたい」という我が儘に対して幽霊を見せる。これが「仮想現実」だという。そのとき、宗教が役に立つ。宗教が心と脳の仲人となるのである。

この心と脳の関係が正常でないとき、その関係を一度反故にして正常に繋ぎ直すのが「憑き物落とし」なのだ。これは本作のみならず、シリーズ全体に通じる、いわばシリーズにおける謎の解明の方法論の開示である。

ところで、この「仮想現実」は共有されうる。共有されると、「共同幻想」となる。これはファクター1.5。それが記録や伝承に残る妖怪。それが体系化したらそれは宗教。宗教が心と脳の仲人となる。信徒それぞれに違う体験をしても、それぞれの心と脳の揉め事を収める。言葉にして語られるものはすでに共同幻想。一人の人物を表す「名」によって周囲の人間は彼を認識するが、しかし周囲のそれぞれの人間が認識する彼は異なるかもしれない。しかし「名」のおかげで話が通じる。これが「呪(しゅ)」。

量子力学とファクター2

話は変わって、量子力学における不確定性原理について。壺に入っているのが仏舎利か干菓子かは、壺を開けてみるまでわからない。観測するまで中身の運動量と位置は確定できない。観測するまでは確率的にしか捕らえられない。逆に言えば、〈観測する行為自体が対象に影響を与える〉ということ。「シュレディンガーの猫」である。これがファクター2。この世界は観測者が観測した時点で遡って創られた、というのである。この論理は後々妖怪や鬼や憑き物筋への説明へと発展する。

異常出産とファクター2

釈迦ことゴオタマ・シッダールタ、武蔵坊弁慶、伊吹山の酒呑童子は異常な出産で生まれたと言われる。しかしそれは、異常な出産によって生まれたから鬼やブッダになったのではない。鬼だからこそ、異常な出産によって生まれなければならないのだ。鬼だと観測された時点から遡って、異常出産という過去が形成される。量子力学と同様の構造である。これはファクター2と同様。より具体的な説明という位置付けである。

そして、これらファクター1と2は組み合わさって一つのファクターとなる。

以上が、冒頭における長い長い京極堂の講釈である。

以下は一足飛びに真相である。

真相

12年前まで

久遠寺家は讃岐で憑き物筋とされ、迫害されていた。この論理はファクター2である。久遠寺家は女系だが、女は無頭児を生む。菊乃も生んだ。菊乃の母はその無頭児を、因習に則って石でもって打ち殺した。子を失った菊乃は別の子を攫う。その子が内藤である。菊乃は〈久遠寺の母〉となった。また、久遠寺の女は「ウロ」を起こす。我を失う。涼子にも「ウロ」は現れた。ところで、小児性愛者の医師・菅野にダチュラでめちゃくちゃにされていた涼子は淫猥で放蕩な別の人格を形成していた。ウロ、つまり空虚な器に倒錯した経験が蓄積された結果である。12年前に藤牧が書いた手紙を関口が手渡した相手は、梗子でなく涼子であった。藤牧は勘違いして「京子」と書いたのだ。これを見た涼子の第二の人格は、「京子」となった。「京子」は藤牧と逢瀬を重ね、子をなす。藤牧は結婚を願い出るが、許されずドイツへ留学する。涼子に堕ろせと言っても産むという。涼子が書庫で出産した子は無頭児だった。菊乃は母と同様に無頭児を殺す。涼子もやはり別の子を攫う。菊乃は無頭児の死体を、ベッドに縛った涼子の脇にホルマリン漬けにして置いた。ズタズタになった涼子には再び新たな人格が形成される。「母」である。菊乃や、その後ろにいる数々の「久遠寺の母」たち。涼子、「京子」、〈母〉。三つの人格。京子は涼子の下位、母は涼子の上位。母は全てを知っている。京子が子を攫い、それへの罰として母が殺してホルマリンに漬ける。これが12年前の連続嬰児失踪事件。

事件

さて、怪我により生殖能力を失い、ドイツから帰ってきた藤牧は彼の思う「きょうこ」と結婚する。梗子である。結婚したものの、性交はできない。藤牧の帰還によって、再び「京子」が目覚める。京子が子を攫い、それへの罰として母が殺してホルマリンに漬ける。これが現在の連続嬰児失踪事件。藤牧が12年前に逢瀬を重ねていたのは「京子」の状態の涼子である。しかし彼は「きょうこ」、つまり梗子と結婚した。藤牧は12年前の思い出を語っても妊娠させたことを謝ってもそれは涼子との思い出である。梗子に心当たりはない。梗子は怒る。藤牧がおかしいと思う。梗子は内藤と不倫関係になる。藤牧は母の手記を聖書の如く読み込み、「子を作ることこそが唯一無二の使命である」というその狂った人生観に基づいて「きょうこ」への贖罪のため人工授精の研究を続け、ついにそれが完成する。藤牧は、内藤と梗子の痴態に踏み込み、怒るどころか研究の完成を喜び、梗子に謝る。しかし梗子は体験も人生観も共有していない。怒り狂い、果物ナイフで藤牧を刺す。藤牧はあの書庫へ逃げ込み、鍵をかける。この日、「京子」が目を覚ましていた。「京子」こと涼子は攫う子もいない中ただ書庫の中にいた。駆け込んできた藤牧が倒れた後、藤牧は着物姿の涼子に「母」の姿を見、「母様」と呼びかける。目覚めた「母」こと涼子はいつもの行動、すなわち石で子の頭を打ち、ホルマリンをふりかける。藤牧は涼子に殺された。翌朝、内藤が梗子の元へ行くと、梗子は内藤との関係も昨晩の惨劇も忘れていた。内藤は書庫の扉を叩き壊す。駆け込んだ梗子には藤牧の死骸が見えない。「消えてしまった!」と叫ぶのみ。そして梗子の妊娠が発覚する。「母」である涼子はやはりいつもの行動、すなわち懲罰として梗子を殺した子のホルマリン漬けのそばで寝かせる。このようにして、梗子は藤牧が失踪した書庫で妊娠し続けることになる。「母」には死骸が見えているが、涼子には死骸が見えていない。涼子には藤牧を殺す理由も、死骸を放置する理由もない。しかし実行したのは涼子である。涼子が認識するわけにはいかない現実が、そこにある。だから、涼子には死骸を認識できない。涼子の脳が、「仮想現実」を見せている。これはファクターである。一方、梗子にも死骸は認識できない。梗子の妊娠は想像妊娠である。彼女にとって妊娠とは「性交の結果」であり、藤牧を愛する梗子は「性交の事実」を求めた。その結果としての想像妊娠だったのだ。だからこそ、梗子は「妊娠し続ける」ことを求めた。だから二十箇月もの間の想像妊娠だったのだ。これはファクターである。しかし藤牧の死骸はその「仮想現実」を粉砕する力を持っている。梗子の脳はそれを避けなければならない。だから、梗子には藤牧の死骸を認識できない。二重の「仮想現実」である。ファクターである。菊乃と嘉親は書庫に近づかず、内藤には書庫を開けたときの梗子の「仮想現実」が共有され、見えない。ファクター1.5である。

語り起こし

ここで、小説冒頭に至る。書庫に踏み込んだ榎木津には死骸が見える。しかし関口にはファクター1.5が発現し、「仮想現実」によって死骸が見えなくなる。あるいは「観測自体が事件に影響を与える」という点では量子力学の論理かもしれない。その後の関口と木場の捜査は材料の収集でしかなく、当然ながらこの段階での推理は真相ではない。そして解決篇、京極堂による憑き物落とし。京極堂は梗子の妊娠が妊娠妄想ではなく想像妊娠であることを確認し、真言や呪法や九字を試して久遠寺家の術を確かめ、梗子の「仮想現実」を解いて現実と脳と心の関係を繋ぎ直し(これがまさしく「憑き物落とし」である)、梗子は耐えきれず想像妊娠を終える。共有された「仮想現実」が解け、藤牧の死骸が「出現」する。死骸は死蝋と化しており、ほぼ完璧に保存されている。涼子から「母」を引き出して警察に引き渡す。

本作は、「本格ミステリ」ではない。もっと言えば、「ミステリ」ですらない。これは著者である京極本人も「ミステリとして書いたわけではない」と述べている。ミステリは「謎が提示され、最終的にそれを解決する」ジャンルである。その過程が「論理的かつ読者に対してフェアに」行われたならばそれは「本格ミステリ」あるいは「推理小説」である。ちなみに、それと一部を共有しつつ、「『探偵』による探偵行為が主眼となる」ものならば「探偵小説」、いわゆる「ハラハラドキドキする展開が主眼となる」ものならば「サスペンス」。多様な解釈や定義があるが、ここではそういう理解としておく。

そこで改めて本作の構造を見ると、「ミステリ」には当てはまらないことに気づく。本作に「謎」はない。本記事冒頭で「謎」と表現したのは、藤牧の失踪、二十箇月の妊娠、嬰児の失踪の三つである。しかしこれらは解決篇前までに提示される事実では推理することが不可能である。だから少なくとも「本格ミステリ」ではない。

では冒頭の京極堂による講釈をどう捉えるべきか。先に一つずつ確認した通り、この部分で提示されるファクターは、そのまま真相の解説になっている。というか、特殊設定ミステリにおける「世界設定の説明」に当たるものになっている。これは伏線と呼ぶべきものではないと考える。

真相を読めばわかるように、「事件の犯人」と呼ぶべき人物の不在がわかる。もとい、「人物」を「人格」と呼ぶべきだろう。ここでいう人格は常識的な行動・論理・自由意志を前提としている。二十箇月の妊娠は想像妊娠であり、この直接の解決は京極堂の論理におけるファクター2による。藤牧の失踪も京極堂の論理におけるファクター1と1.5により解ける。嬰児の失踪は涼子の多重人格の導出である。基本的なデータは物語として共有されるものでしかなく、関口と木場の捜査はミスリードでしかなく、真相に役立つのは京極堂の論理だけなのである。なんだか拙い説明で、伝わるかどうかわからないが、何か推理の手掛かりとなる物証があるわけではないのだ。それどころか、その情報を京極堂にもたらす関口自身の記述は信頼できない。だからこそ、「謎解き」や「推理」とは到底言えず、「憑き物落とし」としか呼びようがない。何が起きたか、外から観測した事実を繋げて京極堂が彼なりの論理、世界の説明方法でもって説明するだけ。そこに「犯人」や「犯行」は存在しない。というか、それらは問題にならない。だから、「ミステリ」ではないのである。

ちなみに本記事の趣旨とは異なるが、本作を貫くテーマとして「母」があることを述べておく。涼子の人格のうちの一つであり事件の発端である「母」、藤牧が抱えていた歪んだ崇拝の対象である「母」、関口の精神的不安定さの根源にあることが窺われるところの「母」。一つ目の母は事件の一方の極における始源あるいは継承の対象として現れ「殺す原因」となり、そして自滅する。二つ目の母はもう一方の極における始源あるいは継承の対象として現れ「殺される原因」となり、そして一つ目の母により滅ぼされる。三つ目の母は恐れの対象として現れ、「正しく観測できない原因」となり、子である関口自身によって乗り越えられる。この三つの母はそれぞれ別の母でありながら同一の概念、ここでは「呪」で統一された母でもある。しかし生き残った母は乗り越えられた三つ目の母のみである。そして、結末において関口は「妻」へと帰る。まさに「母」を「乗り越える」こと。

この構造は、フロイトのエディプス・コンプレックスをずらした構造である。エディプス・コンプレックスは子が父の立場になりかわり母と結ばれることを志向する構造があるが、本作において関口は母を乗り越えて自身が父になること、そして新たな「血」である「妻」と結ばれるのだ。反復の拒否である。脱出である。

ここまで述べてきた「憑き物落とし」の構造と「母」の構造を組み合わせる。ファクターを一つの主体の中で発現させたのは涼子・梗子・関口の3名。そして、京極堂が明確に憑き物落としをするのは涼子と梗子。そして、京極堂が作品全体を通して憑き物落としをしたのは関口である。

このように、本作は「ミステリ」ではなく、「京極堂による涼子・梗子の憑き物落としを通じた関口への憑き物落とし」である、としか言いようのない、異形の物語になっている。それは、ミステリという世界の論理から見れば、文庫版解説の笠井潔の言うところの「『見えるものは見える』という日常的世界の地平を、内部から破壊」していると捉えられるのである。


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