![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/96889973/rectangle_large_type_2_d40cb25a233ec75f42e0c9744e273c47.png?width=800)
自分を疑うことが予測の精度を上げる。完璧主義を抜け出して人生が楽になる新事実〜『超予測力』フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナーの読書記録〜
この本を読む目的は、「投資に活かす」だった。
完全に予測できないことでも、当たる確率さえ上げられれば、続ければ続けるほど利益を出すことができる。そのためのヒントが得られればと思って読み始めた。
読み終えた後の感想は、「予想以上に多くの収穫を得られた」である。
投資に活用するつもりで読み始めたが、あらゆる物事への考え方にも応用できそうで、自分の価値観としている、穏やかに生きることへももちろん応用できそうだ。
なので忘れないうちに要点をまとめておこうと思う。
科学者は「どんな事実が見つかれば、私は自分が間違っていたと認めるだろうか」という問いに答えられなければならない。答えられなければ、自分の考えにとらわれすぎているサインである。
いわゆる反事実的思考。「もし〜ならば、〜になる」をどれだけ想定できるか。
一流の練習法に、思いつく限りの失敗をイメージして、一つずつ対策しながら全部潰していく。という話があったが、全く同じだと思う。
投資の場合は損切りの重要性の話だと捉えることができる。もし予測が外れた場合、潔く損切りすることがその場合の最善ということが改めて腑に落ちた。
損切りに対するイメージをよくすることができたのは大きな収穫だった。
このことは投資以外でもあらゆる想定外の場面で慌てなくていいことを教えてくれる。
事前に想定外を想定しておけば、想定通りに行動できる。
もし、全く考えてもいなかったことなら、一旦立ち止まって考えればいい。
少なくとも慌てたりパニックになったりする必要はない。
大事な教えとして胸に刻んでおこうと思う。
超予測者にとって、「自らの意見とは死守すべき宝ではなく、検証すべき仮説に過ぎない。」
ここまで考えられるようになったら、ある意味超越者の域だと思う。
自分に固執していない、瞑想やマインドフルネスでいう、自我がなくなっている感覚にかなり近いと思う。
この考え方ができると、自分を守る必要もなくなるので、心理的安全性も自然に出来上がってくると思う。おまけに、自分が正しいかどうか一生懸命考え続けていた今までよりも、思考の幅も深さも段違いに上がっていく。
是非とも身につけたい考え方である。
「間違うことはいいことである」という事実の証拠をたくさん提示してくれる。この本の一番素晴らしいところだと思う。
科学者の確率に対する姿勢は全く違う。
科学者は不確実性を楽しむか、少なくとも受け入れる。なぜなら科学の視点で現実を見ると、確実性は幻想に過ぎないとわかるからだ。
今まで科学を誤解していたことを教えてくれる。
科学のイメージは、新しい事実とか法則がわかったみたいなイメージが強い。
いつでも科学が示す通りになる、科学は世の中の真実のように思っていた。
ところが違っていた。
科学とは確率の話だった。絶対はあり得ない。世の中はそんなに単純じゃない。
変数が多過ぎて確定はできない。
ただし、確率計算はできる。相関係数のように。
だから投資では確率が高い場面で勝負を続ける。負ける時もあるけど、トータルで見たらプラスになるから問題ない。そんな考え方に辿り着く。
多くの人に効果があるからといって、自分に合うかどうかは試してみないとわからない。
このことを感覚として身につけておけば、流行やニュース、口コミや広告といったものに流されることなく、自分で確かめて判断することができる。
これが人のせいにすることなく自分のことは自分で決めて、自分で責任を持つという考え方にもつながっていく。
ただ、いいことばかりではない。注意点もある。
運命論的思考をする人ほど、予測の正確性は低くなる傾向が見られた。裏を返せば、確率論的思考をする人ほど、予測の正確性は高かった。
このように、人生の出来事に意味を見出す能力は、幸福さと性の相関があるが、予測能力とは負の相関がある。(中略)不幸なのは正確な予測能力の代償だろうか?
この答えについて、著者は「わからない。」と書いている。
それぞれが自分自身で考えて答えを出してみようというメッセージにも思える。
どちらが正解かという二元論的な考え方はうまくいかないことが多いという話が、本書でも度々出てくる。
この問題もそうだと予測している。
運命を信じなくても幸せを感じられる考え方は作り出せると仮定して、これからの人生の中で試してみようと思う。
優れた予測に必要な謙虚さとは、自己疑念ではない。自分には才能がない、知能が低い、価値がないといった卑下する感覚ではなく、知的謙虚さである。
つまり現実はどこまでも複雑で、物事をはっきりと理解することがかりにできたとしても、それには不断の努力が必要だ。
だから人間の判断には過ちがつきものだ、という認識である。
劣等感と謙虚さを履き違えていたことに気づいてから、同じ意味の言葉がたくさん目に入ってくるようになった。
何気なく暮らしていると、謙虚さと劣等感の違いを明確に学ぶ機会はそう簡単にやってこない。自分が30年以上誤解したままだったのも仕方ないとも思う。
でもこれからの人には少しでも早く謙虚さと劣等感の違いは知ってほしいと思う。
そうすれば、無駄に自分を責めることなく穏やかに過ごせるようになるはずだから。
それにしても、人は見ようとしているものしか見ていないというのがよく分かる。だからこそ学びや気づきは重要だ。自分にとって大事なものが目の前にあっても、見えないのだから。
間違い認めて学び続ける人。理想とする人格の完成系はこれだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?