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アイルランドの作家 ロード・ダンセイニの親族が目にした19世紀末の日本

皆様、ごきげんよう。弾青娥だんせいがです。

今回の記事では、英国貴族の第7代 ジャージー伯爵と伯爵夫人のマーガレット・チャイルド・ヴィリアーズが19世紀末に目撃した日本を取り上げます。

マーガレット・チャイルド・ヴィリアーズ(1849-1945)
1893年に日本を訪れ、詳細な記録を残しました。

1904年に三女のベアトリスが、アイルランドのファンタジー作家、劇作家、および詩人のロード・ダンセイニ(第18代 ダンセイニ男爵)と結婚したことで、伯爵夫妻はこの男爵の義理の両親としてつながりを持つようになります。

ベアトリス・チャイルド・ヴィリアーズ(1880-1970)

以下の過去記事で、ダンセイニと日本のつながりを解説するなかで、ジャージー伯爵夫妻が見た日本についても部分的に触れました。

ですが、こちらの記事では二人が経験した日本を、ジャージー伯爵夫人がちょうど100年前に出版した執筆したFifty-One Years of Victorian Life(「ヴィクトリア朝に生きた51年」)で日本を取り上げた第14章の翻訳をカットせず披露することで、全面的に紹介してまいります。


ジャージー伯爵夫妻にとっての日本

第7代 ジャージー伯爵(1845-1915)
フルネームはヴィクター・アルバート・ジョージ・チャイルド・ヴィリアーズでした。

ジャージー伯爵は1891年から、当時はイギリス領だったオーストラリアのニューサウスウェールズ州の総督を務めていました。ところが、1893年の初めに諸事情により、その職を辞めざるを得なくなります。船でオーストラリア北部のポート・ダーウィンを発ち、ティモール島(ここで乗船者はコレクター垂涎の郵便切手を購入しました)を経由して、夫妻は香港に到着します。それから広東でも日々を過ごしてから、1893年の4月中頃に神戸へと到着することになります。

※以下、〔〕内の事項は私が追加した説明になります。
※途中に挟んでいる図は、私が参考資料として加えたものです。



日本の風景

美しい内海を通って神戸が迫ってきましたが、その時はあいにく霧のせいであの有名なパノラマを見ることはできませんでした。しかし、すぐに私たちは日本の自然の魅力を眺める機会を十分に頂きました。私たちはいつも静かな家々と人々のことも、そして日本人の武勇ぶりや芸術性のことも聞いていましたが、どういう訳か光景の美しさについては誰からも聞いたことがありませんでした。ゆえに私たちにとってその景色は意外だったのです。

この国に滞在した1か月の間に私たちが見た素晴らしい街、墓、寺院について語ることはやめておきましょう。旅行家や歴史家が何度も説明していますし、それにラフカディオ・ハーンや、日本人のことを詳しく知る人たちがその民族の精神と情熱を的確に記しています。とはいえ、ちょうど訪日の後にThe Nineteenth Century向けに書いた記事から引用して、春の景色の印象をお伝えしましょう。

The Nineteenth Centuryはジェームズ・ノールズ卿が1877年に創刊したイギリスの文芸誌。
マーガレットは雑誌The Nineteenth Centuryの第34巻の199号200号に、
The Transformation of Japanという記事を寄稿しています。 

「日本の光景はまるで心に深く刻まれるべきもののようです。変化に非常に富んでいたという表現では、その趣を完璧には伝えられません。色彩の異なる木々と優美な狭間飾りの間には、草葺き家の屋根と、桃と藤の花で派手な庭に建つ小さな木造の家の整然かつ曲線的な灰色の瓦が姿を現します。その一方で渓谷が、熟していない青トウモロコシの小さな畑や、あちこちに点在する水を湛えた田に、梨の広がった白い枝が仕立てられた東屋の建物と共に、細やかに示されています。いたるところに川の水路や、勢いよく流れる山の細流があります。時折見える、聖なる杉の木々の立つ堂々たる道は寺院、僧院、あるいは墓所にまで続くのです。こうした道よりも荘厳たるものがあるとは考えられません。高くそびえる茜色がかった桃色の木がその房状の頂点を、ある時には70、80フィート〔約21、24メートル〕の高さまで持ち上げます。下の地面にはアセビ、スミレ、シダの花の絨毯が広がり、ドーリョー=サンの神秘的な僧院の近くには、百合の一種や薄紫色と黄色で彩られた白い花弁のアイリスの花の絨毯が広がっています。日光へと続く道は、殆ど途切れることなく15マイル〔約24キロメートル〕を超える距離まで伸びていますが、その地の木々は、偉大なる将軍家康の墓前にて、ありふれた石材や青銅灯篭を捧げられぬほどに財の乏しい大名が捧げるものとして知られているのです」

「ドーリョー=サンの神秘的な僧院」は神奈川県南足柄市にある最乗寺だと思われます。
室町時代の僧、妙覚道了みょうかく どうりょうが同寺の創建に貢献しました。

さて、東京の公使館にて私たちは、大使〔ヒュー・フレイザー〕の不在のため、代理大使であるド・ブンゼン氏(現在のモーリス・ブンゼン卿)から手厚いもてなしを受けました。私たちにとって大変うれしいことに、公使秘書のスプリング・ライス氏(後のセシル・スプリング・ライス卿)が日本の事物に関する自らの知識をもってわざわざ補足説明をしてくださったのです。

ヒュー・フレイザー(1837-1894)
駐日英国大使を1889年から1894年まで務めました。
セシル・スプリング・ライス(1859-1918)
外交官として1892年から翌年10月まで滞日していました。
グスターヴ・ホルスト作曲の「我は汝に誓う、我が祖国よ」の作詞もしました。

1893年4月との日付が記された私の母への手紙にも、数世紀に及ぶ鎖国から姿を現したばかりの、30年ほど前の日本という国の印象がたくさん記されています。

「日本が何と喜ばしい国であるかは想像できないでしょう。とても綺麗なだけでなく、心から関心をそそるものに溢れてもいるのです。日本は玩具の家と人々に溢れた滑稽なところだと思っていました。むしろ堀、狭間胸壁、さらには全長15フィート〔約4.5メートル〕の巨大な石を備えた偉大な領主の城がある地であり、その城全体は武人やその家臣、また幽霊、魔女、魔法にまつわる伝説に満ちています。この国の大名制度が最高潮にあったのは、つい先日までのことでした。ハリー・パークス卿が天皇と、大戦の君主である将軍(大君)を引きずり出したためです。何世紀も国を治めた幕府でしたが、とうとうその権力を譲らねばならなくなったのです。

ハリー・パークス(1828-1885)
幕末から明治初期にかけて駐日英国公使を務めました。

「今も、偉大な大名たちを代表する者は海軍省や陸軍省の長官の地位についています。そしてこの国の国会における問題は、急進的な野党が大名制度を終わらせて政府の支援というパンと魚の奇跡〔イエス・キリストが5つのパンと2匹の魚を分け与えることで5000人の腹を満たさせたという奇跡〕を民衆にもたらすこともできるかということです。一方で、呼び方としてはミカド、あるいは天皇エンペラーが一番相応しいでしょうけれども、こちらの人物が自らの新たな生き方の中で非常に幸せを覚えているのか疑わしく思われます。自らを「西洋文明」に順応させることが正しいと考えているのでしょう。とはいえ、あからさまにも先代のように静かに暮らすことを望んでいますし、世評によれば人との面会を嫌っているそうです。園遊会――観桜会――がこの前の金曜日に行われる予定でしたが、あいにくの大雨のせいで即座に中止となりました。すると、皆は天皇陛下が「お姿を現す」必要がなくなって大変よろこんでいらっしゃるだろうと言ったのでした。

明治天皇(1852-1912)
1890年頃に撮影された明治天皇です。


昭憲皇太后との謁見

昭憲皇太后(1849-1914)
東京女子師範学校の設立、日本赤十字社の発展にも尽力しました。

「しかし、昨日にG〔ジョージの略。ジャージー伯爵のこと〕は天皇に謁見しましたし、私たちは皆、皇后に謁見しました。それは大変面白いものでした。まず私たちの衣装に関して、盛んに話し合いがなされました。Gは正装でしたが、謁見を認める公文書には、婦人はハイガウンを着て午前10時に出席するようにと明確に記されていました。日本語の文字の中には「robes en traine」というフランス語もありました。式部次長の妻――その方は英国婦人なのですが――は私たちがボンネット帽は着用せず裾の長いハイガウンを着るようにと手紙も書いて説明してくださったのです! そこで私たちは私の最新のパリ式のモーニング・フロックでは裾が短くて、M〔モーリス・ブンゼン卿〕の非常に洒落た衣装でも全くもって不釣り合いだと返事を書かねばなりませんでした。

モーリス・ド・ブンゼン(1852-1932)
1891年から3年間、東京で大英帝国の公使館秘書を務めました。

「とはいえ、彼らはこの件を皇后に説明すると約束しました。御殿に着いた私たちが見たのは、金のレースをあしらった服の役人、式部長、式部次長、小姓、正装の婦人たち――婦人たちの正装は午後の衣装のような高級シルクのガウンでしたが客間まで及ぶ同素材の長い裾が付いていました――がその場所に溢れる様子でした。いかにして彼らが過ぎ行く旅人に24時間掲げられる告示を見てもらって特別な服装を用意させられたかについて、私には見当がつきません。ですが、裾のようなものが付いた花の飾られた金襴を持ち合わせていて幸運だったと私は思います。

「大広間は非常に荘厳でした――5年前に建てられたものです――その広間にある日本的なものの全ては一級品でした。欧風の装飾はルイ15世とフランス帝政時代の中間にあるものを思わせるドイツ風の模倣でしたが、それは読者の皆様のご想像に委ねましょう。教育を受けて幸いにも少し英語を話せる小柄な婦人が私たちに対応してくださった一方、Gはとある所へと連れて行かれました。その後、私たちはしばらく、廊下を案内してもらいましたが、そこでGとド・ブンゼン氏に再会し、さらに通路を通り、小部屋に案内してもらいました。そこには、小さな婦人が金色の花の小さな柄をあしらった紫のガウンに身をまとって勲章――日本式のものだと思います――を着用し、背筋をぴんと伸ばして立っていました。彼女の右側には通訳の女性がいて、後ろの方には恐らく位の高い女中が複数名いました。通訳の女性は生き生きとしているようでした。他の人たちからは、猫をかぶって快活なそぶりをしている印象を受けました。私たちは皆お辞儀をし、カーテシーをしました。すると皇后のもとに近寄るようにと言われましたので、私は向かいました。彼女がどこにも行かないほどに私が近くにいた時、私と握手を交わし、囁きに近いような声で何かを言いました。その内容は、お会いできて大変うれしいですとのことでした。私がしかるべき喜びを示すと、どれほど私たちが滞在しているかを尋ね、ついには園遊会の延期について大変申し訳なく思っていると述べました。そのことに対して、私たちを迎え入れて下さった際に皇后はご親切にもその失望に対して返礼して下さりましたと、東洋式の誇張法をもって返事をしました。このことには喜んだようで、再び握手をしたのです。それからMとGにちょっとしたお決まりの表現の挨拶をなさいました。Mには一文ほどの言葉を、Gには二文ほどの言葉を交わされました。その後に何度もお辞儀とカーテシーをして私たちは部屋を出ると、他の部屋へと案内されました。皇后が今回の引見のことで嬉しかったと聞いたので、素直に喜ぶお方なのでしょう、嗚呼。「情報筋」から、皇后が素晴らしい女性で、少なからず一度は一年間の自分のなけなしのお金を寄付しては無一文となるほどに学校と病院のために大いに貢献した人物であると私は聞いています。可哀想なことに皇后に子女はいませんが、天皇は他に側室を10人まで――一般に認められた地位はありません――有することを認められています。天皇に何人の女官がいるのかを私は存じ上げませんが、1人の小さな男の子と2、3人の女の子をもうけています。その少年は13歳で私立通学学校に通っていて、父親よりもはるかに社交的な性格になることを期待されています」

後の大正天皇である皇太子・嘉仁親王(1879-1926)
1892年、13歳の時に撮影された写真です。


天照大御神の神鏡

当の少年は今や天皇ですが、あいにく健康面の衰えが見えています。式部次長の妻である三宮夫人(後に男爵夫人になります)は彼が非常に聡明であり、日本のならわしに沿って彼を養子にした皇后には彼の事が気に入っていると語りました。従位の妻女が皇居に従事していることも話してくれましたが、その母親たちのどの者が皇太子あるいは皇女たちの親であるか広く知られていませんでした。三宮夫人は個人的に誰がそうであるかを知っていたものの、その子どもたちは天皇と皇后の親類として考えなければならず、その母親の個々人は一般に認められる資格をその子どもたちに対して有していませんでした。この東洋の「婦人室」の設置はもはや存在しないと私は思いますが、一方でそれによって太陽の女神から途切れぬ天皇家の支配者たる血統を確固なものにさせたのです。現在の天皇が、神聖な剣、玉あるいは宝玉、女神が自らの子孫を授けるのに用いた鏡を今なお所有していると私たちは確信しました。その鏡は日本の正統な信仰である神道の象徴であり、その神聖性はその鏡が太陽の女神を、他の神との争いの後にひどく憤慨して隠れた洞窟から呼び寄せるべく使われたという出来事に由来しています。実際には先史時代の日照計として機能していたようです。雄鶏の鳴き声とその鏡の閃光によって、天照大神てんしょうだいじんに夜が明けたと思わせ、そして再び女神の光で森羅万象を照らすように促したのです。

三宮義胤(1844-1905)
ジャージー伯爵夫人が述べた通り、夫人は英国人(アレシーア・レイノア(1846-1919))です。

古代より続いた先祖代々の宗教である神道は、天皇が長きにわたる隠遁から脱した際に再建されました。というものの、民の多くは、より非抽象的でかつ儀式主義的な中国と日本の仏教を間違いなく好んでいます。教養のある階級では実際に何が信じられているかは、大変はっきりさせにくいです。日曜日のオスタリー〔敷地内にチャイルド家の邸宅が建っている〕で、とある人あたりの良い外交筋の日本人女性が礼拝出席に関連して「宗教があるのは非常に素晴らしいに違いありません」と私に言いました。林子爵は私の問いへの返答として、一般国民に広まった信条を「仏教の宗教的拘束力を有した孔子の道徳」と要約しました。恐らくその要約が、最も分かりやすいものでしょう。

林董(1850-1913)
1902年の日英同盟の調印の功績で子爵に昇叙されました。

政府が払われるべき尊敬をもって待遇をしたとはいえ、キリスト教が確固たる進展を果たしたかは疑わしく思えます。日本人は戦争と平和の双方における規律を調査するという指示の下に、使者を様々な西洋の列強に派遣していました。その際、マックス・ミュラー氏によると、この使者のうちの2名が自らのもとを訪ねて自分たちに相応しい宗教を提供するように頼んできたそうです。ミュラー氏は「彼らには、『まずは良き仏教徒であることです、そうすればあなた方のために考えましょう』と話しました」と言いました。長く日本に住んでいた英国の女性は、ありふれた宗教信仰への日本人の見方に少し詳らかな説明をしました。日本がその顔を西方に向け始めるために海外の指導者たちが雇われた頃、とあるドイツ人が、間違いなく「robes montantes en traine」も含んだ、皇居におけるエチケットを教えるべく採用されたのです。とある皇居の役人はこの業務に就きながらもそのドイツ人に皇居の洗礼の完全な儀礼の代行を務めるよう求めました。そのドイツ人は振り返り、「ですが、あなたがたはクリスチャンではありませんから、どのように洗礼式の準備をなせますでしょうか」と尋ねます。返答は次の通りでした。「お気になさらず。今あなたがここにいるのですからそれをご教示願いたいのです。いつ必要になるか私たちには知る由もありませんから」

フリードリヒ・マックス・ミュラー(1823-1900)
東洋学者や仏教学者として名声を得ました。


日本におけるキリスト教

聖フランシスコ・ザビエルは16世紀に日本人にキリスト教の伝道に努めましたが、彼とゴアで出会って改宗した日本人書記は聖なる宣教師たる自分が日本の人々にもたらしたとされる影響について、証言を記録しています。薩摩のアンジロー曰く、「臣民は、これから言われることに対してすぐに同意しないでしょう。しかし、彼らは多数の質問によって、とりわけ私の行ないが私の言葉と合致しているかを見ることによって、宗教について私が断言していることを調べるでしょう。これがなされれば、王、貴族、大人の者たちはイエス様のもとに群がることでしょうし、国家は指導者としての理性に常に従う国となるでしょう」とのことです。

フランシスコ・ザビエルの通訳を務めたのはヤジロー(アンジロー)という人物でした。

理性あるいは戒めによって納得させようとも、当時の日本人の多くがキリスト教を受け入れたことと、多くの人々が後に猛威を振るったおぞましい迫害の中でも信念を曲げなかったことは確かです。しかしそれでも、キリスト教の信仰は17世紀の初めにほぼ完全に根絶され、19世紀の後半に使節団に向けて再び開国がなされた頃には、それの残っていた跡はほんのわずかしか見出せません。

現在、残念なことにも日本人の見方ではキリスト教は諸外国の政治手腕にあまり影響を及ぼしていないようです。さらには、西洋と競い合っている彼らの先導者的な人々は、物質的な方面で邁進するのにあまりにも熱心であるがゆえに観念主義に関してさほど悩まないようです。にもかかわらず、精神界での信念が、寺院を頻繁に訪れて楽しい巡礼の旅に参加しているように私たちの目に映る人々の間で明らかに広がっています。

社会的かつ政治的な点から見て、私たちの訪問における大きな利益とは、忠義に厚く騎士道的な過去から、本質において現代的でありながらも英雄的な未来への過渡期にある、慎重かつ断固とした国家において才知が鋭く活発な精神の持ち主である民族を発見したことです。当時は、中国との間でも、また現在で言うところのソ連との間でも、戦争は勃発していませんでした。しかし、双方の出来事における勝利を確固たるものにする基礎が整えられていました。大名たちは自らの土地を天皇に明け渡し、お返しに貴族という現代の肩書と、彼らの以前の歳入をもとに計算された収入を受け取りました。百姓たちは年貢の代わりに、自らの以前からの保有地を担保として保証されていました。自ずとすべてが不満なく収まることはありませんでした。特に農民たちは、そうでした。他の国でも同様のことですが、彼らはいかなる革命も単純封土権のもとでその土地を有することに帰するべきだと考えています。しかしながら多くの水が日本の聖なる橋の下を、私たちがその国にいた時から流れていますし、新しき日本の政治家たちが対処せねばならなかった、または対処せねばならぬ農地やその他の込み入った事情には踏み入れないでおきましょう。


古の日本の大名たち

とはいえ、私たちのように、その国でほんのわずかな間だけ過ごした人々にさえも明白なことが1つあります。より若い貴族たちは自らの封建制の名声を捨てることによって、多くの面で失ったものがあった一方で、より多くのものを得たのです。こうした人々の父親は、フランスの貴族のルイ14世に対する従順さを超える態度で将軍に従っていました。徳川家の3代目は17世紀に生きた人物でしたが、彼は大名たちが一年の半分を江戸(現在の東京)で過ごさねばならないということを法令として布告しました。さらに自らの地所に戻ることが許される時でさえ人質として首都に妻や家族を残すように義務付けられることも布告しました。山道は厳重に監視され、山道を通過する人は誰もが厳重にチェックを受け、将軍の領地を許可なく去るような者にははりつけの刑が行われるのでした。その主要な道のふもとにある美しい芦ノ湖の湖岸では、その大名たちが旅の途中で休んだ別荘が今も目立っていました。そして私たちは、隣町が以前は髪結いの多く住む地であったと聞かされました。箱根の関所を越える前に髪を降ろすことを強いられた女性の髪型を、彼らはちゃんと元通りにしなければなりませんでした。実際、大名たちは大きな藩を有しながら生活して旅を行ない、家来たちから成る軍を有していました。が、少なからず一人の偉大な貴族は、存分に享受している自らの自由が、失われた往年の栄光の代わりとなったと私に打ち明けています。

日本人と外交官の双方が私たちを厚くもてなしてくれたおかげで、香港で「デビューした」私の娘〔長女のマーガレット〕は東京で短いながらも快活な季節を過ごしました。それから他の祝祭の中でも、私たちは天皇の式部長官である鍋島侯爵が開いた舞踏会を心行くまで楽しみました。

鍋島直大(1846-1921)
日本の近代化に貢献し、1884年に侯爵に列しました。

通称「日本のアーヴィング」である俳優、ダンジョーロー〔9代目 市川團十郎〕が主要な役の1つを演ずるのも観ることができ、私たちは幸運でした。劇場の床は、観客の男性、女性、子どもが膝を折る小さな正方形の仕切り席に分けられていました。建物の正門から舞台まで幾分か床よりも上に持ち上がった通路が延びています。これは花道と呼ばれ、両側の仕切り席にまで着く手段のみならず、主要な俳優たちの何名かが舞台上で扇情的な登場をする時も、入口としても役目を果たしていました。大きな天井桟敷はパルテール〔装飾的な花壇〕のように分けられ、建物の三方に広がって外の雛壇式の桟敷につながっていました。天井桟敷にて席につくヨーロッパの観衆には椅子が設けられていました。

ヘンリー・アーヴィング(1838-1905)
19世紀の英国演劇界を代表する俳優でした。

日本の舞台が英国のものと異なる特色は主に、前者の中心部全体が円形でその軸を中心に回転するということでした。単純ながら正確に描かれた背景は、反転可能な部分を差し渡しにして移動しました。そのため、風景の描かれた背景は観客の前にある一方、もう1つの背景が後ろに用意されていて、必要な時に旋回するようになっていました。脇の障害物や場面推移の間じゅうに取り去らなければならない物を除去するため、顔に黒いベールを被った小さな黒ずくめの人たちが宗教裁判所の使いの精のように現われるのですが、日本人の礼儀正しさが彼らを見えない存在であるということにしていたのです。

黒衣のことを指していると推察されます。歌川国芳の役者絵より。

ダンジョーローは悪役の年男を演ずるなかで、自らの評判に相応しい存在であることを証明していました。仲間によるサポートも見事でした。全ての役柄は男性によって演じられていました。当時、女性によって演じられる演目もありましたが、男女が一緒に舞台に上がるのはその頃、慣例的ではありませんでした。今ではその障壁が崩れて男女が自由に演ずるようになっていると、私は思っています。

市川團十郎(1838-1903)
The Nineteenth Century 200号の寄稿によると、伯爵夫妻が観たのは、
「曽我兄弟の仇討ち(The Vendetta of Soga Brothers)」でした。

私たちがクラブで日本式のディナーを頂いた時、人柄のよい小さなウェイトレスたちがコース料理の合間に演劇を披露しました。

日本人が緊急の事態に迅速な対応をとれるというのは明らかです。位の高いとある日本人がかつて、昇りゆく太陽ライジング・サンがいかにして国旗になったかを私に話してくれました。日本の船がアメリカの港に到着すると、港の当局は日本がどのような旗のもとで航行しているのかを教えるように要求しました。この出来事は日本が自由に他の国との自由な商業関係に入る前のことでした。船長は国旗のことを知りませんでした。他の航海士たちに先を越されぬように、その船長は大きな白いリネン生地を留めて、それに大きな赤い丸を塗ったのです。日本の国旗として提案されると、これが認められ、今もなお商業船の旗となっています。その円形からは光が出ていますが、その旗は戦艦の旗になり、また赤い地面に咲く金色の菊の花のように天皇旗における昇りゆく太陽を示しています。ロンドンの正餐会でその話をしてくださった方がいるのですが、その方によると、その着想は商人の船長の物資準備が整っていたがゆえに生まれた話だそうです。

いかなる変化を日本が経験しようとも、この国は、ギリシア以外の国では見ることのなかった繊細な色彩と共に、純粋で透き通ったその空気をこれからも間違いなく保ち続けることでしょう。身体的特徴は異にしますが、いくつかの点で日本人は、機転が利き、芸術を愛するギリシア人を彷彿とさせます。改めて言いますが、日本には美しい湖沼や山々に加えて豊かな草木があるので、ニュージーランドとの共通点があります。そして幸せなその島国のように日本でも贅沢にも自然の温泉を満喫できるのです。宮ノ下のホテルのことを忘れることは無いでしょう。その1階の大浴室では、建物のちょうど後方の丘の泉から直に竹の管づたいに、湯も冷水もたくさん使うことができました。

1891年から1900年の間に撮影された宮ノ下の富士屋ホテル。
ジャージー伯爵夫人が言及したのはここのことなのでしょうか。


日本の友人たち

私は今も大変はっきりと東京での楽しい旅に大きく貢献して下さった日本人のことを覚えています。その中の1人には井上夫人がいます。井上侯爵として知られる夫は、この頃からロンドン駐在大使でした。井上侯爵夫人は今も真の友人で、島国から知らせを絶えず送ってくれます。そして何年間も日本で活動した宣教師で、同国の英国大使館の礼拝堂牧師でもある、私のいとこのライオネル・チャモレー師による案内の下でたくさんの事物を見たことも忘れないでしょう。

井上勝之助(1861-1929)
時間軸にズレはありますが、1913年から1916年まで英国に赴任しました。
上記で言及された「井上侯爵」はこちらの人物のことだと思われます。
明治時代の父島。ライオネル・チャモレーは小笠原諸島の歴史を、
初めて英語でまとめた書籍を発表しました。この人物の滞日時の日記は、
『英国人宣教師 ライオネル・チャモレー師の日記』として刊行されています。



最後に

上掲の文のようにジャージー伯爵夫人は、訪日のこともつづった第14章を締めくくりました。第15章の冒頭には「日本での滞在は短すぎましたが、5月12日に横浜から船で日本を出発しました」というような内容が記されています。

1922年の著書Fifty-One Years of Victorian Lifeでは、神戸を除くと、東京とその周辺が主な言及対象となっています。一方、日本を訪れた同年の1893年に執筆されたThe Transformation of Japanには大阪、京都にも触れているので、こちらに紹介しましょう。

1910年に撮影された大阪城。

大阪の城の巨大な石垣は、それを目にする人に幾度も起こった戦や攻囲のことを物語ってくれます。この丘の下に位置する、人口の多い都の川という川、運河という運河、橋という橋はアムステルダムを思わせます。この都は、今日こんにちの商業の繁盛ぶりを見せています。

The Transformation of Japan
The Nineteenth Century No. 199 Vol. XXXIV 370ページ
1890年頃の二条城

桜の季節を迎えた旧都である京都は、東洋の衣装を身にまとって蘇ったアルカディア〔古代ギリシアの景勝地〕のようなところです。……

二条城には、将軍が京都に足を運ぶべく首都の東京から移り住みました。この建築物は壮麗な芸術を見せてくれます。精巧に彫刻と彩色が施された入り口から、主要な建物の中に入ります。すると、それぞれの一室が互いに争うかのように、仕上がりの完璧さを見せて目を喜ばせ、まばゆい色彩をもって目をくらませます。日本式の家屋の壁をなす襖絵には、黄金色の背景に鳥、動物、木々がはっきり見えるように描かれています。日本の高級な木製家具は豪華な枠組みのつなぎ目から、釘が見えないようにしています。そのつなぎ目は、最高級の金箔をともなった金属細工で覆われています。また、格間で飾られ、絢爛たる絵画の見える天井もあり、完全なものになっているのです。京都におけるミカドの宮殿は広々として趣向をまんべんなく凝らしているなかで、完璧な状態にある一方、ミカドの高慢な臣下の宮殿と比べるとまさに質素です。……

The Transformation of Japan
The Nineteenth Century No. 199 Vol. XXXIV 369-371ページ

ちなみにですが、ジャージー伯爵夫人は少女時代に、武士装束をまとって二本の刀を身に着けていた「最初の遣英使節団」も目にしていました。文久慶応使節長州五傑、または薩摩藩遣英使節団のことでしょうか――こちらも気になる逸話ではありますが、特定できる資料を見つけられれば、この件についてのアップデートを行いたく思います。

上述してきたように、ジャージー伯爵夫人は日本との関わりを数々有していました。その関わりのどれほどが娘婿にあたるダンセイニに伝わったかを推測するのは困難ですが、日本のダンセイニファンとして、このファンタジー作家が伯爵夫人の著作を読んでいたことを望みたいところです。(ジャージー伯爵夫妻は歌舞伎という本物の日本の舞台演劇を目にした一方、ダンセイニはロンドンの劇場で「おお、ヨー=サン! ハイ!」というセリフも飛び出るトンデモ「日本」の演劇を見ています。こうした演劇方面での会話があったことも望みたいです。)

今回はこれにて以上です。興味深い記事となっていましたら光栄な限りです! お読みになった皆様に感謝申し上げます。




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