少子化のいま、特別支援級や特別支援学校を選ぶ子どもが増える理由の一端について。
どうも、ゑんどう(@ryosuke_endo)です。
特別支援級や特別支援学校って聞いた時に、身構えるというか「あ、"特別な子たち"のために用意されている場所なんだな」って考えてしまう人ってどれだけいるんでしょうか。
ぼくが小学校に通っていた頃は1990年代の中頃までで、ちょうど「ゆとり教育」がはじまる手前でした。その頃、新潟の片田舎にある小学校にも「特別支援級」ってのは存在していましたし、近所の子どももそこに通っていました。
当時の大人たちは「特別支援級」と口にするたびに、なんだか重く苦々しい表情を浮かべながら「いじめたりするなよ」とだけ添えていたことを思い出します。
まさか、当時のような穿った見方をしている大人が多数派だとは思いたくないものの、どうしたって「特別支援級」って名称が穿った味方を助長する形になってしまっていることは否めません。
今回、なぜ、このような内容にしているのかというと、以下の記事が目に飛び込んできたから、内容も含め、とても真摯に伝えようとする姿勢を感じ取ることができました。
特に記事内で大阪府立羽曳野支援学校校長としてバリバリの当事者である東野 裕治さんが「新たな逆転現象」としながら以下のように文部科学省の統計を紹介している点に目を引かれます。
かくいう、我が家も特別支援級へ在籍している児童と生活をする世帯です。過去には、それに関する率直な意見や実情を記載したnoteを書いていますので興味がある方は覗いてみてください。
特別支援級が持つ教育的意義
まず、教育を統括する立場にある文部科学省は、「すべての子どもたちに、その能力を十分に伸ばす機会を提供する」という観点から、特別支援教育の推進を図っています。
特に、教育の機会均等については多くの大人というか、通常級に通っていることが"普通"だと認識している保護者のみなさんには「本当にそうなのか」を一度考えてみてもらいたいところです。
ぼくのnoteを読んでくださることの多い方はご存知でしょうが、我が家にはASD(自閉スペクトラム症)傾向のある男児がおり、彼は通常級での授業を受けることが困難な状態となったために不登校となりました。
教室で授業を受けることが彼にとって大きなストレスとなり、心理的な臨界点を超えてしまった結果、教室で座っていることに恐怖感を覚えるようになったことにより、転じて学校での居場所を見出せなくなったことが起因だと思われます。(真因は定かではありません)
「不登校は甘え」だとか「不登校を選択している」と思われる人の母数が多いのか少ないのかは知りませんが、少なくとも「学校に通いたいと思っているのに通えない」と泣きながら訴える子どもを目の前にして、そういった大人じみた他人事な評価をすることなどできるものでしょうか。
学校に通えないからといって学習面でいうと通信教育もありますから、どうにかして補えることはあるでしょう。でも、学校の存在意義ってのは学習面はもちろん、社会生活面における機会を提供する"場"ではないでしょうか。
不登校となった途端、そういった機会から断絶されてしまいます。それが1ヶ月、3ヶ月、半年、1年と経過していくに従って、そういった場での経験値を得ることができていないことに対し、世帯を共にし親って役割を担う立場としては本当に焦燥感を抱かざるを得ません。
発達に遅れがあろうが、障害があろうが関係なく、彼らには通常級(交流級)へ通うことができている子どもたちと同じような機会に与えられるべきだし、恵まれるべきです。
いわゆる"普通"と見られている子どもたちと比較し、教育の機会が損なわれてしまうことを避けるために存在するのが特別支援級であり、障害等の程度によっては特別支援学校を選択することができること。
そんな風に選べることが大事なのであって、それこそが特別支援級や特別支援学校の存在する教育気的意義だと言えるでしょう。
少子化で発達障害の子どもが増えているに関する私見
上記で紹介している記事内でも「特別支援教育」を受ける子どもの数は、同じ時期に25万1000人から48万6000人と、約2倍となった内訳としてADHDやASDなどの障害を抱える子どもたちが増え、知的障害と自閉症・情緒障害を抱えている子どもたちが特別支援級や通級指導を選択している点が紹介されていました。
同時に、世間の目が厳しくなったことを受け、通常級では腫れ物扱いを受けてしまう子どもたちがいることも紹介されており、ここは保護者の認識を改めることで解決しそうではあるなと思うのと同時に「無理だろうな」と思わざるを得ないところもあります。だって、大人たちって「普通」とか「常識」って誰に言われるでもない認識に囚われるのが大好きだから。
知的障害や自閉・情緒障害の子どもたちが増えたことの要因として、当事者ながら思うことは、発達障害への認識が向上していることと、診断技術が進歩していることが考えられ、社会的な認知を得られてきているからこそ、それを気にした大人たちが医療機関や支援機関を通じて子どもたちの状態を把握することができるようになったことは大きいでしょう。
それだけではなく、それらの障害や課題を抱えている子どもたちは少なからず通常級に在籍しているとトラブルが発生し、その中心にいたり、常にトラブルに巻き込まれる機会がどうしても増えてしまいます。
どうしたって理性よりも感情が先走ってしまう子どもたちのやり取りに合理的配慮などが取り入れることが難しいものでしょう。学年が低くなればなるほどに、そういった成熟した対応などできるはずもありません。(できる子もいるでしょうが…)
そういった社会交流の点で課題があるだけでなく、学習面においても課題が多くなってしまい、結果として授業についていくことができなくなって心理的に脱落してしまうこともあります。いくら担任の先生が授業中に合理的な配慮をするからといっても、他の児童が十名、二十名と在籍している中で常に合理的な配慮をやり続けられるのかというと無理ゲーなわけです。
そんな実情をどうにかしたいと考えている保護者と教員が相談を重ね、一縷の望みをかけるのが通級支援や特別支援級、特別支援学校。
特別支援学級は少数で運営されるクラスで、学年が同じ子どもたちが揃うこともあれば、異学年でまとまっていることもあり、少なくとも学校に通うことができない状態よりは社会交流の面で母数が確保できますし、それぞれの学習進度や理解度に合わせて微調整を行いやすくなります。
上記の記事内で触れられている通り、高等教育への進学数や率が増えているといった数字は、こういった合理的な配慮や支援をしてくれる存在がいるからこそ、子どもたちが学習面での自信を持つことに繋がり、自らの希望や願望を叶えるための努力を行えるようになったからこそでしょう。
おわりに
特別支援級の教職員のみなさんは、それぞれに課題や障害を抱える子どもたちを相手に思考を巡らせ、どうやったら的確な対応となるのかを模索しながら子どもたちに向き合ってくれています。
もちろん、通常級の担任をしている先生方も多くの児童を相手にすることから大変なのは理解していますが、その大変さを生み出していることが果たして正解なのかというと、教員の長時間労働などが社会問題として認識されるようになってきましたが、まだまだ改善の余地があるでしょう。
そうなった際に、特別支援級などの支援級が拡充されることとなることも決してあり得ないことではありません。通常級に在籍しているからといって、「何も問題のない」子どもなんていませんから。
何かしらの課題や障害を抱えている可能性がある子どもたちが存在していて、その子たちに個別最適な対応を求められるのであれば、大人の数が必要となってきます。
そうなった時に、大人の手は数が足りるのかってことは気になりますが、それはまた別の機会に考えることとします。
ではでは。
ゑんどう(@ryosuke_endo)
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