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怖い時、好きなものは絶対離さない、これが大事でしょう

「ポケットの中で静かにしている芋を握って、落ち着こう。怖い時、好きなものは絶対離さない、これが大事でしょう」(本書159ページ)

暗闇の中であてのない男に抱かれながら、背中にぎゅっとしがみつく。その時、広大な海に漂う難破船みたいな気持ちになる。だからだろうか。怖い。怖い。怖い時、好きなものは絶対離さない、これが大事だ。


※※※

稲田万里著『全部を賭けない恋がはじまれば』を読んだ。

まず、行為を先にする。まず、試みる。
それが人間の自然ななりわいであるように。
こころはそのへんを漂っている。
その視界は驚くほどクリア。彼女は本当の自分を助手席に乗せているのではないか。

自分の望む世界を遠くに見ながら「これがお前の生きている現実なのだ」を受け入れながら、前に進むためにはそれしかないと信じるように身体を重ねる。それは入口から何か間違っているような袋小路で、入口が間違っているのだから出口もない。出ても、きっと間違っている。目の前にあるのは、いつも持て余した性だ。「何か違うんだよな」が大半を占めていたりするのに、なぜここまで求めてしまうのか。「魅惑の」というには、あまりにも甘くなくて、ときにかなしくて、ときに寂しくて、ときに滑稽でバカらしい。だけど肉、それを通じてしか味わえない人間の世界がある。肉体と心が交わるように見える場所でしか。

家族の犠牲になりながら一生懸命大人になって、自分でお金を稼ぐようになって、そうして彼女が学んだものは何だろう。彼女が欲しいのは「たくさんの男とした」という見栄ではないように思う。

彼女は、少しの世界への信頼が欲しくて、自分へのなぐさめが欲しくて、今日も性を求めているように、わたしには見えた。性。それは生の一部であり、生そのものでもある。生命を繋げ、生命を励まし、生命を愛でる性。肉体を愛でることは、生命を愛でることなのかもしれないとすら思える。

その姿は、幼少期の鬱積を晴らすという単純なものではない。

実際、わたし達は世界を愛し、不満があればそれを変える方法をあまり知らない。否、誰でも朝になったら何か変わっているかもしれないと思うことはあるだろう。時間は、生きびとのためにある。
だけど、生き急ぐわたしたちは、そんな不確かなものに委ねていられなかったりする。朝になっても何も変わらないことの方が多いのだ。


そして、どうしようもなく、突き動かされてしまう。
からだのやり場に困る。こころのやり場に困る。性欲。
生きていくために、どうしても必要なものだから。

人の食い物にはなりたくないものだ。水は器にしたがうものだ。気の向くままにエッチをしてみれば、世界は少し変わるかもしれない。そんな身勝手な人間同士のたくらみを通じた、しなやかな彼女の世界。

彼女は「同じ日は永遠には続かず、自分だけがここにい続けることの不安を抱え、私も何かから飛ぶ日が来ることを願いたい」(本書90ページ)という。私も何かから飛べるかもしれない。一瞬でも、どこかに飛べるかもしれない。
どこに飛ぶのかはわからないから、とりあえず飛ぶことを選ぶ。ここではないどこかに行けることだけは確かだから。それは自分が前に進んだわかりやすい軌跡となるだろう。

だけどそうそううまくはいかない。ずっとずっとトライアンドエラー。そしてなぜか、悲しい中にもエラーであることの安堵感がある。今回もエラーでよかった。それはまた次への原動力になるから。まだまだこんなところでとどまってなどいられないから。

それでも、最低よりはいくらかマシなはずだ。

※※※

彼女(の目線)は大体、相手の助手席に座っている。助手席にもハンドルがある。相手が気づいていないところで、一時の気まずさをなかったことにしようという優しさとたくましさがある。

太宰治『二十世紀旗手』に、こんな一節がある。

もののみごとにだまされ給え。人、七度の七十倍ほどだまされてからでなければ、まことの愛の微光をさぐり当て得ぬ。嘘、わが身に快く、充分に美しく、たのしく、しずかに差し出された美事のデッシュ、果実山盛り、だまって受けとり、たのしみ給え。世の中、すこしでも賑やかなほうがいいのだ。知っているだろう?


世の中、すこしでも賑やかな方がいいのだ。知っているだろう?と、言わんばかり。
彼女は騙されてあげている。いや、どうでもいいのかもしれない。


※※※

彼女が性に積極的でありながら読む者に清らかさを感じさせるのは、「見たままを書く」ことに、偽りがないところにあると思う。むやみに人を警戒しない。もったいぶった嫌味や、用心深さや、恨み言がない。傷口を舐め合って癒されたいという粘っこい依存心がない。

自身の暗闇をヘッドフォンで遮断しているようだ。そうしなければ、深く暗い心の底から静かに時を刻むメトロノームだけが自分の中に響く。ただ時が経つのを静観するのは怖いものだ。できれば、その音は相手にも聞かせたくない。ヘッドフォンをして、束の間でも賑やかな音楽を聴いていたい。そんな時もある。

過剰な自己憐憫がないところに、彼女が助手席に乗っている感じがするのだけど、2箇所だけ彼女自身が運転席で自身で運転していると感じたところがあった。それは姉に「嫌な時は逃げていいよ」と言った時と、初体験の「19歳、大変だったろう」の言葉。

この2つはたくさんのトンデモ体験が切磋琢磨された中でも磨かれて、彼女の心の声が切実な光を放っているように思える。彼女にとっての原点になるのだろうか。

傷ついた彼女自身と、彼女のお姉さんのために思わず口をついて出た、彼女の心からの言葉だ。


※※※

「全部を賭けない」、それは自身や読者への気遣いでもあり、「まだまだ私は全てを出し切っていませんよ」という余裕にも感じる。世界はいつ壊れるかわからないから、保険をかけておかなければならないのだ。恋をするたびにじゃがいもやメロンのようにカチ割れていたら身がもたない。

だけど、彼女には芯がある。それは、世の中いわゆる幸福や希望、真理、正義、理想なんかはたまにほんとに役に立たないし、彼女自身毒を薄める力はないことはわかっていても、切磋琢磨し磨かれた願いはたとえ幻であっても、彼女自身がそれを大切に大切に持っているということだ。

それは、家族の平和と引き換えに暗闇でぎゅっと握ったじゃがいもだ。

自分の経験から、強烈な願いは、価値観が打ち砕かれて、あまりの屈辱に身体中からマグマが噴き出るような時に起こると感じている。その無力さはやがて怒りになって、自分への強烈な嫌悪を引き起こしたりする。記憶は遡れるけれど、人は風景は戻らない。でも、その嫌悪を彼女は自分でいつのまにか許している。無感動にはならない。すいも甘いも噛み分けた苦労人などになるもんか。行くところはどこにもなくても、ここから飛ぶことができなくても、目の前にある身体を味わいながら、心の中にぎゅっと大切なじゃがいもを握っているのだ。

「怖い時、好きなものは絶対離さない、これが大事でしょう?」

割れなかったじゃがいもは、いったんは崩れ、破壊された状況下でなんとか生き延びるためのお守りみたいだった。
人は人を生贄として生きる。その存在は時に木の葉のように軽く、小石のように小さい。だけど、それが巡り巡って、誰かを救ったりする。

本書第六章「一周」からは、生命が循環するものでありますように、という願いが感じられた。

本の中の助手席の彼女は、大切なものを握りながら、どこかへ飛び立つ日を待ちながら、そして今日も目の前の身体を堪能して、とりあえず行為に及ぼうと試みるのだろう。
ひとりを感じても、ひとりじゃないふりをしながら。

幸い、堪能すべき肉体は世界にまだたくさんある。


(了)

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