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ポストモダニズム(批判)とキャンセルカルチャー

この記事は以下の記事の続きです。私がツイートする時に前提としている、あくまで個人的な、様々な用語に対する理解を述べました。この記事はその後編として、ポストモダニズムという言葉について書きます。


この言葉には様々な意味が含まれていると思いますが、ここでは「私たちの嗜好や価値観は、私たちが使う言葉やメディアで流れている様々な表現などによって強く影響を受けている」という考え方について話すことにします。もっとも簡単な例では広告などが挙げられますね。前章でも触れたように私たちはそういうものをみて「欲しい!」を駆り立てられて、二年ごとにまだ使える携帯を新しくして、なぜ大きいほうがいいのか、なぜ綺麗なほうが良いのかもよくわからないまま高いテレビを買いたがるわけですね。フェミニズムの文脈で言うと男─女という二項対立がそもそも女性という階級、立場をそこに固定するということが言われたりもするようです。こういう考えはTwitterをよく賑わせている「キャンセルカルチャー」という概念とも関係が深いです。

例えば映画や漫画などに出てくる黒人の役割について。アメリカにおける黒人差別の実態はよく問題になりますが、こうした差別意識は公民権運動などを経て、法の下の平等が確立されるようになった後も根強く残っています。その原因の一つが、映画や漫画などに登場する黒人の描かれ方を通じて、差別意識が再生産されていくことにあるとされています。こういう時によく例に出されるのはアメリカの有名なdoll testという実験で、黒人の子供に白い人形と黒い人形を渡したとき、当時の漫画は白人がヒーロー、黒人が悪役や笑いものになるのが当たり前で、黒人の子供もそういった漫画を読んで育っていたため、白い人形のほうに好感を寄せたという話があります。今ではこの実験の真偽は怪しいということもよく言われますが、感覚として理解できる話ではあります。こういう感覚を根拠に特に最近ではハリウッド映画の人種バランス等についてとても厳しく言われますね。

女性差別の文脈でもよくこのような風潮が出現します。「男の子ってバカだから」という言説が男の子の乱暴さを加速させるという最近の教育論に始まり、知恵が少し足りなくて守ってあげなきゃいけない女の子、男が色々教えてあげないといけない女の子、とか、ピンクやリボンが好きといった感じの女の子像が批判されるということもよくあります。最近ではご飯を性器に見立てて食べる風俗嬢像が描かれた漫画が炎上して、私もこれに参戦したということもありました。

とにかく、黒人にせよ女性にせよ、こうした関心は主に、法的な平等が確立された後にも、マジョリティがその優位をこうした表現の中に隠して再生産し、力関係を保存し続ける現象に対して向けられます。権力は、その法的優位を失った後も、社会に存在する様々な言説や表現の中に新たな住処を見つけ出すわけですね。最初に挙げた広告の話にしてもそうです。産業革命以来、労働者に対する資本の優位は、少しずつ見直され、労働法などによって是正され、労働者に生きるのに最低限の賃金だけ与えて使いつぶすことはできなくなってきました。そこで今度は、労働者自身を優しく諭すことに決めたわけです。身を粉にして会社のために尽くしていっぱい稼げば、いろんなぜいたく品が手に入るよ、と。こうして労働者は「自発的」に、「自らの自由意志で」過酷な労働環境に身を置くようになりました。もはや最低限の生存のためであれば基本的にはそれほど多くの労働を必要としない(あくまで最低限の生存です)、現代日本においてもです。

とはいえ私も表現の規制に賛成かと言われれば慎重な立場ではあります。過渡期には強力な法的介入も必要なことがあるとは思いますが)、せっかく法律を克服してきた過去があるのに(だからこそ権力は法律以外の力を頼るようになったのに)、もう一度法律の力に頼るのもどうかと思うからです。ですが、だからこそ「キャンセルカルチャー」は希望だと私は考えます。ただし、法的な規制を求める運動ではなく、ある表現に対して批判の声を上げる運動に限って。表現における不平等は法ではなく表現によって解決する。これはいい落としどころなのではないでしょうか。

例えばこの前炎上した漫画にしてもそうです。ある表現において、誰かの視点がごっそり抜け落ちて、代わりに誰かにとって大変都合の良いものとして描かれるということが良いこととは私は思いませんが、そういった表現を無くせと言うのも違うと思います。たしかにオタクの言う通り、ご飯を性器に見立てて食べる風俗嬢そのものを否定することにもなりかねませんからね。そこで炎上です。炎上によって、ある種の問題含みの表現を、「この表現にはこういう問題がありますよ」という注釈といっしょに世の中に出まわらせることが出来るわけです。これは大変画期的です。

ですから、私は、世のキャンセルカルチャーはこういう風に、そこに失われている視点を取り戻す、「注釈付け」として機能していくとよいのではないかと思います。最終的には、書店に堂々並んでいるデカパイ漫画とかにも、タバコと同じように「この漫画には女性の身体を極度に性的な視線に晒すことを当然視する表現が含まれます。」みたいな帯がつけばよいと思っています。しかもそれは法的義務ではなく、自主規制によってそうなるべきなんです。そのためには企業が自らそれをやっていくようになるだけの強力な圧力が必要です。そこでは「表現の自由」は守られていると言えるでしょう。何らかの経済的な圧力などの結果としての選択が「自由な選択」として当然視される社会なわけですからね。これを利用しない手はありません。

キャンセルカルチャーについては以下の記事でも書きました。ぜひこちらも読んでください。


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