見出し画像

土居豊の文芸批評その3 村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した

割引あり

土居豊の文芸批評その3 村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した


※写真は土居豊の撮影です(一部除く)


※前段まで
土居豊の文芸批評その1
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作1

https://note.com/doiyutaka/n/nc68693cc0b25


(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作2

https://note.com/doiyutaka/n/nec4c3577cf8d


土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?

https://note.com/doiyutaka/n/n0266ed29df2f


(1)オリジナル版「街と、その不確かな壁」の「街」のモデルを特定


村上春樹新作長編『街とその不確かな壁』の元となった、オリジナル版「街と、その不確かな壁」(文學界 1980年)を読んで、この「街」のモデルを特定したのだが、おそらく他に誰もこれを指摘していないのだろうか? 読み返せば、明らかなのだが。
まず、新作の方とは違って、旧版「街と、」では、語り手「僕」と「君・彼女」の住む土地は阪神間である。それも、ほぼ間違いなく芦屋だ。そこから普通に想像して、彼女が語る壁の中の「街」に流れる川が、芦屋川から生まれたことは、ほぼ間違いないだろう。冒頭で18歳の「僕」と16歳の「君」が歩いている川は、その特徴が芦屋川河口付近に合致している。


兵庫県芦屋市の芦屋川



「街と、」のp48に描かれた、「十八の歳の夏の夕暮」、「プールの帰り」に川の中を歩いている描写は、新作の『街と』にもあるが、そこでの風景はモデルが特定しにくいようにぼやかされている。しかし、旧版では、描写の端々に、芦屋川を思わせる特徴が垣間見える。
例えば、「澄んだたまり(原文には某点)の魚たち」とあるが、こういう情景は芦屋川によくある。


芦屋川の河口、水は澄んでいて魚もよくいる


芦屋川河口付近。川底は浅く、川の中を歩いて遡ることも容易だ



旧版p53、「川は(中略)不自然なほどまっすぐに流れていた」「細かい砂」という描写があり、芦屋川の特徴に一致する。
そうして、この現実世界の「僕」と「彼女」が歩いた芦屋川近辺の風景を、ほぼそのまま移し替えたのが、「彼女」の語る「街」の描写である。


いくつか、例を挙げていこう。
旧版p48に、「街は一本の川と三本の橋を持ち」とある。
現実の芦屋川には、河口から遡ると、阪神本線の芦屋駅の付近までに、主な橋が三本あるのだ。
河口から順に、鵺塚橋、阪神高速の下の芦屋川橋、阪神芦屋駅の橋梁を越えてその先には、公光橋がある。そのあたりまで来ると、「彼女」の語る「街」の特徴がもっと見えているのである。


芦屋川沿いの教会



旧版p48に「鐘楼と図書館を持ち」とあるが、芦屋川から見えているのは芦屋カトリック教会であり、阪神本線の芦屋の次の駅である打出にあったのは、芦屋市立中央図書館(現在は打出分室)だったのだ。この芦屋の図書館は、作者・村上が少年時代に足繁く通った場所だ。


芦屋市立図書館打出分室(写真はABCラジオ取材班提供)



これだけでも、「彼女」の「街」のモデルとして十分だが、さらにいくつも特徴が一致する。
この「街」にある、「見捨てられた鋳物工場と貧しい共同住宅」というのは、一見、芦屋のイメージに合わないとみられているかもしれない。だが、芦屋市の阪神沿線側には、そういう風景が普通にある。
さらに、この「街」の特徴的な光景を、現実の芦屋に求めると、「時計塔」と「半円形広場」というのがある。これは、JR芦屋駅前広場の様子とよく似ているのだ。


JR芦屋駅前(写真は「芦屋つーしん」より)



ちなみに、このJR芦屋駅前広場の向かいにあるホテル竹園は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』で登場する「僕」の故郷のホテルとラウンジのモデルである。この近辺は、まさに春樹ワールドの原風景だらけだといっていい。
もう一つ、旧版「街と、」には、「街」の「川縁のコーヒーハウス」というのが出てくるが、川にほど近い喫茶店など、芦屋には本当にいくつもある。こういう「街」の細部も、芦屋の風景のイメージそのままだといえよう。


芦屋川の風景



(2)旧版「街と、その不確かな壁」は「鼠」連作の一つといえる


このように、旧版「街と、」の「街」のモデルが芦屋であるとして、それもそのはずなのだ。新作長編の方は作者・村上の70代の作品であることを考えると奇跡のようだが、その元となった中編は1980年の発表だ。これはデビュー作『風の歌を聴け』と続編『1973年のピンボール』に続く、第3作となる位置付けだ。だから文体も「鼠」連作に近いし、本来ならこの旧版「街と、」を「鼠」3作目と呼んでもいいぐらいだと思える。
以下、旧作「街と、その不確かな壁」の中にみられる『風』、『ピンボール』とのつながりをたどってみよう。

冒頭には、『風』と重なる文章がある。
P46《語るべきものはあまりに多く、語り得るものはあまりに少ない。》

※参考(引用『風の歌を聴け』)
《今、僕は語ろうと思う》

また、『風』の「僕」の祖母と同じ言葉を語っている。
P61《暗い心はいつか死ぬ》

※参考(引用『風の歌を聴け』)
《「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない」》

旧版の語りの時点は、『風』の時点から数年後であり、現実に本作を書いている1980年に重なっている。
P47《十年の歳月の後に、ことばは甦った。》

※参考(引用『風の歌を聴け』)
《8年間。長い歳月だ》

旧版の中では、「彼女」が死んだことについての言及がある。「彼女」が葬られた場面はまさしく芦屋霊園であり、そこは『ピンボール』の中の「鼠」のデート場面と重なるのだ。
p49《墓地は丘の上》

※参考(引用『1973年のピンボール』)
《霊園は山頂に近いゆったりとした台地を利用して広がっている。(中略)鼠は霊園の南東の隅にある林の中に車を停め、女の肩を抱きながら》


芦屋市の霊園


『風』の火星の井戸を思わせる描写もある。
p88《まるで深い井戸の底に立ったようだった。》
また興味深いことに、旧作の「街」で、作者・村上の母校である兵庫県立神戸高校を思わせるイメージがさりげなく紛れ込んでいる。
P51《西の壁にはおよそ二十メートルごとに高い望楼が設けられていた。》


兵庫県立神戸高校の校舎には望楼がある


芦屋警察庁舎も望楼のある中世の城砦のイメージ



旧版「街と、」が「鼠」3部作に近い位置付けであることを強く感じさせるのは、「僕」と「影」のやり取りが、ほとんど「僕」と「鼠」を思わせるところだ。
p79《あんたと俺がもう一度一緒になって》
p84《きっと上手くいく。君と俺とがもう一度一緒にさえなればね》
《「決心がつかないんだ」
「女のことかい?」
「それもある」
(中略)
「君はこの世界で幸せなのかい?」
「これまでいたどんな世界よりもね」》
何よりも、旧版「街と、」では、最後が新作『街と』とも、リメイク版である『世界の終り』とも異なるのだ。ここでは僕は「影」と一緒にたまりに飛び込み、現実世界に脱出する。
そうして、ラストでは、『風』に描かれたラジオDJの、スイッチ・オン・オフの言葉が再び書かれる。
P99《パチン OFF》


(3)旧版「街と、その不確かな壁」の描写には性愛も、「彼女」との別れもある


旧版「街と、」の描写には、語り手「僕」の生い立ちを垣間見せる描写も少なくない。
P47《大学時代、水泳の授業で初めて温水プールに入った。》
これは、作者・村上の世代、水泳のプールが今ほどは普及していなかった時代を思い起こさせる。
また、幼い頃の思い出がさりげなく挿入され、その印象は作者・村上自身の生い立ちを彷彿とさせる。
p72
《学校を休み》
《庭の植込みの影》
P86
《まるで遥か昔のクリスマス・ツリーの思い出のように》
このような切れ端の描写のあちこちから、少年時代の作者・村上の生活感が伝わってくる。

もう一つ、新作『街と』とも、リメイク版である『世界の終り』とも決定的に異なるのは、16歳の「君」の本体である「街」の中の「彼女」と、語り手が性愛関係を続けていることだ。
P88
《出会ったのは一六の時(中略)どこかのパーティーの会場(中略)誰かの誕生日パーティー》
p66
《君を抱いた(中略)柔らかな唇(中略)震えていた》
旧版「街と、」で、語り手がみる夢にも性愛イメージがこれでもかと溢れている。
p69
《夢の大半は性交の夢(中略)様々な女》
意外なことに、旧版では語り手だけでなく「街」の「彼女」にとっても、性愛関係がリアルであるように見える。
《やわらかな首筋(中略)固い乳房(中略)なめらかな背中(中略)交った》

さらに注目すべき点は、旧版「街と、」の中にすでに、その5年後にリメイクされる『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の萌芽があることだ。それどころか、作者70歳をすぎてのリメイク版『街と』にまではるかに響いている予告があることには、驚かされる。
旧版の「街」には、「ハードボイルド・ワンダーランド」の、謎の生物やみくろの信仰する巨大魚の原型がいる。
P81
《不気味な姿の巨大な魚が川岸に打ち上げられる(中略)殆んどは目を持たなかった》
旧版に描かれた夢の中の井戸を通じて、新作『街と』で登場する45歳の語り手「僕」の姿を予言している。
同時に旧版の中の比喩が、「ハードボイルド・ワンダーランド」に描かれた「長い廊下」という比喩にも繋がっている。
P89
《僕はそんな想いと一緒にあまりにも長く生きすぎてきた。(中略)そんな想いを捨てるには僕は齢を取りすぎたような気がするんだ。》
《僕の進んでいる長い廊下が出口のない廊下であったとしても、本当の僕自身はそこにしか居ないんじゃないかと思う。》

旧版の中で「街」の「彼女」は、涙を流している。ここでは、「彼女」が「街」にいながら心を取り戻したのではないのか、という疑問を抱かざるを得ない。
そして、注目すべきは、本作ですでに「僕」は、「彼女」に別れを告げているという点だ。
新作長編『街と』の最後で語り手はようやく長年執着した初恋の彼女に別れを告げた、というような解釈を目にしたが、実は1980年の旧版で、すでに「僕」は一度、「彼女」に「さよなら」を言っていたのだ。
p90
《十六の時の私はそんなに素晴らしかった?》
《彼女の涙》
《「さよなら」》

もう一つ、見逃せないことがある。旧版では語り手の夢の中で、『海辺のカフカ』に登場する四国山中の別世界の、謎めいた兵士たちまでが予告されている。『カフカ』はそもそもが『世界の終り』の別バージョンのような読み方もできる作品だ。その兆候は、若書きの旧版「街と、」に明らかに書かれていた。
P87
《兵隊たちの何人かは僕を呼んだ。彼らは胴体の穴からゴボゴボという音を立てて僕を呼んだ。》


(4)旧版「街と、」を封印して大きく変わった村上春樹の方向性

ここから先は

2,685字 / 3画像
この記事のみ ¥ 0〜

土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/