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~ある女の子の被爆体験記33/50~ 現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。“「原爆の成果を収集せよ」投下国からの調査団 :日本の原爆研究発表は禁止”

アメリカの調査団の到着

現代に生きる私たちは、原子爆弾が落ちて廃墟となった広島と長崎には、何が残ったと、想像するだろうか。被爆者にとっては、死体、灰、痛み、今を生きるという過酷な生活だけだったかもしれない。
しかしその頃、命令を受け、廃墟の被爆地へ、原爆の成果を集めに来たいと画策する人々がいた。アメリカからの調査団である。それは日本への降伏文書が編集されている頃、GHQ (General Headquarters)外科医長のBrig.Gen.Guy B.Denitにより原爆投下の被害調査研究の指揮が行われていた。
1945年8月28日に米国太平洋陸軍医療隊のAshley.W.Oughterson大佐によって原爆の被害調査を目的とする現地調査団の渡日が発案され、GHQ (General Headquarters)外科医長のGuy B. Denit准将の指揮のもと、同年9月1日に横浜へ上陸した。9月3日に日本帝国政府と連絡を取り、日本が得ていた原爆の被害のレポートを提出させている。
マンハッタン管理区(原爆開発を管理した陸軍工兵隊の部隊)からも、Brig.Gen.Guy B.Denit外科医長の命令のもと、日本へ調査団が派遣されることになった。Thomas Farrell准将は9月初旬、日本に到着した。調査は短期間の予定で、すぐにワシントンへもどり、大統領へ直接報告するというものだった。

まず、調査を行う軍隊の安全を確保するために、Stafford L. Warren大佐の任務は、被爆した町に残った放射線量を測定することだった。その後、隊員たちが、原子爆弾の起こした医学的影響を簡単にまとめる期間を日本に留まり、それをワシントンの大統領へ報告する計画である。9月4日、Thomas Farrell准将とGHQの外科医長の事務所とで話し合いがもたれ、原子爆弾の効果についての研究は、各調査団を統一して行うことが望ましいと協議されていた。

機雷の瀬戸内海、被爆地に行く方法


 問題は、どうやって広島や長崎まで行くかという事だった。鉄道も空路も途絶えていた。唯一、長崎へは船で行ける可能性があった。一方で、広島へ船で行くことは不可能と考えられた。広島へ向かうために通らなければならない瀬戸内海は、B29が落とした無数の機雷の眠る海となっていたからである。この問題を解決したのは、調査団の進路の安全確保のために日本警察による保護を天皇が要請したことによる。同時にこの時、日本側の調査団の代表であった東京帝国大学の都築正男教授がGHQとの連絡の役目を担う事となった。
 最初の調査グループは9月8日に広島へ入り翌日長崎へ着いた。主となる調査団は、9月19日に長崎へと入り、そこに次の調査団が9月29日に加わった。この頃、広島で2000人以上の死者行方不明者を出した大型の台風、枕崎台風の影響のため、そのほかのアメリカの調査団は10月12日まで広島に着くことが出来なかった。

 第3のアメリカの調査団の存在もあった。アメリカ海軍医学外科学局は、原爆投下直後から、核兵器の医学的問題を解析する為、出来るだけ早期に調査団を構成することを決定していた。9月8日、海軍医学研究所所属Shields Warren司令官は命令を受け、パールハーバーで海軍技術使節団と合流し、日本へ渡った。海軍技術使節団はGrimes大佐の指揮下にあり、海軍の医療部隊を日本にいた全期間に渡り支援した。調査団が基地としていたアメリカ海軍の病院船が港に入れるようになり、同じく調査団が基地とした沖縄から佐世保の近郊へ飛行機で交通できるようになってから、主に長崎での研究が始められるようになった。10月3日、アメリカ陸軍とマンハッタン管理区の調査団がすでに駐留していた大村海軍病院を、アメリカ海軍医療部隊の拠点と選定し、長崎の新興善病院はもう一つの拠点とした。アメリカの調査スタッフらは、拠点となった大村海軍病院で統合され、研究成果をまとめた。

日本の医師/科学者の原爆に関する発表禁止

都築正男教授(医師)はGHQに調査協力をしてきた人物だ。1945年11月、日本学術研究会議の特別委員会で、GHQが原爆研究発表の禁止を命じたことに対し、このように発言している。

「今この瞬間にも多くの被爆者が次々と死んでいる。原爆症はまだ解明されておらず治療法すらない。たとえ命令でも研究発表の禁止は人道上許しがたい」

このあと、都築正男教授は、海軍軍医少将を兼任していたことを理由に、1946年公職追放処分となり東大を去った。

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