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哀愁のスパイスカレー

そのカレー屋さんは、私が生まれ育った街にありました。
狭いバス通り、私がまだ小さい頃からある古い一軒家の一階部分で、ひっそりと営業しているスパイスカレー屋さんです。

路面店にも関わらず、そのあまりにもひっそりとした佇まいのせいで、私は無意識のうちにお店の前を通り過ぎてしまっていました。

途中、漂ってくるスパイスの香りがだんだん薄まっていることに気がつき、鼻をクンクンと効かせながらもと来た道を戻ってみると、地図に書いてあった通りの場所にそのお店はちゃんとありました。

店の入り口には、いかにもちゃちなガラス張りのドアがはめられていて、そこには赤い文字で「come in we're OPEN」と書かれた、安っぽいプラスチック製の小さな看板が、昼の日差しに照らされて居心地悪そうにぶら下がっていました。


その見た目通り、異様に軽い扉を開けて中に入っていくと、カウンター席が5つ、4名掛けのテーブル席が2つほどの狭い店内が現れました。

カウンターの中では私と同年代くらいの、決して愛想がいいとは言えない男性スタッフが、黙々とスパイスの香りを立てています。

入り口の扉の横にある窓には、張り紙やらポスターやらが貼られていて、外の様子はほとんど見えません。

どうやら、私が今入ってきたガラス張りの入り口のドアだけが、こちら側とあちら側の様子を覗き見ることができる唯一の存在のようでした。

男性スタッフは私の存在に気がつくと、ちらりと目だけを動かしてこちらを見ました。そして小さな声で「どうぞ」と一言だけいうと、すぐにまたスパイスの方に目を戻しました。

私は入り口に一番近いカウンター席に座り、注文を済ませると、運ばれてきたクラフトビールを飲みながら店内を見回しました。

お昼時だというのに、お客さんは私ともう1人の女性客だけでした。私と同じくカウンター席に座っているこの女性はおそらく常連客なのでしょう。このお店の雰囲気にとてもよく馴染んでいて、「いつものように」という言葉がぴったりとその佇まいに当てはまるように見えました。

カウンター越しに見える厨房には、かなり年季の入った業務用のガス台があり、カレーを作る時に使われるであろう小瓶に入れられたスパイス達が、調味料と一緒に棚の上にズラリと並べられていました。

そして収納スペースが少ないのか、納品されたダンボール箱は、ただでさえ狭い客席にぽんぽんと積まれています。

客席の床は赤と黒のチェック柄で、古き良きアメリカンダイナーのような、レトロで洒落た印象を私に与えました。そしてそれとは対照的に、私が今座っているカウンター席はどことなく油臭く、町の中華料理屋さんのような印象がありました。

この混沌とした雰囲気が、足と床の間に微妙な隙間が空いているような、不思議な浮遊感を私に与え、そしてそれと同時に、これまでに色んな業種の飲食店がこの場所で商売をして来たのだろうという、歴史や時の流れ、人の営みといった、リアルさを感じさせる説得力のようなものが同居していました。


私はそんな店内のカウンター席でスパイスカレーを食べながら、入り口のドア越しに見えるバス通りを行き交う人たちを眺めていました。

ビジネススーツに身を包んだ会社員、学生、子供を自転車の後ろに乗せたお母さん、杖をついたおじいちゃん、それを支えるおばあちゃん。

急ぎ足の人もいれば、一歩一歩を噛み締めるように時間をかけてゆっくりと歩いている人もいます。
そしてそんな人たちの群れをバスが時折、たくさんの人を乗せて追い越していきました。

そのバス通りの向こう側には、赤い煉瓦造りの古い建物がたっていて、ガラス張りのドアの白い枠の中で、その赤色がとてもよく映えていました。

その赤い建物を背景にして、一人一人様々な事情を抱えながら、それぞれの速さで通りを行き交う人たちの姿は、まるで白いドア枠というスクリーンの中に映し出された、古い群像劇映画のワンシーンのように見えました。


カレーを食べながらそんな外の景色を眺めていると、ふと頭の中に、さっきまで実家で会っていた両親の姿が浮かんできました。

2ヶ月前に会った時よりも急激に老け込んでしまった両親。

最初顔を合わせた時は、思わず何かあったのではないかとビックリしてしまいましたが、今になって冷静に思い返してみれば、ただ単純に、私が時の流れの早さに気がついていなかっただけなのです。

というのも、私が実家を訪れる際はいつも妻と娘と一緒だったので、その時は両親の方も気を遣って、しっかりと身だしなみを整えて私達を迎えてくれていました。

しかし今日は実の息子である私一人、それも、ちょっと渡したいものがあって顔を出したというだけだったので、両親も特に誰に気を遣う必要もなく、普段の装いのままで私を迎えてくれたのです。

しかし、その普段の装いの姿というものが、私が思っていた以上に時の流れは早く過ぎ去ってしまうということを物語っていました。

その時に私が感じた正直な感想は、月並みな言葉になってしまいますが、「あと何回会えるんだろう」ということでした。

電車に乗ったら30分。特に用事があるわけじゃなくても、もっと頻繁に顔を出すべきなんじゃないかと、そう感じた出来事でした。


カレーを食べ終えた後も尚、私は相変わらず、入り口の外を行き交う人たちの姿を眺め続けていました。

ドアの向こう側では絶え間なく人の流れが続き、こちら側では私より後に来店した数人のお客さんが、スマートフォンを片手に持ち、無言でカレーと向き合っていました。

どうやら、この入り口のドアを一枚隔たあちら側とこちら側とでは、時間の流れるスピードがまるで違うようです。

あちら側の世界では、自転車やバスがスピードを上げて、歩いている人たちをどんどん追い越していきます。私はその光景を見るたびに、自分が時の流れに取り残されてしまったような、不思議な感覚に陥りました。

もう一杯だけビールを貰おうかな。

頭の中にふとそんな考えが浮かびましたが、すでにお腹はいっぱいになっていましたし、いつまでもここに居座っているわけにもいきません。

私は重い腰を上げて立ち上がり、会計を済ませました。

そして店員さんにご馳走様でしたと伝えると、「sorry we 're CLOSED」と書かれた看板が掛かるドアを手で押し開けて、あちら側の世界へと戻っていくのでした。

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