我が子を亡くす親の絶望に思いを寄せる
私は米国ボストンで小児集中治療医として働いています。フジテレビ系でドラマ化された PICU 小児集中治療室 が僕の職場です。この題材を取り上げていただき嬉しく思いました。病気、怪我の子供を救うとてもやりがいがある仕事です。しかし、一方でたくさんのこどもを看取ります。たくさんです。そんな日常の中で私が一番辛いのは、こどもを失ってしまった親の絶望に自分の心が同調する時です。
私自身、2人の子供を持つ父親です。親にとって人生の中で考えうる最大の悲劇は我が子を亡くすことでしょう。
誰もそんなことは考えたくはありません。しかし、現実にその経験をする親が毎年何千人もいるのです。何歳になっても、たとえ成人した後でも、自分の子供を失うことは想像を絶する苦しみですが、僕が日常に目にするのは、死産、事故、自殺、小児がんの末期、医療的ケア児として世話をしてきたけれど持って生まれてきた病気が悪化、など状況は様々ですが希望に満ちた将来を想像していた命を失い、絶望渦巻く深い闇の中に落とされる親、家族です。
米国の精神科医であったエリザベス・キューブラー=ロスが提唱した
「死を受容する感情の5段階」
というものがあります。人が自分の死が避けられないと宣告された時に経験する悲嘆の感情の過程を5段階で表現したものです。
否認ー自分が死ぬことは嘘であると疑う
怒りー「なぜ自分が」という怒りを周囲に向ける
取引ー死を避けるために、医療以外の解決方法にすがろうとする
抑うつー絶望し、抑うつ状態になる
受容ー自分が死ぬことを受け入れる
ただし、この「死の受容プロセス」は、もともとは大人が自分自身の死を受容していく過程を記述したものです。現在は広い枠組みで、大切な人と死別した時の悲嘆を乗り越えるグリーフケアとしても利用されていますが、最愛の我が子の死に直面した親の極限的な絶望に当てはまるでしょうか?
僕は難しいと思います。
当てはまる部分もありますが、特に「受容」は難しいでしょう。理解しようとしても、たとえ何年経った後でも、我が子の死を受け入れたと言えるお母さん、お父さんは少ないのではないでしょうか。
この5段階にいくつかの他の段階を加えた受容プロセスも提唱されています。
罪意識ー親である責任感から自分たちを責める傾向はかなり高くなる
希望ー負の悲しみが少しずつ和らぎ、前向きな希望を見つける
僕は、「受容」は無理にしなくても良いと思います。悲しみと向き合いつつも苦しい記憶を少しずつ忘れることで、前向きな気持ちを増やしていけば良いんです。絶望から抜け出せず、極度の抑うつが続くと自殺の危険も高まります。忘れることは人間が生きていく上でとても大事な能力です。ここでの「忘れる」とは、死別に伴う否認、怒り、罪意識などの負の感情が徐々に軽くなり、前向きな感情が増えること、と捉えてほしいです。
米国では、故人の名を冠した基金やNPO団体を立ち上げ、病院に寄付募金活動をしたり、難治疾患に対しての研究費助成を行ったりする遺族はたくさんいます。その亡くなった方の人生を前向きに捉えて、短く終えた命であったけれど、必ず意味があったのだし、祝ってあげたいと希望を見つけるのです。
他人に亡くなったこどもとの思い出を話すことだけでも良いのです。その子の人生を肯定してあげてください。その子と過ごした時間を大切に思ってください。
私の経験から話をさせていただくなら、死を迎える前にどういう風に時間を過ごしたかは、死の受容プロセスで前向きな段階になることに役立つと思います。特に、こどもホスピス、こども緩和ケアのサービスなどです。
日本では全く足りていない分野です。
この投稿を読んでいただいているほとんどの方は、我が子を失う絶望に直面しなくてよいですし、しないことを願っています。
でも、どこかにいる我が子を亡くす絶望に直面しているお母さん、お父さんに思いを寄せることで、自分の子供への愛を確認し、幸せを実感してほしいと思います。
僕が看取ったたくさんの #こどもに教えられたこと です。
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