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~ある女の子の被爆体験記49/50~現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。 ”4人の男の子。原爆とは何なのか。蜂谷医師の「ヒロシマ日記」より”

原爆とは何か。広島日記に書かれた、小父さんの話

当時、蜂谷道彦先生は広島逓信病院の院長でした。8月6日、ご自身も重傷の怪我を負いましたが、原爆でけがや病気に苦しむ人のために尽力を注がれた医師の一人です。その後、「ヒロシマ日記」を執筆されました。その中の8月13日に、ある知り合いの男性から聞いた話を記録しています。「小父さん」は、弟を捜してヒロシマの市内を原爆投下の当日から歩き回っていました。そのときの話です。蜂谷先生は、この話について、ご自身の感想はほとんど書かず、ただこの小父さんのはなしは淡々と書かれています。淡々と書くしかなかったようにも思えます。その時の胸の震えと同じ震えを、後世にこの体験を読んでいる私たちにも伝えてくださっているのだと感じ、心から感謝いたします。

4人の男の子

「天神町で大火傷をした四人の中学生に逢いました。路際に車座になっておるので、その中の一人に、お前の家はどこかと問うたら、天神町じゃというのです。ここが天神町じゃというと、母ちゃんと姉さんがくるのですが、もうこなくてよいといって下さい。僕らはここで四人死のうでのう、というたら、残りの子供が、よし、連なって死のうよのう、というんです。

小父さんは瞼に涙をたたえて

私は今までそんなに涙がでたことはないんですが、この時ばかりは可哀想で可哀想で声をあげて泣きましたよ。熱いから日陰を作ってちょうだい、というから、兵隊のトタンや筵(むしろ)をかって日陰を作ってやりました。も一人の子にはお前はどこかと訊ねたら矢野(?)というんです。何かいる物はないかといったら、僕らは死ぬのだから何もいりません、というんです。それじゃ、小父さんはトマトを弁当に持っとるから、トマトをたべさそうといって、二つのトマトを四つに切って、一人一人の口にトマトの汁をしぼりこんでやり、どうじゃ、おいしいか、といったら、おいしいなあ、といって口をもごもごさしましたよ。一人の子供が、水が今少し飲みたい、というんですが、水をくむ物がないので、私の帽子へ水をくんできて皆に十分呑ませてやり、ますこし、辛抱しとれよ、二中の救護班があの下におったからのう、今から小父さんが行って教えてやるからのう、ここで待っとれよ、といって、持っていた仁丹をのませて下へくだったのですが救護班もおらず、弟もみつからず、自家(うち)へかえったのですが、気がかりでたまらんので、翌朝、早う起きて、何やかや子供の喜びそうなものを持って行ってやったんですが四人とも、元のまんまで死んでいましたよ。私は二度泣きましたよ。手を合わせて拝みました。それから、また弟をたずねて一日中市内をうろつきましたが、あんな可哀想なのはなかったです。今でも涙がでます。と小父さんは瞼をぬぐって私の方をみつめた。私も小父さんが力なく話す一語一語にこみあげるものを覚えた。」


蜂谷道彦医師(被爆時、広島逓信病院院長)著 「ヒロシマ日記」より引用 (平和文庫 日本ブックエース P75-77)

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