見出し画像

今から「ソラニン」を語るから、キミはそれをただ読んでくれるだけでいい

タイトル通り「ソラニン」についてただただ語ろうと思う。キミの仕事は、それを生暖かい目で見守ること、ただそれだけ。

ソラニン愛がキミにも伝播して、ちょっとだけ触れてみようという気になって、そうして僕がソラニンに抱いている感覚や価値観なんかをほんの少しでもキミに理解してもらえたら物凄く嬉しいけれど、とりあえず今はただ目を通すだけでいい。

■序論―「ソラニン」って何?

浅野いにお氏による日本の青年漫画作品、および2010年にそれが実写化された映画。また、同作品内で登場する音楽と、その詞に「ASIAN KANG-FU GENERATION(アジカン)」が作曲を加えたシングルも含める。
ナス科植物に含まれるアルカロイド配糖体。ジャガイモの芽に含まれる。苦みがあり有毒で、腹痛・めまいなどの中毒症状を起こす。

ここでは勿論前者、浅野いにおのソラニンについて語る。じゃあジャガイモの下りはいらないかって、そういう訳じゃない。凄く大きな伏線になる。

ソラニンという漫画があって、映画化もされていて、実際に作品中に登場する音楽を作曲したものもある。今日は3つのソラニンがあることだけ覚えて帰ってくれれば十分だ。

なぞっているだけで原作を超えられていないので映画版については割愛する宮崎あおいが力強く歌うソラニンは素朴でグッとくると思うけど、まぁそのぐらい。

■原作―漫画としての「ソラニン」

ものすごく大雑把なあらすじ

ーーー

大学時代からお付き合いしているフリーターの種田とOLの芽衣子。東京・多摩川沿いの安アパートで二人暮らし。先行きは不安で不透明でだらだら生きてる。

種田は未だ、かつて破れたバンドマンの夢を引きずっている。いつまでも適当に生きていられない種田と芽衣子は、音楽オーディション応募という最初で最後、一世一代の懸けに出る…が、夢叶わず。

ずっと目を逸らし続けてきた現実、自らのモラトリアムとついに向き合わなくてはならなくなった二人の行く末は。そして種田が作った「ソラニン」は何のための歌で、二人をどう揺り動かすのか。

ーーー

浅野いにお氏は等身大の若者模様を描き出すのが本当に上手くて、当然ソラニンのお二人のモラトリアムっぷりも例外無く、現実にありふれているそれと全く同じものだと思う。うんうん…早く抜け出したいよな…と頷いてしまうような怠惰みが感じられる一方で、それらはとても人間臭くて羨ましくて美しいのである。

ここでは印象に残ったコマをピックアップして、どうにもこうにもならない二人について僕がひたすら早口で、むさ苦しい熱帯夜くらいのイヤになる暑さで語らせて頂く。本当は1コマ1コマ律儀に講釈垂れたいところなのだが…。
ーーー

どーにもこーにもならなくなって仕事を辞めた芽衣子は、自分の中のそのどうしようもなさを種田にぶつけた。何にもなれない種田の、しかし今なお引きずる音楽への憧れ。芽衣子は、種田に夢を叶えさせることで自分も救われると、あるいは何か新しい道が開けると考えていたのだ。

能天気な種田もそれにとうとう耐え兼ね、一度は別れを告げた。窮すれば通ずとはよく言ったものだが、しかし二人の余裕のなさ、環境の変化は、むしろ悪い方へ悪い方へと二人を押し流していってしまった。

社会に出るなりして環境が変わると、それが大きくても小さくても、中々どうして今までのように自分の都合だけで生きられなくなる。

やりたい事よりもやらなきゃいけない事が人を埋め尽くしていって、それがどうしようもない恐怖・喪失・焦燥感になって追い詰めてくる。種田と芽衣子も、今までの学生気分の恋愛から一段階進まなくてはいけなくて、だけれどあの頃のままで居たくて、その変化の真っ只中に自分が立たされていることが分かると、心と体はすれ違う。

自分一人でも手一杯なのに、それが二人になったらもっと大変だ。自分以外の人間の人生を背負い込んで生きるのは誇らしい事だけれど、簡単じゃない。

だからこれは避けられないぶつかり合いだった訳で、二人にも遅かれ早かれ訪れていたのだと思う。

芽衣子と種田は確かに二人で一つのような関係性だけれど、結局の所人間って一つ一つで他人でしかなくて、全部分かり合うのって難しいよなぁと思う。

種田は、芽衣子の前からいなくなった。

もしも音楽から逃げるなという言葉を突きつけていなければ?もしも仕事を辞めていなければ?もしも付き合っていなければ?

芽衣子の後悔が、種田がいなくなって広くなった部屋の分だけ募っていく。

後悔という言葉から見て分かるように、予めああしておけばこうしておけばと悔やんでおくのは無理な話である。人は何か間違えるたびに、自らをたらればの仮想空間に引きずり込む。

どうにかなる訳でもないのに、こじつけて上手い事何かのせいにしようとする。後悔は後悔のままにせず、どうにかして自分のためにしなければならない…というのがせいぜい建設的な落としどころだが、「もしも」に囚われた今の芽衣子にはそのような言葉をかけたところで何の救いにもならない。

後悔のあと、更に「あんな時もあった」と思える時がやって来る事が分かっているのであれば、痛く消えてしまいたいと思うような考え事をする時間も大切だと言えるのだが…。

種田達のバンドデビューの夢は、オーディション通過というステップを越えはしたものの、思っていたものではなく。儚く散った。

衝突を経て音楽への再挑戦を志した種田を鼓舞し続けた芽衣子だが、その楽曲を始めて聴くのは落選後のことだった。一体種田は、かつて叶えられなかった夢への再挑戦として、どんな音楽でアンサーを返したのだろうか。

それがソラニン。歌詞はこんなものだ。


芽衣子の存在もあって、種田はどうやらラブソングで勝負をしにいったようだ。だが、思い違い・さよなら・昔・どこかで元気で…

断片から分かるように、それは別れの曲だった。

種田は芽衣子には何も言わなかったが、彼なりに何か踏ん切りというか覚悟のようなものを込めていたのだろうか。漠然とした二人の将来について

「もう、さよならなんだ」と歌うことで、続けるのではなくて、それをお終いにしよう、ソラニンが駄目だったらもう辞めにしてしまおう、と結論付けたのだろうか。

歌詞には分かりやすい恋慕や愛情のようなものが添えられていない。別れの歌として歌いきることも、二人のためになるということなのだろうか。

そこも僕なりに、言葉にすることは不器用だけれども凄く分かる。好きなだけじゃどうにもならない事があって、お互いの為にお互いでいることを辞めなくてはいけない時がある。プラスな結果の為に、マイナスな選択肢を取らなくてはいけない時がある。種田と芽衣子のようなほんのちょっとのすれ違いで入ったヒビは、積み重なるともっと裂けていって、ついに割れてしまう。

そんな芽衣子の元に、ちょうど種田が戻ってきた。

お互いの感情の再確認を済ませて立ち直ったというのに、種田はまたいなくなってしまった。

もう会えなくなった二人の為に種田の父が多摩川のアパートを訪れ、アドバイスを伝える。

種田は居なくなり、ソラニンが世間の日の光を浴びることも叶わなかった。芽衣子にしか分からない種田と言う人間の存在証明を成すことは、権利であり、この時点で義務となった。

証明し続けるとは、どういうことか。種田のことを本にでも残すのか。そうではない。芽衣子は種田のギター(ムスタング)を自ら手に取り、ソラニンを演奏することで、自分が見る事の出来なかった景色を覗いてみることにしたのである…。

そうしてライブを終えた芽衣子。「もう、さよならなんだ」…ソラニンは、確かに別れの曲だった。でも、種田と芽衣子の別れではなかった。同時にそれが読み手へのミスリードであったこともここで明らかになる。

そして気付く。別れとは、自分自身との別れ。だらしのないそれまでの自分とのさよなら。

自分自身との決別によって新しい僕と芽衣子とでこれからも生きていく、というとてもとても遠回しな愛の歌だったのである…。

歌い切ったことで種田の存在証明を成し遂げた芽衣子は燃え尽きる。

ソラニンの意味を理解した芽衣子は、しかし居なくなった種田の為に決別として、もうずっと誰も帰ってこないアパートを引っ越した。

種田が自分の為に歌ったさよならの歌を今度は芽衣子が歌い、最後に芽衣子は種田を心の中に残すことにして、さよならした…。

あぁ~、書きながらだけど泣いて良いですか…。

多摩川沿いの2LDKのアパートに、あるカップル(といっても住むのは片方だけで、もう別れ際らしい)が引っ越してきた。

昔住んでた小さな部屋は、今は誰かが住んでんだ

…奇しくも、ソラニンの歌詞がそれをなぞっている。

種田と芽衣子の二人の関係性は、「部屋」という一つの空間を通して育まれてきた。だけれどそれも時間が経つにつれて昔の思い出になっていってしまって、居なくなった二人を埋めるように、また誰かがそこに住む。

さてその誰かさんは、前に住んでいた人のだろうか、ギターのピックの忘れ物に気付く。
誰かは明らかにならないが、僕たちはそれがどんなであったのかを、ぼんやりとした人間像と一緒に思い出すことができる。

そうして二人はその落とし物から、前に住んでいたのはどんな人か、という想像に思いを馳せる。

種田と芽衣子、ソラニンを巡る彼らの物語は先ほどまで、まるで二人を中心として回るドラマのようであったが、そうではなかった。
誰かからしてみれば、同じような誰かでしかなかった。運命かと思われたそれは運命でもなんでもなかった。

多摩川沿いのアパートでは、居なくなった二人とはまた違った人間模様が紡がれていくのだろう。

種田が居なくなって、バンドメンバーや芽衣子達がそれぞれの道に向かって改めて進みだして、それから約10年後。

もう薄々分かってはいたが、一緒にいるのは種田とは違う人だった。
こう、なんというか、ただただ純粋な可愛い女の子に彼氏ができて、それがヤンキーだった時みたいな、「ああ、願わくば理想通りであってほしかったけど、まぁ…現実ってこうだよね」みたいな。

芽衣子の心の芯はいつまでも種田であって欲しくて、種田が居ない絶望を抱えたままであって欲しかったという僕の一抹の希望のようなものは儚くも打ち砕かれた。

もう目の前にいない種田は芽衣子にとって現実ではなくて、10年経てば自分にとっての大事なものも、守りたいものも10年前とはまた違ったものになる。
現に芽衣子は結婚し、子供を身篭っている。

芽衣子は、というか僕たちは皆、必死になって両腕に抱えている大事なものが何かしらあると思う。
だけれどもそれは長く生きていくうちに増えていって、次第に溢れていく。
その中から全部をすくい上げる事はできなくて、どれを捨てるか、どれを抱きかかえるか、今はそうでなくともいずれ選ばなくてはいけない
のだ。

「時折、あのメロディーが蘇ってくる事がある」…

あの日に戻りたい、という日(時期)は誰にでもある。でもそれはきっといい思い出として取っておく方が良くて、その妄想に小休止したところで、それを終えたらまた僕たちは今目の前にある日常を生きていくしかない。

中学生になった時に「小学生に戻りたい」と、高校生になった時に「中学生に戻りたい」と、社会人(あるいは学生)になった時に「高校生に戻りたい」と、

過去が絶え間なく積み重なっていく度に戻りたい過去も増えていって、でも最後には「そう思える今が一番大事なのかも」という気付きを得るような切なさ。

芽衣子がソラニンを思い出すことはそれと同じだと思うし、そうして僕たちは大人になっていくのだと思う。

居なくなった種田と残されたソラニン。芽衣子は、それを忘れないことにして、だけれどそれを過去の物にして、もう戻らず生きていく…。

ーーー

種田と芽衣子の間のぎこちなさ。人生の難しさ。ソラニンを巡る人間模様。同じ通りの人生を辿ったわけでもないのに、その全部がただただ僕の心に刺さって、それは痛いけれどどこか傷口から懐かしさをじんわりと感じさせるのが、ただただ苦くて、でもどこか救われていくようで仕方なかった。

僕はまだソラニンを読んでいようと思う。
だからキミよ、ソラニンを読め


■派生―音楽としての「ソラニン」

ここまで散々種田が芽衣子がソラニンがああだこうだと語ってきたのは、音楽としての「ソラニン」への感受性を高めるために僕がアナタにかける催眠導入のようなものである。

御託はいい。いいからソラニンを聴け

では(唐突)、聴いてくれたことを前提に話を進めていきます

・イントロが日本音楽界の最高傑作

イントロだけで条件反射的に涙を流せるレベル。音楽をおかずに白米が食べられるレベル。「アメトーーク」に「ソラニン大好き芸人」として参加して、それが僕だけであっても1時間回せるレベル。

ソラニンを聴いて、何が思い出されるのか?という問いには実はイマイチはっきりとした答えを出すことはできないのだが、

何かこう、放課後になって夕陽の射す校舎をノスタルジーに眺めているような、別れが近い事を悟ったカップルのような、
何か過去に置いてけぼりにしてしまったものを一つ一つ振り返って拾い集めていっているような錯覚。イントロが流れたその瞬間にいつも陥るのである。


・ジャガイモとしての「ソラニン」

ソラニンは毒であり、ジャガイモにとって悪い成分である。が、そのソラニンがないとジャガイモは成長できない。

これが、始めに述べたジャガイモとしての「ソラニン」の伏線である。

種田は、そのソラニンとジャガイモの関係性を二人になぞらえたのである。

例えば ゆるい幸せが だらっと続いたとする

きっと 悪い種が芽を出して もう さよならなんだ

だらっと続くゆるい幸せというのが、ここでいうソラニンであり、毒である。

それは、二人してモラトリアムを続けてきた数年間そのものを指している。何も考えなくていい無責任な人生というのは、後先を考えなくていい恋愛というのは、

凄く居心地がいいものなのだけれど、いつまでも続けていることができず、そうしているうちにいずれ終わりがきてしまう。だというのに、それは人が成長するためにもまた必要であるというのだ。

「悪いを出して」…二人をじゃがいものソラニンにただなぞらえるだけでも妙技であるというのに、種田はそこに二人の名前を込めたのである。

これはただ音楽の「ソラニン」を聴くだけでは絶対に気付くことができない。先ほどソラニンを知ったばかりのキミも流石にちょっとグッときたんじゃないだろうか。


・もう、ただ聴いて欲しい

とうとうその素晴らしさを前に、僕は語彙力を失ってしまったようである。

聴くたびに身を切られるような切なさが、年をとる度に俗世間に塗れて原点を忘れてしまいそうになる僕を一瞬で引き戻して、それでいて聴き終わる頃に再び立ち直らせてくれる。だけれどその後には何も無くしていないのに心に穴が開いてしまっていて、少し悲しくなって、でも「もう戻って来るなよ」とでも言われているような気持ちになる。

僕はまだソラニンを聴いていようと思う。
だからキミよ、ソラニンを聴け


■あとがき

不思議なもので、そんなソラニンをどこで始めて知ったのかも忘れてしまったが、ソラニンから得た色んな大事なものは忘れないままでいたい。

聴け、だなんて強い口調になってしまったが、それほどまでに何かただならぬ情熱を僕がソラニンに対して抱いているという事を知ってくれれば、いや、ソラニンという作品がある事さえ知ってくれれば本望である。

ソラニンというタイトルは、原作者である浅野いにお氏の元カノさんが、「アジカンの新曲、『ソラニン』って言うんだって」と伝えてきたのがきっかけらしい。
実際は「ソルファ」で、ソラニンは覚え間違いなのだけれど、その覚え間違いが無かったらと思うと…。

ということで、原作者の浅野いにお氏、そしてその元カノさん、作詞作曲のASIAN KUNG-FU GENERATIONに止めどない拍手を送ろうと思う。

ちなみにアジカンは、ソラニンからインスピレーションを受けて「ムスタング」という曲も作っていたりする。
ムスタングは種田が使っていたギターのモデル。

僕の長い長い自分語りにここまでお付き合いいただきありがとうございました。

おしまい

種田…芽衣子さんを置いて何で居なくなっちゃったんだよ…。

この記事が参加している募集

#自己紹介

228,904件

#スキしてみて

524,761件

どうしようもなく下らなくて、だけれど面白い何かに使わせて頂きます