アイルランドの貴族作家が見たトンデモ「日本」
皆様、ごきげんよう。ファンタジー作家のロード・ダンセイニが日本文化から受けた影響について、研究を続けている弾青娥です。
私のペンネームである弾青娥は、ダンセイニの名をもじったものです。このダンセイニは、15世紀からの歴史を有するアイルランドの貴族の第18代男爵で、6フィート4センチ(約1.9メートル)の長身を誇りました。今回の記事では、若い頃から東洋趣味を有していた、この長躯の男爵が20世紀初頭に観た戯曲に、フォーカスを当てます。
(注:研究者名、翻訳者名に言及する際、敬称略とさせていただきます。)
ダンセイニの見た「日本」とその正体
ダンセイニは創作神話のパイオニア的作品『ペガーナの神々』(1905年)で文壇にデビューします。その1、2年前に、ロンドンのヒズ・マジェスティーズ劇場(現在はハー・マジェスティーズ劇場)で「日本」を舞台にした劇を目にします。この時の感想を、1938年発表の自伝Patches of Sunlightでこう書き綴っています。
文筆家として世に出る前のダンセイニは観劇を通じて「大いなる刺激」を受けました。その作品は、小説家ジョン・ルーサー・ロングと、劇作家および舞台演出家デイヴィッド・ベラスコがタッグを組み完成させたThe Darling of the Godsという五幕物のメロドラマです(長さは3時間半でした)。
1902年11月にワシントンで初演を迎えた後、ニューヨークのベラスコ・シアターで190回近くも上演されて大ヒットを記録しました。1903年12月末にはロンドンでも初上演され、翌年の5月末までのロングランとなって成功を収めています。(アメリカの新聞The Clarksburg Daily Telegramの広告によれば、1907年の時点でベラスコ・シアターで500回、ヒズ・マジェスティーズ・シアターで300回、オーストラリアで180回は上演されたようです。)
さて、ロンドンでお披露目されたThe Darling of the Godsに対するダンセイニの前述の評から判断すると、この戯曲は正確に日本を描写したものだと思えるでしょう。が、ここで舞台写真をご覧ください。
カバー画像に用いた写真から、既に察した方もいらっしゃることでしょう。舞台写真をご覧になってすぐ、The Darling of the Godsがトンデモ「日本」の戯曲だと確信できたと思います。それも、この現代に上演すれば批判が飛んでしまいそうな戯曲です。とはいえ、文壇に躍り出る前のダンセイニが見た「日本」の正体を、はっきりさせてまいりましょう。
トンデモ「日本」 ~設定・人物・演出~
この戯曲のあらすじは、以下のようになります。
時は、1876年頃の明治時代。「廃刀令」に加え、トーサン国と結託した朝廷軍の勢力によって、ミカドに刃向かうサムライたちが駆逐されていく。しかし、トーサン国の王子の娘がチョース国のサムライたちの首領と恋に落ちる。ミカドの手先たちが最後のサムライたちを容赦なく追い込むなかで、果たして二人の恋の行方は……?
トーサン(Tosan)とチョース(Chosu)は土佐と長州から名付けられたと推察されます。都留文科大学の中地幸による先行研究では、『忠臣蔵』や『曾我兄弟の仇討ち』がモデルになったと分析されています。ひょっとすると、戊辰戦争や西南戦争のような実際の出来事も参考にされたかもしれません。では次に、主な登場人物の紹介に移ります。
ヨー=サン(トーサン国の王子の娘。ヒロイン)
ザックリ(朝廷軍長官。悪役)
サイゴン(トーサン国の王子)
トンダ=タンジ(ザックリの甥)
カラ(サムライたちの長)
バンザ(サムライの生き残り)
ナゴヤ(サムライの生き残り)
イヌ(ヨー=サンの従者)
演じた全俳優は欧米人でしたが、『蝶々夫人』と違って西洋人の登場人物が一名もいません。クセあり人名の大渋滞でありますが、バンザとナゴヤの名については日本の芝居の影響が指摘されています――1899年にアメリカ巡演をした川上音二郎の演目『芸者と武士』には、不破伴左衛門、名古屋山三元春という人物が登場しています。(参考文献:多和田真太良「ハラキリ」のエキゾチシズム ―舞台における日本の表象―)
それでは内容の一部を、2018年に拙訳した『かんなぎの戀』から紹介したく思います。何度も雷鳴が響く夜に、カエデという人物が発したセリフです。
こちらがこの戯曲の最初のセリフになります。「訳文、ふざけすぎてない?」と思われてはいけませんので、原文を紹介いたしましょう。
日本語ネイティブには、日本語フレーズがコメディーチックに挿入されているようにしか思えません(ご注意を――この劇は喜劇ではなく悲劇です)。
もう一例だけ紹介するなら、次のやり取りを引用しましょう。ヒロインのヨー=サン、そのお手伝いのセツ、遊女のロージー・スカイの会話です。
原文では「万の神」はGods、「シャカ」はShakaとなっています。日本の宗教事情を踏まえているのが推察されます。しかしながら、「オー・マイ・ゴッド」と似たような感覚で釈迦の名を叫ぶのは、「ブッダ!」との文言が出てくる『ニンジャスレイヤー』を彷彿とさせます。
ダンセイニの見た舞台上の「日本」が、実際の日本とかけ離れたトンデモ「日本」だったと、皆様のご理解が進んだかと思います(しかも、劇の幕が開くと、のっけから鎌倉の大仏らしき仏像と鳥居が現れました)。
けれども、さすがは舞台照明の先駆者でもあるデイヴィッド・ベラスコが携わった作品なだけあって、印象的な演出がなされていました。例えば、ザックリがヨー=サンに、地下の部屋で拷問を受けるカラを見せる場面です。
こちらの演出は、アメリカでなされたものです。イギリスでザックリを演じた俳優兼劇場監督のビアボーム・トリーは、配電盤の細やかな操作に対する指示の書かれた原稿をベラスコから送ってもらったとカーテン・スピーチで語っています。
ゆえにダンセイニも、アメリカで披露された同様の演出を目にしたことでしょう。これ以外にも心を揺さぶる演出が施されたシーンはあります。その例の一つは、死者たちの魂が地獄でさまよう場面(以下の挿入図参照)です。
一方で音楽は、劇伴音楽のスペシャリストであるウィリアム・ファーストに手掛けられました。舞台上には琵琶、三味線、琴、鼓、笛があるのも見えたものの、実際の観客に聞こえた音色はギター、マンドリン、ハープ、ドラム、フルートのそれだったようです。
The Darling of the Godsは、当時そして現代の日本人から見れば奇妙に映るものが多いこと間違いなしです。しかしながら、日本の事情を詳しく知るには相当な困難が伴った20世紀初頭の欧米人の多くは、この劇を通じて、謎に満ちた「日本」の残虐さと幻想的な美を目に焼き付けました。
「日本」を見たダンセイニのその後
はっきりした時期は不明ですが、ダンセイニはヒズ・マジェスティーズ・シアターで開かれたオークションでThe Darling of the Godsの背景セットを購入しました(自伝で明かしています。「さすが貴族の財力!」と言うべきでしょうか)。ダブリン近郊の広大なダンセイニ城のどこかに今も保管されていると思われます。
ダンセイニは観劇から約5年後の1909年、アイルランドを代表する詩人W・B・イェイツの助言で戯曲家としてもデビューを果たし、それ以後にも戯曲を多く発表します。その作品群は1910年代のアメリカにおいて小劇場運動の助力となり、第一次世界大戦の影響で衰えを見せていた豪勢なメロドラマのブームにとどめを刺すことになります。
それでも、The Darling of the Godsは上演され続け、またメディアの話題になり続けます。その話や、本国のアメリカでの受容の詳細については、のちのち発表したく思います。
いかがでしたでしょうか? ダンセイニの見た「日本」の正体――西洋人がイメージに抱く、美しくも残酷な、幻想の「日本」――を部分的に紹介いたしましたが、興味をそそる内容となっていましたら嬉しいです。では、The Darling of the Godsで出て来た日本語フレーズを使いながら、いったんお別れしましょう。サヨーナラバ!
なお、The Darling of the Godsを観た著名な人物については、次の記事で一通りまとめております。よろしければ、こちらもご覧ください。
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