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土居豊の文芸批評その1 村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作

割引あり

村上春樹『街とその不確かな壁』評


※ヘッダー写真「芦屋川河口付近から六甲山を望む」
※写真は全て、土居豊撮影のものです

(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作2

土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?


土居豊の文芸批評その3
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!


土居豊の文芸批評その4
村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である


文芸批評4(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』の原点は、忘れられた傑作『1973年のピンボール』である 2



兵庫県立神戸高校。村上春樹の母校。


(1)村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』と、オリジナル版



村上春樹の新作長編『街とその不確かな壁』の元となったオリジナル版である、1980年の中編を今回初めて国会図書館からコピーで取り寄せて読んだ。新作の方と読み比べてみると、興味深いと思ったのだ。
結論からいうと、私にはオリジナル版の方が面白かった。
まずは、それぞれのバージョンの相違点を比較してみよう。
オリジナル版「街と、その不確かな壁」(「文學界」掲載)は、結末で語り手が高校時代の彼女を失ったまま取り戻せない。「影」=「鼠?」=「自分の分身?」とのコンビを回復して、壁の街から現実世界へ帰還するという終り方だ。
このオリジナル版を、村上春樹が5年後にリメイクして完成させた長編が、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社)だ。
いわばバージョン2というべきこの『世界の終り…』では、「影」=「鼠?」=「自分の分身?」と別れて、かつて失った彼女の心を取り戻すために、壁の街に隣り合う森の中に留まることになる。
さて、今回の新作『街と…』では、語り手は彼女を心もろとも失ってしまう。その代わりに、壁の街の中で彼女と共に暮らす後継者としての少年を得る。その引き換えのように、語り手自身は現実世界(なのかどうか不明だが)に戻ることをにおわせて締めくくりとなる。
その後の展開は読者がそれぞれ想像するしかないが、私が考えたのは、「代わりの彼女」(『ダンス・ダンス・ダンス』のユミヨシさん?)との現実生活(性愛抜きだが)を試みるのだろうという未来図だ。
だが、それだけではなく、この新しい小説では、未来の可能性は何度でも巡ってくるように思える。小説冒頭と結末が、循環していると考えられるからだ。


芦屋川河口。村上春樹『風の歌を聴け』や『羊をめぐる冒険』で描かれた。


(2)『街とその不確かな壁』の作品背景

次に、本作の物語背景を考えておこう。
本作は全部で3つのパートに分けられている。
第1部は、1980年版「街と、…」と似てはいるが、細部が異なっている。
語り手は、1960年代生まれだと推測できる。なぜなら70年代に高校生であると考えられるからだ。
その根拠は、高校生の時の語り手と彼女がデートする場所だ。二人がデートする場所の一つが植物園であり、彼女の家が大阪市内であると想定すると、大阪市立の植物園である可能性が高い。
そこで、大阪市立の植物園の開園時期を調べると、最も有名な長居植物園は1974年、鶴見植物園は72〜75年ごろだ。この二か所のどちらでも当てはまる。大阪市の代表的な植物園としてあと2つ、靱公園は1955年、中之島公園はなんと明治24年の開園だが、この2つはどちらも淀川が近い。小説中の描写では、彼女の家は川からも海からも離れていることになっているため、中之島も靱も候補から外れる。残りの長居でも鶴見でも、どちらでも当てはまることになる。
つまり、このカップルが70年代に高校生なら、小説中の描写に該当する大都市の地下鉄駅から近い市立公園の植物園でデートできるのだ。
一方、語り手が住んでいる場所は、作者・村上春樹の故郷である芦屋か西宮であろう。山と海にはさまれた町で、山からまっすぐに海に注ぐ川が近い土地。その東側に、大きな都市があるというロケーションは、阪神間と大阪市の位置関係に合致する。

次に、第2部では語り手は東京で大学生活を送り、その後長く東京で会社勤めをする。45歳の時に、東日本大震災のくる前の福島県会津地方に移住する。
仮に語り手が1980年に高校卒業したと仮定してみよう。20歳のときは1982年で、途中留年して大学卒業したのは1985年となる。その後、書籍取次会社に入社し、45歳で退職した時点が、2007年ということになる。
この時点での小説の描写では、インターネットも携帯(ガラケー)もあり、SNSもある。ちょうど2007年ごろは、日本ではSNSの代表例としてミクシイがあった。
小説の結末の後、語り手とコーヒーショップの彼女がそのまま会津地方に暮らしていたなら、数年後に東日本大震災が襲うことになる。だが、会津地方の被災状況からみて、二人とも命は助かるのだろう。
しかし、古い民家を改築したあの図書館はどうなるだろうか? 書架や蔵書は無事には済まないと考えられる。それ以上の未来図は、考えるにも手がかりがない。

本作の物語の構造は、オリジナル版の第2バージョンとしての『世界の終り…』とは大きく異なっている。
『世界の終り…』は、2つの世界の物語が並行して進行するが、どちらの場合も語り手の行為は因果論に支配されている。原因と結果が明らかで、形式的には「シーク&ファインド」を踏襲している。
これは、音楽に喩えるなら、ソナタ形式だ。
一方、新作の『街と…』は冒頭から結末まで円環状になっており、基本的には何も変わらない。音楽でいうと循環形式のようであり、フランス近代の交響曲のような味わいがある。


西宮市の夙川、河口付近から六甲山系を望む。


(3)『街とその不確かな壁』のキャラクター

本作の人物の設定を見てみよう。この面からもオリジナル版「街と、…」とも、第2バージョン『世界の終り…』とも異なっている。
まず、語り手は作者の分身とみてほぼ間違いないだろう。
「影」が作者の分身であるなら、これは作者のデビュー作『風の歌を聴け』以来の分身である、「鼠」に近似した存在だといえる。
本作でも過去作と似た設定で登場するヒロインの少女は、過去作の彼女たちとほぼ同じキャラクターであり、作者自身の高校時代の彼女がモデルだと長らく論じられてきた。
本作の「きみ」と呼ばれる女子高生は、第2部以降、図書館の彼女として現れ、そのイメージは結末まで変わらない。このキャラクターは、『風の歌』に出てくる自殺した彼女を原型とするなら、その後の「直子」(『1973年のピンボール』や『ノルウェイの森』)、さらに「誰とでも寝る子=すてきな耳の彼女」(羊をめぐる冒険)などに転生していく。『世界の終り…』の図書館の彼女であり、島本さんやイズミ(国境の南、太陽の西)、さらにクミコ(ねじまき鳥クロニクル)や佐伯さん(海辺のカフカ)へと変奏していく。
本作のサブキャラで最も重要なのは、謎の図書館長で幽霊でもある子易さんだ。彼が作者自身の父の理想化であることは、間違いないだろう。この父親のモチーフもまた、村上作品のデビュー作以来ずっと底流に響いていた重要なテーマだ。ジェイ(風の歌)、羊博士(羊をめぐる冒険)、博士(世界の終り)、妻の父(国境の南)・叔父さん(ねじまき鳥)など、父のモチーフは何度も繰り返し変奏されている。
もう一人の重要な脇役はイエローサブマリンの少年であるが、これはもしかしたら、作者の理想の息子像なのかもしれない。
その名前は、なぜだか頭文字だけが明らかにされており、M※※くんと呼ばれる。これは、もしかしたら、Mはマウスの頭文字なのかもしれない。そうだとすると、かつての分身「鼠」が転生したのだとも考えられる。
最後に、語り手が45歳で出会うコーヒーショップの彼女は、作者自身の妻のイメージだろうか? だとすると、『ノルウェイの森』の緑の立ち位置にあるのだが、本作ではその彼女とは大学時代に別れている。だとすると、『ダンス・ダンス・ダンス』のユミヨシさんのイメージなのかもしれない。しかし、性愛抜きのパートナーとなる可能性が示唆されている点で、ユミヨシさんとは異なるイメージであり、今回新しく登場したキャラクターだと考えた方がいいのかもしれない。


西宮市の香櫨園浜から、対岸の芦屋市のマンション群を望む。


(4)老人文学としての村上春樹『街とその不確かな壁』

本作について様々に読後感がネットでもメディアでも流れているが、私としては、本作では老人文学という問題を押さえておきたい。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/