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土居豊の文芸批評その2 村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?

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土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?


※写真は全て土居豊の撮影です

※前段まで
土居豊の文芸批評その1
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作 1


(続き)村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版と新作 2

土居豊の文芸批評その3
村上春樹『街とその不確かな壁』のオリジナル版中編「街と、その不確かな壁」を読んで、「街」のモデルを特定した!




土居豊の文芸批評その2
村上春樹『街とその不確かな壁』の彼女の正体は?
(1)彼女の正体は、直子?


村上春樹新作長編『街とその不確かな壁』(以下、『街と』と略称する)のヒロインである「彼女」・「きみ」の正体が、あの「直子」の同類であることは、古くからの村上読者には明らかだろう。
この「彼女」が最初に登場したのは、そもそもが『ノルウェイの森』(以下、ノルウェイと略称する)よりも先なのだ。最新長編の元の形である中編小説「街と、その不確かな壁」(以下、「街と、…」と略称する)が雑誌・文學界に掲載されたのが1980年で、発表の順番からいうと第2長編『1973年のピンボール』(以下、ピンボールと略称する)の次に当たる。「直子」という名前の少女が初めて村上作品に登場したのがピンボールだから、「街と、…」の「彼女」もまた「直子」の同類であることは、この中編を読めばすぐにわかるはずだ。なにしろ、この中編バージョンの「彼女」は、最新長編版の「彼女」よりもずっと実在感があり、作者が実際に誰かモデル(複数であろう)を想定して描いたためか、いきいきとしていかにも16歳の女子高生そのものだからだ。
中編版「街と、…」での「彼女」は、その後のノルウェイの「直子」の原型でもあり、村上作品に何度も繰り返し登場する高校時代の彼女と思しき少女の、一つのバリエーションである。ちなみに、この少女が女子高生として描かれたのも、中編版「街と、…」が初めての例だということも、注目に値する。同じ女性を想定して描いているのだとしても、デビュー作『風の歌を聴け』(以下、『風』と略称する)の3人目の彼女は仏文科の女子大生であり、2作目のピンボールの「直子」も、20歳の大学生と思われる。その次に発表された「街と、…」でようやく、16歳の女子高生として登場する「彼女」こそ、作者が心にずっと留めている大切な誰かのイメージを、もっともよく反映していたのではなかろうか。
この、春樹作品のヒロインのオリジナル形というべき少女は、はたして実在したのだろうか?
この問いは、無数の研究者・批評者が、村上作品を半世紀近く読み解いてきた歴史の中でも、何度も問われ続けている。実のところ、村上研究の関連本の中でも見過ごされていそうな1冊に、そのことはズバリと回答されている。同志社高校の国語の授業での調査・発表をまとめたこの本(というより冊子だが)の中で、村上春樹とほぼ同じ時期に兵庫県立神戸高校に在学していた同窓生たちが、母校の教員となっている人も含めてインタビューに答えている。その回答の中で、春樹氏の同窓生たちは、全く口が軽いとしか言いようがないが、実に赤裸々に高校時代の春樹氏の様子や交友関係、恋人だったと思われる神戸高生のこともしゃべってしまっているのだ。おそらく、高校生から授業課題のためにインタビューされたということで、ついつい余計なことまでしゃべってしまったのだろう。
また、実をいうと私自身も、春樹氏の小学校時代の同窓生から似たような話を聞いたことがある。その人は立派な経歴を持つ社会的地位の高そうな人物だが、たまたま知り合った私に、わざわざ古い写真を見せてくれ、「これが村上春樹の彼女だった人だよ」などと教えてくれたのだ。私は、そんな話を聞きたくなかったので、話半分に聞き流し、その写真の彼女がどこのどんな人だったかも、今はもう忘れてしまった。
いずれにせよ、この件の真否は、おそらく作家・村上春樹が鬼籍に入ったのちにしか、明らかにならないだろう。


(2)「街」の彼女は「直子」であり、その原型はおそらく実在(複数かもしれないが)する


そうであっても、デビュー作『風』から最新長編までずっと読み続けた読者にとっては明白なはずだ。最新長編『街と』の「彼女」は「直子」と同族であり、その原型はおそらく、作者の身辺に実在した誰かをモチーフとしているに違いない。
ただ、それがどこの誰だったか、そんなことは今は知りようもないし、それを知ったからといって、村上作品の値打ちがどう変わるものでもない、というのもまた間違いないことだ。
『風』の死んだ彼女、3番目に寝た女子大生は、ピンボールで初めて「直子」と命名された。この「直子」は、次の「街と、…」の「彼女」ともノルウェイの直子とも出自が違っていて、関東地方の出身だ。父親が元・仏文学者で、1961年に関東平野の郊外の町に転居してきたことになっている。
その後、この20歳の死んだ女性はノルウェイの直子として転生し、村上作品の数々のヒロインとして生まれ変わり続けている。
順番としては、ピンボールの次に書かれたオリジナル版「街と、…」で登場した「彼女」が、直子と命名された20歳の女性の最初のバリエーションということになる。その原型を40年後に書き直した今回の新作長編『街と』でも、この女性はほぼ変わらない姿で「きみ」として描かれている。その間に過ぎた年月と、数々の小説で同族の女性たちとして描き分けられてきた歴史を想像してみてほしい。70歳を過ぎた老作家が、自身の10代の体験に深く関係したであろう少女のモチーフを、いまだにあれほどみずみずしく心の中に生きさせており、改めて長編小説に描きだしたというのは、同年代やその上の世代の日本人作家たちと比較しても、驚くべきことだといえる。その事実に、なんとも言い難い厳粛な何かを感じるのは私だけではないだろう。



ところで、この「彼女」の原型である女子高生の少女には、いくつかのバリエーションがある。大きく分けて2つのパターンで出てくるが、それはまるでバッハの「インヴェンション」みたいな感じで、2つのテーマがさまざまに変奏される楽曲のようなイメージだ。
まず、一人目を仮にA子と呼ぼう。
A子パターンは、作者の分身らしき語り手と同じ高校の女子であり、高校時代から付き合っていて(あるいは親しい友達で)、語り手が大学進学して東京に行ったあと、死んでしまうか消失してしまうことになる。
もう一人のバリエーションを、仮にB子と呼ぶ。
B子のパターンは、これも作者の分身と思しき語り手と高校時代とても親しい関係だったが、在学中になんらかの理由で関係がまずくなり、その後離れてしまった女子である。こちらも、その後死ぬか不幸な人生を歩んでいるということになっている。
これらの、大きく分けて2種類の「彼女」のパターンを、以下詳しくみていきたい。
A子は直子のパターンであり、B子はイズミ(『国境の南、太陽の西』)や、「ウィズ・ザ・ビートルズ」(『一人称単数』所収)のサヨコのパターンだ。この2種類のパターンのどちらにも、原型となる女性が実際に存在していたと私は推理している。その根拠として、ここであえて下世話な話を少しだけしておこう。
A子の場合は、前述した神戸高校OBたちの談話から考えて、おそらく本当にモデルの女子生徒がいたのだと考えられる。そのモチーフは、直接そのままではなく、複数の人物像を取り込んで変形し、ピンボールの直子として登場したのだろう。その後、時期的に近接して書かれた中編「街と、…」でも、「彼女」として描かれたのだと思われる。
一方、B子の方も『国境の南、太陽の西』(以下、『国境』と略称する)のイズミのように、作者の高校時代に恋人か親しい友達だった女子高生がおそらく存在したのだろう。こちらの根拠は、意外なところにあった。村上春樹と安西水丸のエッセイ『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』(新潮社)の中で語られた、高校時代の同級生とのエピソードから、それがわかるのだ。
そこで語られた話は、どうやらこのエッセイに書かれるまでは一切知られていなかったエピソードらしい。春樹氏と神戸高校で同級生だったこの女子高生は、『国境』のイズミのイメージに近く、また「ウィズ・ザ・ビートルズ」のサヨコにも近い。この女子高生は春樹氏の故郷・芦屋からほど近い神戸市内の、元の被差別部落の出身らしいことが書かれている。エッセイの中で、春樹氏は高校時代のこの出来事がきっかけで、被差別部落の存在を初めて知ったと書いている。その同級生の女子との付き合いがその後どうなったかは書かれていないし、それどころか、これは真偽不明だが春樹氏はその子の名前がどうしても思い出せない、と書いているのだ。何か運命的な、奇妙な出来事だと言わざるを得ない。
この女子が元となったと考えられる『国境』のサブヒロインキャラ・イズミが住んでいたのは、語り手の家とさほど離れていない、阪神間と思われる新興住宅地だ。だからイズミの場合は元の女子の出自とは完全に違う存在になっているが、付き合い方と、気まずい別れ方の点で、どこか関係がありそうな印象を受ける。
もう一人、「ウィズ・ザ・ビートルズ」のサヨコは語り手の故郷にある海辺のラジオ局、つまり神戸市のラジオ関西の、当時は須磨にあった放送局の近くに住んでいる。サヨコの物語も、元となった女子とは違う出自にしてあるが、高校生だった時の作者自身と関係性がどこか似ているのだ。エッセイに書かれた女子のエピソードと、2作の小説に描かれた女子キャラとを結び合わせてみると、イズミもサヨコも、高校時代の春樹氏が知らずに傷つけてしまった彼女とだぶってみえてくる。
このように、B子のパターンは高校卒業後に亡くなってしまうとか、生きていても不幸な人生を歩んでいるとかいった、マイナスな感じのバリエーションで何度も描かれる。繰り返し描かれるこのパターンは、作者・村上が心に潜めた若き日の罪悪感の表出であると考えれば、腑に落ちるのではなかろうか。
一方、B子パターンに対してA子の方は、高校卒業後に自殺してしまうという展開で描かれるパターンである。こちらは、作者・村上にとってあまりにも衝撃的な運命だったと感じさせる。おそらくは、一生心から消えない永遠の存在と化しているのだろう。もちろん、現実にはどの程度の関係性だったか、それはわからない。けれど、心残りという意味では、一生引きずるような存在だったことは疑えない。



(3)村上春樹作品のヒロイン、その正体


このA子のモデルがいたとして、実際に死んでしまったかどうかはどちらでもいい。その存在が作者・村上の心にいつまでも残っていて、70歳を過ぎてなおその姿を作品中に描き直したいとまで思うほどの、運命的な少女だったということだけが大切なのだ。
ここから先は、私の想像に過ぎないのだが、おそらくはこの少女の存在を現在の村上夫人も昔から知っていたのではないか。
直接会ったことはなかっただろうが、夫人が大学時代に春樹氏と出会った頃から、その少女が青年・春樹の心に棲みついていることは、ずっと感じていたのではないか。
村上夫人は、青年時代の春樹氏の書いた『風の歌を聴け』の元となる草稿を読んで、面白くない、とそっけなく退けたという。春樹氏と同じ大学で日本文学を専門に勉強したという夫人は、実際に小説の読み巧者だったらしいので、このエピソードはなんとなく納得しそうになる。だが、彼女の存在について知っていた夫人にとって、はたしてそれだけで済んだのだろうか? 小説に書かれた春樹青年の青春の呪縛のような心情を、読み巧者ゆえに的確に読み取ってしまうことで、どうしても嫉妬したということはなかっただろうか。
もちろん、これは下世話な想像で、大きなお世話なのは承知している。けれど、その後も村上夫人は、よく知られているように春樹氏の草稿を一番最初に読んで批評する人物だ。春樹氏も、夫人が草稿を手厳しく批評することがわかっていながら、あえてその目利きを信頼して初稿を読ませてきた。この習慣は、偉大な作家となってのちも変わらなかったらしい。
これもまた、想像に過ぎないのだが、春樹氏が夫人の目利きに重きを置いていたとしても、はたしてそれだけだろうか。年齢を重ねてなお、夫人の知らない青春の思い出をずっと小説に書き続けることについて、やはり後ろめたさのようなものが心にあったとはいえないだろうか。高校時代に親しかった少女のことを中年になっても引きずっている自分を、小説の草稿という形であえて妻にさらけ出してみせる行為は、もしかしたら禊をし続けていることにならないだろうか。
村上作品には、夫人をモデルにしたと思えるような女性も登場する。だが両者を比較すると、どうしても、作品中で最も大切な存在はA子(あるいはB子)の方である。妻をモデルとしたと思しき女性キャラは、永遠のヒロインたる直子、その原型の女子高生の彼女にはどうしても負ける感じがする。
もちろん、読者によってその印象は異なるだろう。しかし、『ノルウェイ』のヒロインはどうしても直子の方であり、今回の新作長編『街と』の「彼女」も、オリジナル版の中編「街と、…』の「彼女」も、そのキャラのイメージは村上夫人というより、もっと儚い印象の謎めいた薄幸の美少女なのだ。このような村上作品のヒロイン像が、繰り返し描き続けられていること自体が重要である。
現実に、村上夫妻の間でどういう心のやり取りがあったかという下世話なことは、むしろどうでもいい。事実上、小説自体が村上文学の主要なヒロイン像を、おのずから決定づけているのだから。
村上作品のヒロイン類型を比較すると、A子バージョンは永遠のヒロイン像であり、それとは似て非なるモチーフであるB子バージョンは、謎めいた青春の悔恨の象徴だといえる。ところが、大人の女性キャラたちは、どうしてもA子やB子よりも脇役的になっている。
『ノルウェイ』の緑は唯一、プリマドンナたる直子に対抗する第2のヒロインとしての存在感がある。だが、これは例外的だ。『ダンス』のユミヨシ、その他の作品の大人女性キャラたちは、物語のヒロインとなることはなく、脇役として語り手を支える役回りを持たされている。
あえて妄想めいたことを、本稿の最後に書いておこう。この脇役女性たちのパターンは、作者・村上がデビュー作の草稿段階から夫人に求め続けた役割と同じであり、おそらく生涯続けられるであろう介添としての役割なのではなかろうか。

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土居豊:作家・文芸ソムリエ。近刊 『司馬遼太郎『翔ぶが如く』読解 西郷隆盛という虚像』(関西学院大学出版会) https://www.amazon.co.jp/dp/4862832679/