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新潟日報に長男くんの不登校について記事掲載されたことの感想をもらって思うこと

ボクや長男くんだけに限らず、家族で暮らしている新潟県には新潟日報と名のつく地場の新聞社があります。

先般、こちらの新聞社さんから長男くんの不登校に関して取材を受けた記事が掲載され、読んでいただいた方々からは感想をいただきました。感想を送っていただきましたみなさん、ありがとうございます。

もちろん、感想をくださる方々の多くは不登校の当事者や不登校に理解のある人たち、もしくはまったく当事者ではないけれどボクの友人や知人、つまりはお付き合いのある方々が中心ですから、偏ったものではあるのは理解しています。

これまでに当事者なりに抱える課題感や意見をnoteの中で書いてきましたが、やっぱり反対意見に出くわすことは多くありません。しかし、不登校となっている子どもたちやそれを許す親世代に向けて批判的な物言いをしたくなる人たちが一定数いるのも理解しているつもりです。

今回は、ボクの手元に届くポジティブな感想に対するお礼だけでなく、ネガティブな感想をお持ちの方々に向けて話しかけるようなつもりで書いていこうと思います。

どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。

感想に対するお礼

まず、新聞に掲載された連載記事の第一回目として我が家を取り扱ってくれた担当記者さんには感謝していますし、掲載の判断をいただいた編集長などにも御礼申し上げます。

実際に記事を読んでくださった方々からの感想はTwitterやFacebookといったSNSでオープンに書き込んでくださる方もいらっしゃれば、DMを送ってきてくれる方々もいらっしゃったりして、どれも感謝の気持ちでいっぱいです。

感想の内容は冒頭でも記載している通り。

ボクに向けて投稿したりDMを送付したりするぐらいだから否定的な意見が届くことはありませんでしたが、「読む」「感想を送る」といった二つの過程を経ることを乗り越えてくださったことには本当に感謝しかありません。

感想をくださったみなさん、本当に本当にありがとうございました。

不登校って事象を受け取ってほしいし否定しないで欲しい

感想の中に「自分が授業を受けてきた経験の中で、"画一的な授業展開についてこれない人間なんているはずがない"と思っていたけれど、本人の特性や性質によっては現実としてあるのだろうし、それを思うととてもツラくなった。」(意訳)といったものがありました。

かなり想像力を働かせてくださって記事を読んでくれたことがわかる感想をもらい、うれしいのと同時に、不登校に対してネガティブな情報発信をしている人たちや(具体的に何がとはいいませんが)不登校を食い物にしようとする人たちに向けて理解してもらいたいことがあります。

ボクは自分自身が短期間ながらも経験した当事者であるのと同時に、現在は一緒に暮らす子どもがそうなった当事者です。

なぜ、不登校のような状態に陥ってしまうのか。
そこに向けて周囲の大人はどんな態度をとった方がいいのか。
逆に、どんな態度をとってもらうと"安心できる"のか。

他の事例は知りませんし、ボクも含めたらn=2でしかありませんが、少なくとも当人が安心して暮らせる状態を確保するために必死です。安心して暮らせる状態がなければ学びも成長もありません。

自らが出向く場所に恐怖感を覚え、毎日、そこで過ごすことに安心感を抱くことができないのであれば、そこへ出向くことを躊躇するなんて当然のことでしょう。

仮に、命の危険があるとわかっている現場へ毎日通うことを強いられたら大人だって挫けてしまうはずでしょう。大人の場合は「仕事だから」といって割り切れる部分もあるでしょうが、教育に関する義務は保護養育する大人が「受けさせる義務」を負うものであって、子どもたちが負っているものではありません。

いくら背中を強引に押したり、腕を引っ張って学校に引きずって行ったとしても、現在は学校側もそんな強硬的な態度を取りもしませんし、たとえ、そうやって保護養育の責任を負う人が懇願したところで受容されることもないのです。

大人ができることの根幹は、子どもたちに向き合うことではなく、彼らが安心して過ごせる場所を自覚することでしょう。その用意もおぼつかないのであれば、ボクは親って役割を辞さなければなりません。それができる人が担うべきです。

親ってのは、あくまでも役割でしかなく、子どもは子どもで別の人格を保有する異なる存在だってことを前提にすると、フラットに向き合わないと行けないのではないかとボクは思うのです。

長男くんはがんばってます

記事が出た当日、長男くんは特別支援級での授業受講を体験しました。

帰ってきた彼は「いいところで安心できた」とにこやかに話してくれ、「学校で授業を受けられたこと」にほんの少しの自信を抱いたようでもあったことが、ボクや妻さんとしては本当にうれしかったのは言うまでもありません。

「学校に行けたこと」や「学校で授業を受けられたこと」がうれしかったのではなく、彼が自信を得たこと、それまでに挫けてしまっていたことに立ち向かい、それを乗り越えたことがうれしいのです。

学校に近づくことも、学校の中に入ることも決して嫌ではないし、何なら運動会に参加して徒競走を走ってしまうぐらいに学校やクラスメイトが好き。

だけど、授業を受けると自分だけが取り残されていくような絶望を何度も何度も体験してしまったことから、自尊心や自己肯定感などが低められ、結果的に「学校に行くことが怖い」といった事象になった"だけ"。

ほんの数年、画一的な授業を受けることができなかったことによって、それほど大きく人生が悪い方向に行くはずもないでしょう。仮に取り戻そうとするのなら、それはそれで応援してあげたいと思いますし、ただ付き合う"だけ"です。

長男くん、がんばってます。

おわりに

今回の取材を受け、それが記事になってみたことで、一点、感じたことがあります。

やっぱり「不登校」って表記が嫌いってこと。

大人が勝手につくりあげたラベルを貼り付けてしまうような言葉であり、そこから連想する「学校に通うことができない」といったネガティブな印象がどうしても納得できません。

学校に行くことが「普通」なのだとしたら、学校に行けないことは「異常」なのか。その異常なことをしている子どもは「異常な性格や特性を持っている存在」なのか。

この辺も、少しは見直さなければならない時期に来ているんじゃないだろうかなぁ…とか思っているn=1でした。

ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)


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