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人の誕生日のお祝いサボってると、俺みたいになっちゃうよ

Q.知り合いが増えれば増えるほど、一緒について回るものってなーんだ?

A.誕生日

一人に一つだけ等しく与えられた誕生日、誰だって祝った経験もあれば、祝われた経験もあると思う。贈った経験もあれば、贈られた経験もあると思う。

皆が皆幸せ、一億総幸福、令和万歳…かと思われた!

だが詰まるところ、人はとても我儘な生き物だ。自分が祝われるのは気持ちいいし、物を貰うのは嬉しい。けれども、他人をお祝いする時にはちょっとだけ面倒くさかったりすることが実はある。

貰った分だけこちらも贈らないといけないような気がしたり、何が好きとか嫌いとか、何なら喜ぶ喜ばないとか、あれこれ考えるのが大変だ。ただただ悩ましい。折角の誕生日なのにそんな感情を抱いてしまう自分も嫌になる。

誕生日にそんな「めんどくささ」を感じたことがあるアナタ。そうでなくても今後そのような感情を抱いてしまった時のアナタのために、僕というしくじり先生から救いのメッセージと多大なる忠告をプレゼントしようと思う。


■俺みたいになるな①:お祝いサボると、人から忘れられていくよ

皆に等しく訪れるという意味で捉えるならば、誕生日はお正月やお盆、クリスマスと同等の価値を持つ「年1イベント」なのである。

仲の良かった人とも進学やら就職やらで疎遠になってしまった今になって分かったのだけれど、誕生日は人間関係の距離感の再確認作業という側面を有していると思う。

それはお祝いすること自体も当然目的なのだけれど、連絡を取っていなかった人に対して、不自然さゼロ、しかも正当な理由でコンタクトを取れる数少ない機会だったりする。

人はお互いに祝い合うことでかつての関係性を忘れてしまうことのないように繋ぎ止めてゆけるのだと思うと、何と人と人との関わりは尊くて素晴らしい物なんだ、と感動するのかもしれないけれど、

僕は、それをサボっているサボってます

友達の誕生日は覚えて当たり前みたいになっている常識自体が僕からすればカルチャーショックだ。不規則な数字の羅列を頭の中に留めておけないし、そもそも留めておく気がまずないという社会不適合者っぷりである。

グループラインなんかで誰かが誰かをお祝いしているのを見て、そこで初めて人の誕生日を認識するレベルである。便乗お祝いである。

人の誕生日への興味関心の度合いという時点で既に僕は他よりも遠いスタートラインに立っているし、それに気づいていながら中々直そうとしないのである。

10人のうち、僕を除いた8人が残る1人をお祝いしたとしよう。そうしたら、祝われた人はその人達を好意的に思うのは至極当然だし、反対に祝ってくれなかった僕を良く思わないのも真っ当だ。仮にそうでなくても、僕よりもその人たちのことを大切にするだろう。僕がその扱いに対して腹を立てられるだけの正当な理由などこれっぽっちもない。
お祝いスパイラルはグルグルと回り続ける。僕を除いた9人で。

…これが対面でなくてSNS上でのやり取りにとって代わったならば、祝わなかった僕という人間を祝われた側の人間はそもそも認識できないので、現在進行形で忘れられていっているということになる。

僕は「誕生日のお祝いをサボる」という行為によって、築き上げてきた人間関係とポイッ!と蔑ろにして、自らの可能性を狭めているのである。

という訳で、人の誕生日は積極的に祝うべきである。俺みたいになるな


■俺みたいになるな②:互酬性で成り立っている人間関係の輪から外れていくよ

次は、誕生日のお祝いを「互酬性」という側面から分析してみようと思う。

互酬性とは:人類学において、贈答・交換が成立する原則の一つとみなされる概念。有形無形にかかわらず、それが受取られたならば、その返礼が期待されるというもの。……これらの互酬性による均衡が破られたとき、当事者間には社会的地位の上下が生じるが、これはときには負い目意識となって、再び均衡がはかられる……日本社会における「恩」は無限の、「義理」は有限の負い目意識としてとらえられる。(コトバンクより引用)

ちょっと難解すぎて難解キャンディーズなのだが、つまりどういうことかと言うと「情けは人の為ならず」ということである。もっともっとどういうことかというと、

誕生日のお祝いは、その行為自体に注目するならば「祝うから祝って」という有限の負い目意識、つまり「義理」である。その結果、相手への無償の愛情や友情が芽生えたときの、その感情からくる「何でもしてあげたい」という無限の負い目意識が「恩」である。

誰かからの「お祝いされる」「プレゼントされる」という行為は、アナタに「お祝い返さなきゃ」「プレゼント返さなきゃ」という気持ちを抱かせる。そしてお返しが成されることで、人間関係のバランスは均衡し、維持されていく。

反対にもしそれが成されなければ、その誰かは「お祝いしてあげたのに、どうしてお祝いしてくれないの?」という感情のもと、アナタという人間に見切りをつけ、アナタは立場が弱くなってしまい、損をする。人間関係はその均衡を崩し、ギクシャクする。

人間関係は実は物や気持ちの贈りあいで成り立っていて、それはとても温かいものだけれど脆くて儚い。面倒かもしれないけれど、それを守っている間はアナタはとても良い人間だし、反対にそれを破った時のリスクは、簡単に破ってしまえるのに計り知れないのである。だから、面倒でも贈った方が良いのである。

僕は誰にも物を贈っていない代わりに贈られてもいないから、ある意味バランスは保たれているのだけれど、これがネガティブな均衡の保ち方であることは一目瞭然だし、誰かの誕生日の為に悩んであげられるアナタという人間はとても輝かしくて眩しい。

物や気持ちは、こちらから贈ろうとしないと、いずれ本当に返ってこなくなる。俺みたいになるな


■俺みたいになるな③:そもそも「めんどくさい」と思うのは悪い事ではないのかもしれないよ

アナタの「めんどくさい」という嘆きは、僕からしてみれば「勉強なんてできても良い事ないよ」と言われているような、贅沢な悩みなのである。青い隣の芝生なのである。

そもそも、人間関係は大なり小なりめんどくさい。何なら生きること自体もめんどくさかったりする。なのに、なのにである!

そんな世界で誰かの為に悩むことができるアナタという人間の、なんと優しく素晴らしいことか!

そのめんどくささは、裏返してみればアナタの繋がりの多さ、返ってくるお礼の大きさなのである。

された瞬間に既に何をお返ししようかとトキメキを抱いてしまうレベルでお祝いに飢えている(そうなったのは自分のせいなのだが)僕からすると、その悩みが羨ましくて仕方がない。
近々、お祝い難民として政府に援助要請を出そうと思うが断られそうで怖い。

そんな立場の僕が、アナタという人間を肯定してみせようと思う。「めんどくさい」は幸せの裏返し。めんどくさがることすらできなくなった俺みたいになるな


■まとめ&あとがき 人の誕生日を悩めるアナタはやはり素敵な人間でした

という訳で、アナタが抱える「めんどくささ」を何とかして良い感情だと思わせようとしくじり先生として頑張らせて頂きましたが、いかがでしょうか。

もしかするとアナタを祝ってくれる相手も「めんどくさい」と感じているのかもしれません。でも、それでも祝ってくれるなんていい人じゃあないですか。マイナスの気持ちよりも、アナタへのプラスの気持ちが勝ったんですよ。

というか、自分で勝手にお祝いをサボる選択肢を取ってきて今に至るのに、「俺みたいになるな」ってかなり傲慢なフレーズに思えてきて、そこにアナタの悩みの温かさも相まって僕の心がグサグサとやられてきている。

僕も自分に向けられた贈り物にはきちんと相応の態度で返してあげようと思いました。が、自分から祝いに行くのってやっぱりめんどくさいということでこれが僕の良くない受け身な性格なんだということも分かりました。人生100年…あと80回くらいは機会があるし、やれる範囲で頑張るよ…ホントだよ…。

アナタは素敵な人間だ!
だからこそこんなだらしのない俺みたいになるな

ケーキが食べたくなってきたのでおしまい。




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