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短編小説 「隣人と生活」

 働かなくなった私は、スマホを見るわけでもなく、本を読むわけでもなく、テレビを見るわけでもなく、何かするわけでもなく、ただ布団の上で横になり壁を見ている。いや、正確には見えない壁の向こう側を見ている。アパートの住人なんて誰も知らないが、ただ、私の部屋の隣の住人を妄想し、ボーッとしている。

 大したことをしていないようだが、私には大きな発見だったのだ。決して、興味を持つ事がなかった隣人に興味を持った。スマホの中の騒音やテレビの砂嵐よりも、何も音を立てずに静かに暮らしている隣人は私の興味を引き立てた。

 働かなくなったせいでやることが無くなった。暇になってしまった。きっかけはそんな時に壁を見つめ、耳を当て、何も聞こえてこないその部屋から、生活音を想像させる。これがこの上なく楽しかった。私の中に何かがポトポトと雫を落として行くように満たされて行くのがよくわかった。

 ある時、無気力な私にも体を起き上がらせるほどの気力が湧き上がった。料理をしよう。そう思った私は、空っぽの冷蔵庫を満たすためにスーパーに向かい、適当な食材を買い集め、部屋に戻った。一度、壁に耳を当て、私は心の中で「今から、料理をします。」と、隣人に報告した。

 慣れない手つきで食材を切り、乱雑に油を引き、食材を入れる。パチパチと跳ねる油と格闘しながら、時折、その場から離れ、壁に耳を当てた。「今、野菜とか肉、炒めてます。」や「油が跳ねて熱いです。」など、私は隣人に報告をした。

 所々焦げて縮こまった姿を見せた、肉野菜炒めができた。働いていた時から滅多にすることのなかった自炊だが、初めて心のこもった料理を作った、そんな気がした。そんなロクな味付けもせずに出来上がった、油の味しかしない肉野菜炒めを食べながら、私は壁に耳を当てた。「味付けするの忘れてました。」「でも、美味しいです。」「ここに住み始めてから、初めて美味しい料理作りました。」と、私の中で料理の感想を隣の部屋に投げかけていると、初めて声がした。

 「食べてみたいです。」

 一言だけ、声が聞こえた。私は口の中の油でまみれた野菜や肉をぼたぼた落とした。それでも料理を口の中にかきこみ、落とした物も必死に口の中に運んだ。泣いていた。私は、それ以上にぼたぼたと涙を流し、嗚咽していた。初めて聞いた隣人の声、男か女かもわからないその声に私は感動していた。「もっと聞かせてほしい。」「あなたの声を聞かせてほしい。」私はずっとずっと問いかけ、思わず、壁に向かって声を出した。「あなたの声が聞きたい。」と。でも決して、隣から声が聞こえることはなかった。だけど、私の中には、蛇口をひねったように何かが満たされていった。

 それから、私は何かをする度に壁に耳を当てることが習慣になった。「今、歯を磨きました。何をしていますか?」「また料理を作りました。あなたは何か作りましたか?」「おはようございます。起きましたか?」私の会話の中に、隣人に問いかける事が追加された。何も返ってくることは無いが、会話しているような気分になる。私の心が徐々に明るくなるのがわかった。

 そのおかげなのか、私は自発的に掃除をするようになり、部屋の中も綺麗にレイアウトするようになった。「私の部屋、綺麗になりました。どう思いますか?」「観葉植物を置こうと思って、買ってきました。どうですか?」部屋が綺麗になって行くところ、彩りが生まれて行くところ、私が人として整っていく過程をみてもらおう、そう思えるようになっていった。

 水回りも整われていき、食器も気遣うようになった。石鹸だけで済ますのをやめ、シャンプーやリンスを選んで使うようになった。シャワーをたまに浴びていたのも、毎日入るようになり、お風呂もいい入浴剤をたまに使うようになった。洗濯機の洗剤や、身につける衣服、そういった物もこだわるようになった。当然その過程は逐一、隣人に報告している。言葉は何もかけてくれないが、なぜだかほめられているような気がする。

 やがて、再就職した。

 お金の面で問題が出てきたのはあるが、一番は隣人のために再就職しようそう思えるようになったのだ。隣人が世間体を気にするだろう、そう思うと、就職しないといけないそう思ったのだ。

 私の中の容器がもう少しで溢れそうだ。

 ある時、先輩社員に「恋人はいるのか?」と聞かれた時に、私は一瞬の迷いが生じたが私は答えた。「います。」いる。そう、いる。私には恋人がいるんだ。正確には恋人に近しい人がいる。答えたこの日から、隣人は私の恋人になった。

 この日から、食事を二人分作るようになった。たまにプレゼントを買うようにもなった。一緒に映画や動画を見るようになった。布団を壁に寄せ一緒に寝るようになった。会社の先輩社員や上司は皆、私に恋人がいることを知っていた。私自身、結婚も近いと言い始めている。私は隣人と結婚をしたい。心からそう思っている。
 
 私の中は溢れ出した。

 私は、裸になり壁の前に立っていた。そのまま布団の上に横になり、壁に耳を当てた。「結婚したい・・・。」私は濡れた頬を壁に当てた。ひんやりとした硬い壁は気持ちいい。何も返答もないその壁に私は唇を当てた。その壁は、その向こう側は私の愛で満たされている。私の中で駆け回る純愛が唇から壁を通じて隣人に繋がった。私の中で隣人は答えてくれた。

 「はい。」

壁越しで隣人は唇を当ててるに違いない。私は隣人と婚約した。これからは二人で共に過ごし、子供を作り、絵に描いたような結婚生活が待っているに違いない。溢れ出した私はそのまま眠りについた。

 とある休日、部屋で読書をしている時、インターホンがなった。扉を開けると、男性が立っていた。「初めまして、隣に越してきた鈴木と言います。あの・・・これ、つまらないものですが・・・。」その慣れない手つきで菓子折りを渡す姿と、おどおどとした目が初々しいく感じた。これから楽しい日々が始まるのだろうと思うと私と重ねて見てしまう。私は笑顔でそれを受け取った。
 
 私は壁に耳を当てた。


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