W杯で感じた"せつなさ"のお話

先日、ぼくたちの代表であるサッカー日本代表が2018年W杯で決勝トーナメントでベルギー代表と闘い、健闘の末に敗退しました。

戦評だとか、戦術だとかにこだわって記事を書けるような立場にないというか、文章にするだけのことばが出てこないのでそれについては書きませんです。いや、書けません。

率直にぼくは今回のW杯が開幕するまで、それほど気にしてなかったというレベルではなく気にしていませんでした。

むしろ興味がわかないぐらいに思ってしまっていた部分があり、そのもどかしい気持ちをnoteで書いたぐらいです。

以前に書いたエントリの最終的な結論として「ぼくのせいだ」ということで結論づけています。

その理由に深い意味はなくて、スポーツビジネス的に考えるとチームや業界を支える収益要素は大きく3つ。「チケット・物販・広告」となります。

特に「チケット」と「物販」というのはスポーツを観る人や支える人たち、する人たちが価値を感じたからこそ対価を払い、足を運んだり物品を買ったりする直接的な因子です。

それでいうと、そもそも購買行動をとっていないということは普段からサッカーを観にいく習慣だとか慣習を自分の生活に組み込んでないわけで。

そんな状況で、いきなりW杯だからって興味が湧くかっていったら湧くわけないじゃん!て話なんですよ。

で、それをなんだか日本代表の選手だとか監督だとか日本サッカー協会のせいだっていうのは違うんじゃないかなぁ、と思ったわけです。

なので、日本代表にワクワクしないのはぼくのせいであり、日本に住む人たち個人のせいだというのがぼくのいいたいことなんですね。

で、今回のタイトルにしている『せつなさ』というのは二つの意味があります。

苦しいだとかさみしいという意味で使われる『切ない』と、極めて短い時間という意味で『刹那』をかけています。

今回の日本代表が敗退したことに対して寂しいと感じたことと、プレーというのは刹那的な時間が積み重なっているんだということを改めて認識したということが『せつなさ』ということばをぼくに選択させてくれました。

今回、なんだかんだといいながら気にしているというか、あの舞台で国歌が流れることに対して、すごく誇らしく思えましたし、その瞬間にスイッチが入ったのがとても印象的でした。記事にもしてます。

日本の国家である「君が代」を世界の国々が目指す舞台で流れることは、その各地域からの代表枠を勝ち取った日本の代表がいることを意味しますよね、当然です。

その舞台に夢と誇りを持って挑む選手たちはぼくたちの代表ですから、その選手たちに希望と誇りを抱くのも当然の帰結だったように思います。

サッカーが好きな人たちの集まりではなく、国という看板を背負ってサッカーという方法で他国と国の威信をかけた闘いをしてくれる人たちな訳で、その人たちがうまくできなかったとしても、受け入れるしかありません。

グループリーグ第1戦、相手選手が10人での試合を開始まもない時間帯に得ることができ、有利な展開になるはずだったコロンビア戦も。

タフな闘いを強いられながらも、なんとか盛り返そうと躍起になって追いついたセネガル戦も。

W杯の決勝トーナメントに勝ち上がるために、サッカー規約にも立ち向かい、他国や自国内からも批判が出ることをも受け入れ、グループリーグ第3戦のポーランド戦での残り10分間も。

誰もが「まさか」という時間をプレゼントしてくれた後にベルギー劇場を用意することになってしまった決勝トーナメントでの闘いも。

あの舞台で選手たちが披露したプレーの数々は、ぼくたちそのものであり、ぼくなんですよ。

日本代表が敗退することで、ぼくたちのW杯は終わりました。大会はつづけど、ぼくたちの舞台はそこにありません。そこに寂しさを感じますし、残念な気持ちにもなります。

そして、国に対しての誇りをこれほどつよく感じることができるのは他にオリンピックの時ぐらいでしょうが、オリンピックだと競技数が多いことからにわかファンのような広がりを見せることは難しくなります。

刹那的とはいえ、日本という国に対して誇りを抱ける時間を他人と共有できる時間をくれるのがW杯なのかもしれませんし、それに対して喜ばしくもあり嬉しさも感じました。

それもこれも、ぼくたちの代表である日本代表のおかげです。

感謝しています。そして、これからも期待しています。

楽しかった。

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